- ナノ -


(3話)



 病院のベッドで横たわったまま、ぼーっと窓の外を見つめる。


 ――右膝十字靭帯断裂。それが俺に下された診断だった。


 医者から言われた言葉たちが、繰り返し浮かんでは消えていく。筋肉のつき方がどうだとか、選手生命がどうの、リハビリがどうの。
 頭が上手く回らなくて、何から考えたらいいのか分からなかった。

 ただ一つ分かるのは、今までと同じように走るには、かなり時間がかりそうだということだけだった。時間をかけても、前と同じレベルにまで戻せるのかも分からない。
 ひょっとしたらもう走れなくなるかもしれない。ピッチを駆け抜ける快感を全身で感じることも、もうないのかもしれない。
 そんなことになったら、俺はこの先どうやって生きていったらいいんだろう。


 ……俺にはサッカーしかないのに。



 ――コンコン。


 部屋に高めのノック音が響く。母親が見舞いに来たのかと思ったが、扉が開く気配はない。

「……どうぞ」

 ゆっくりと扉が開き、顔を見せたのはミョウジだった。彼女は小さく頭を下げてから、そっと病室を見回した。

「入ってもいい?」

 問いかけに頷いて答えると、彼女は再びペコリと頭を下げてから部屋に入って紙袋を一つ差し出した。

「これ、休んでる間のノート。コピーしてきた。あと、千切君の好きだって言ってたやつ。あと……コレは暇つぶし」

 渡された袋を受け取って中を覗くと、ノートのコピーらしきものが入ったファイルと、俺の好きなかりんとう饅頭、それと本が数冊入っていた。なんだかゆるい感じの動物らしきキャラクターが描かれている。

「サンキュ。……漫画?」
「うん。……入院中って時間が経つの遅いから。ものすごーく暇な時に、頭空っぽにして読めるやつを持ってきてみた。私のお気に入り。よかったら読んでみて」
「ありがとな。……座れば?」

 ベッドの傍に置いてある椅子を指差して着座を促すと、彼女は「ありがとう」と言って座った。

 話したのは他愛もない話ばかりだった。クラスの誰々がどうの、数学の授業がどうの。彼女は部活のことは話さなかったし、足のことも聞かなかった。気を使ってくれているのだろうと思ったが、正直ありがたかった。
 自分でも分からないことを、どうやって話していいのか分からなかったからだ。

「……猫、元気?」
「うん。でも千切君に会えなくて寂しそうだよ」
「アイツがそんなタマかよ」
「寂しいよ」

 私も寂しい。なんとなく、そう言われた気がした。

「動画撮ってきたよ。見る?」
「お、見る」

 二人して無言で動画を見た。画面からはあやしているらしい彼女の声が聞こえたが、猫は相変わらずマイペースで、暇そうにあくびを噛み殺したり、寝転んで飛んできた蝶と戯れたりしていた。

 ……可愛かった。

 動画を眺めている間は二人とも無言だったが、沈黙が続いても不思議と気まずくはなかった。まるで空き家で猫を眺めている時のように、穏やかで優しい時間が流れている。それにほんの少しだけ救われたような気がした。


 コンコン、というノック音が聞こえ、扉が開く。今度は母親だ。

「……あら、お友達?」
「こんにちは。お邪魔してます」

 ミョウジはそう言うと立ち上がり、丁寧に頭を下げた。

「クラスメイトでサッカー部のマネージャーのミョウジ。ノートのコピーとか届けてくれた」
「まあ、わざわざありがとう」
「いえ。……じゃあ、私はそろそろ失礼するね」
「あら、もう帰っちゃうの?」
「はい。この後ちょっと用事があって。いきなりお邪魔しちゃってすみません」
「いいえ」
「ありがとな」
「ううん、全然。じゃあ、またね。千切君が戻ってくるの、待ってるからね」

 彼女の言葉に、一瞬息を呑んだ。

 戻れるのか、本当に。怪我をする前のように走れる自分がまだ想像できない。

「……千切君?」

 そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、彼女は俺を信じきった顔を向けている。
 無理矢理口角を上げて、小さく頷くことでなんとか答えると、彼女はホッとしたような顔で笑った。




 彼女を見送ってから、静かに息を吐き出した。胸がチリチリと痛む。

 あんなふうに真っ直ぐに信じてると見つめられて、嬉しくないわけがない。それなのに、胸の奥に残った不安が拭えない。

 医者は、もう一度同じ箇所が再断裂を起こしたら、サッカー選手としての選手生命は終わりだと言っていた。


 ――終わりって何だよ……。


 サッカーができなくなる。そんなこと今まで考えたこともなかった。サッカーを始めてから、サッカーが俺の全てになってから、サッカーはそこにあるのが当たり前で、無くなるなんて考えたこともなかった。

 ……怖い。漠然とした恐怖感がずっと背後に張り付いている。

「……豹馬? 大丈夫?」

 顔を上げると、母親も心配そうな顔でこちらを見ていた。

「ああ、大丈夫。……少し疲れたから寝るよ」

 そう言って、目の前の現実から逃れるように目を閉じる。

 きっとまた、かつてのように相手をぶち抜いてゴールを決める日が来る。あの快感に酔いしれる日が、きっとまた来る。そう信じて、今は怪我を治すことだけ考えていればいい。
 それしか、今の自分にはできることは無いのだから。



***



 ようやく松葉杖で歩けるようになり久々に登校すると、世界が変わっていた。

 新聞や地域のローカル番組で取り上げられるたびに騒いでいた奴らは、もう俺に見向きもしなくなっていた。話しかけてくる人間も居ない。それどころか、皆んな腫れ物を触るように遠巻きに見ては、ヒソヒソと話をしている。

 まるで、『走れなくなったお前に価値はない』そう言われているような、そんな気がした。

 ……ただ一人を除いて。

「千切君!」

 俺を見るなり小走りで駆けてきたのはミョウジだった。

「もう平気なの!?」
「ああ。これからリハビリだけどな」
「そっか。リハビリキツイと思うけど、頑張ってね。あ、でも無理しちゃダメだよ」
「どっちだよ」
「んー……両方、かな?」

 彼女は小首を傾げながらそう言って、いつもと同じ顔で笑った。今までと変わらない様子に、強張っていた体から少しだけ力が抜ける。

「部活は顔出す?」
「ああ、一応。監督に挨拶もしたいし」
「じゃあ後で一緒に行こうね。荷物持ったげる」
「いいよ、別に」
「平気だよ。私、重い物持つの慣れてるし」
「いいって。過保護」

 軽口を叩きながら、こうして変わらないでいてくれることが有難いと思った。

 怪我をしてから、自分を取り巻く環境は大きく変わってしまった。そんな中、こうして変わらないものがあるというだけで、信じていられる。

 怪我さえ治れば、きっと元の自分に戻れるのだと。


***


 放課後、部活へと向かうと、もう新体制での練習が始まっていた。

 俺がいたポジションにはあの双子が入っており、それに合わせたポジショニングに変わっていた。……当然だが俺の居場所は無い。

「お? 久しぶりだな天才(笑)くん。何しに来た?」

 ニヤニヤという笑みを浮かべながら、あの双子がやってきた。

「才能のぶっ壊れた走れないお前になんの価値がある? 才能があるかないか、それだけのことだろ? ざまあねえな元天才!」
「くわっ!」

 そう言い捨てて去っていく二人を奥歯を噛み締めながら見送る。当然悔しさはあるが、本当のことだから何も言い返せなかった。それが余計に腹立たしい。
 そんな俺の心情を知ってか知らずか、すぐ隣に居たミョウジが小さく息を吐き出した。

「やな感じ。なんで言うかな、ああいうこと」

 小さな声で呟いてもう一度ため息を吐くと、小さくベッと舌を出した。普段人当たりの良い彼女のこういう面を見るのは初めてだった。部活中も上級生に対して反抗的な態度を取るところは見たことがない。 
 意外な気持ちで見つめると、視線に気付いたらしい彼女と目が合った。少し気まずそうに視線を逸らしてから、視線を泳がせた。心なしか悪戯がバレた子供のような顔をしている。

「お前の方が怒ってんのな」
「だって……むかついたんだもん。私は待ってたのに。千切君のこと」

 拗ねたような顔でそう言って、口を尖らせた。
 彼女の大きな瞳が真っ直ぐに俺を射抜く。しっかりしろ、と言われている気がした。

「……心配すんな。俺だってこのまま終わる気なんかねぇよ」

 そうだ。落ち込む暇なんて無い。一日も早くあの場所に戻るために、今すべきことを全力でやるだけだ。


 ――今に見てろ。ぜってーまたフィールドに戻ってやる。


***


 リハビリは想像していた以上にキツかった。今までの練習と違い、ひたすら室内で筋トレのようなことを繰り返す。まだ痛む傷を気にしながら、ただ黙々とメニューをこなし、家に帰る。サッカーをしている時のような楽しさも爽快感も無い。

 こんなんでちゃんとフィールドに立てるようになるのか。また走れるようになるのか。幾度となくそんなことが頭をよぎり、その度に立ち止まってしまいそうな自分を必死に奮い立たせた。


 医者から部活参加の許可が降りる頃には、季節が二つほど変わっていた。


「ようやく千切が戻ってきたぞ。少しずつでいい、自分のプレーを取り戻そう」
「……はい」

 見渡すと、チームメイトたちは能面のような顔でこちらを見ている。なんだか自分だけが別の世界に迷い込んだような錯覚に、心許なさを覚えた。


 いざ練習が始まっても、思うように走れなかった。

「おいおい、どうした? 天才(笑)く〜ん。自慢の快足はどうしたよ?」

 相変わらず生き生きとした顔で絡んでくる双子の片割れを無視してプレーを続行するが、思うように引き離せない。

「全力で走ってまたぶっ壊れるのが怖いか?」


 ――うるせえ! 黙れ!


 心の中で何度叫んでも、以前のように踏み込もうとすると身体が強張る。思うようにスピードが乗っていかない。怪我をする前みたいに、目の前の相手をぶち抜けない。

 まるで自分がノロマな亀にでもなった気分だった。

 目の前が真っ暗になるような感覚から逃れるように顔を上げると、ミョウジがコートの外から心配そうな顔でこちらを見ているのが見えた。
 俺の情けない走りを見て、さぞかしガッカリしたことだろう。そりゃそうだ。ずっと待っていてくれたのに、応えられない自分が情けなかった。




 練習が終わり、チームメイトたちがバラバラと解散していく中、俺はコートの中で立ち尽くしていた。

 結局、何もできなかった。ボールを奪うことも、相手をぶち抜くことも、ゴールを決めることも。
 久々にサッカーをしたのに、怪我をした時以上に打ちのめされた気分だった。


「お疲れ様」

 声をかけられ顔を上げると、ミョウジがいつもと同じ顔で立っていた。タオルを差し出され、黙って受け取る。

「足、まだ痛い……?」
「……いや、平気」
「そっか、よかった。……久々でいきなり100パーセント出すのは難しいよね。でも少しずつ調子戻ると思うから、焦っちゃダメだよ」


 ――うるせえ。お前に何が分かんだよ。


 ごく自然に溢れそうになった言葉に息を呑んだ。
 あの双子と違って、彼女に対して嫌な感情は持っていない。それなのに、自分からこんな感情が出てくることに愕然とした。

 今までは、自分の中に確固たるものがあったから、サッカーがあったから、だから信じていられた。
 俺は世界一になるんだ、って。

 なのに今は全くイメージできない。怪我する前みたいに走る姿も、全国優勝する姿も、その先にある未来も。

 生まれて初めての感覚に血の気が引いていく。


 ――俺が俺じゃなくなる……。


「……千切君……」
「お疲れ」


 彼女の方を見ないでグラウンドを後にした。視界の端に何か言いたげにしているのは映っていたが、見ないふりをした。

 ……見るのが怖かった。

 周りの奴らと同じように、彼女が変わる様を見たくなかった。



***



 逃げるようにグラウンドを後にした翌日から、俺は部活に行かなくなった。

 行かないまま一日、また一日と過ぎていき、季節がまた二つほど変わり、冬になった。

 授業が終わると、真っ直ぐ家に帰る。時々ミョウジが俺を部活に誘いにやってきたが、一度も応えたことはない。

 部活帰りに猫に会いに行くこともなくなったので、ミョウジとも少しずつ話さなくなっていった。
 淋しくないと言えば嘘になるが、元々ミョウジとは特別な間柄だったわけじゃない。『ただの猫仲間』が『ただのクラスメイト』になった。ただそれだけのことだと自分に言い聞かせた。

 このまま逃げ続けていても何も変わらない。そんなことは頭では分かっていた。でも、どうしても部活に参加する気が起きなかった。いっそのこと、サッカーを諦めてしまえばラクなんだろうが、諦め方が分からない。

 ……あれからずっと、諦め方を探している。




 授業が終わり、今日もいつものようにグラウンドとは反対方向へと向かう。もう練習風景を見ることすらなくなった。このままサッカーから離れていれば忘れられるんだろうか。まるで最初からそこに無かったかのように……。


「千切君!」


 呼び止められ、足を止める。振り返らなくても誰の声か分かった。
 ゆっくり振り返ると、案の定ミョウジが心配そうな顔をして立っていた。

「えっと……今、帰り……?」
「……ああ」
「そっか。…………部活、今日も来ない……?」

 控えめに問いかけられ、答える代わりにそっと視線を外した。

「……そっか」

 返事の無いのが肯定と受け取ったのか、気落ちしたような声が耳に届く。

 もう俺になんか構わなければいいのに、律儀に声をかけてくるのは、俺がまだサッカー部員だからなんだろうか。なら、退部届でも出せば彼女も諦めがつくんだろうか。俺と同じで、彼女も諦められずにいるのかもしれない。
 ……そういえば、国立に行きたいようなことを言っていた気がする。ひょっとして、まだ俺に夢見てるんだろうか。……俺はもう走れないのに。

 気まずい沈黙に包まれ、何も言わずに踵を返すと、すぐに彼女の声が聞こえた。

「千切君!」

 再び呼び止められ、足を止める。

「あ、あの…………待ってるから。千切君が戻ってくるまで、待ってるからね!」


 『待ってるから』


 彼女はいつもそう言う。
 ……それが俺を無性に苛つかせた。

 部活に行かなくなって何ヶ月も経つのに、馬鹿の一つ覚えみたいに。一体いつまでそうやって待つ気だよ。

「……つなよ……」
「え?」
「待つなよ! 俺なんかを! 走れない俺には、何の価値も無いだろ!」
「そんなこと……」
「お前だってガッカリしたろ? 俺の走り見て」
「そんなことないよ! 千切君は――」
「サッカーやったこともないお前に、世界一を目指したことないお前に、一体俺の何が分かんだよ!!!」

 言ってすぐ、彼女が息を呑む音が聞こえた。

 最悪の八つ当たりだ。彼女は悪くない。そんなこと分かってる。でも、言わずにはいられなかった。


 ――お前の知ってる千切豹馬はもう居ない。無敵の俺は、もう居ないんだ。


「もう構うなよ、俺に。俺は……お前の期待には応えられない」

 そう彼女ごと置き去りにして、その場を立ち去った。
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