(1話)
ベッドに入ってもう二時間が経とうとしていた。目をつぶっていても一向に眠気は降りてこない。
今日は眠れそうにないな……。
私はため息をつきながらゆっくりと身体を起こした。この世界に来てから、時々こんな夜がある。眠りたいと思っているのに、かえって頭は冴えてしまって、なかなか寝付けない。普段は気にならないはずの虫の鳴き声や家具が軋む些細な音ですら、こんなときには騒音に聞こえる。
部屋に居ても気が滅入るだけだな。そう思った私は、皆を起こさないようにできるだけ音を立てないようにしてそっと扉を開けた。
中庭に出ると、大きな月が出ていた。
この世界の夜は明るい。雲一つないこんな夜は、月灯だけで外を歩けるくらいだった。この『大いなる厄災』と呼ばれる大きな月は、どんなときでもこうしてこの世界を照らしている。
明るくて、それでいて不気味で。まるで人の弱い部分を暴こうとするように煌々と輝くこの月が苦手だった。ムルはまるで愛しい人を見つめるような目でこの月を眺めているが、私には理解できない感情だ。
中庭のベンチに座り、そっと両手で顔を覆う。
この世界に来てから、一体どのくらいの時間が経ったんだろう。来たばかりの頃はすぐにでも帰りたいと思っていた。こんな訳のわからないことばかり起きる世界に一人放り出されて、周りの魔法使いたちからは『賢者様』などと呼ばれ、何の力も持たない私はどうしたらいいのか分からず途方に暮れた。
でも今は違う。魔法使いたちは皆、温かくて親切で、ちょっぴり気まぐれで、時々意地悪で。個性豊かではあるが、皆それぞれに良い所がある。そして、それぞれのやり方で私を受け入れてくれた。私の居場所はここだと、ここに居ていいのだと、最近は少しずつだけど思えるようになってきたところだ。
だから今は、とりわけ寂しくはないはずだった。
……それなのに、時々こうしてどうしようもない気持ちに襲われることがある。泣きたいような、大声で叫びだしたいような、なんともいえない気持ちになるのだ。そしてそんなときは決まってこうして真夜中に目が覚める。もしかしたら、これもこの『大いなる厄災』のせいなのかもしれない。
「あなたも眠れないんですか?」
不意に声をかけられ振り返ると、赤い髪の青年が立っていた。
「ミスラ?」
「はい、そうですけど」
ミスラはしれっとした顔でそう言うと、私の隣にゆったりとした動作で腰を掛けた。
「賢者様がこんな時間に外に居るなんて珍しいですね。散歩ですか?」
「はは……ちょっと寝付けなくて。ミスラこそ、こんな時間にどうしたんですか?」
「俺はいつも眠れないので。夕方くらいまでは今日は眠れるかな、なんて思ってたんですけどね。まあ今日もダメだったので。いつものことですよ」
ミスラがため息混じりにそう言った。ミスラは『大いなる厄災』の傷が原因で、長いこと不眠に悩まされている。『今日も』ということはここ数日は眠れていないのだろう。
「腹いせに一番気持ちよさそうに寝てる奴の部屋で暴れてやろうかと思いまして」
「……なんて迷惑な……やめてあげてください」
この世界で二番目に実力のある魔法使いとされているミスラの『暴れる』は普通のレベルではないので、そんなことをされたら気持ちよく寝ている人だけでなくこの魔法舎が半壊する程度には被害が出るだろう。
「手始めにオズの部屋に向かったんですけどね。ほら、夜なら俺が返り討ちにあうこともないので。でも途中であなたを見かけて。なんとなく足が向いて、気が付いたらここに居ました」
「……そう、ですか……」
それを聞いて、私はなんとなく違和感を覚えた。ミスラは普段、他人と積極的に関わろうとしないからだ。自分以外の者が嫌いというわけではなさそうだが、フィガロのように誰とでも気さくに話せるタイプではない。それなのになぜ、わざわざここに来てくれたんだろう。
そんなことを考えながらぼんやりとミスラを見つめていると、ミスラは何かに気づいたように眉を上げた。
「ああ、迷惑でしたか? 一人がよかったのか。なら俺はどっか行きますね」
「えっ?」
ミスラは言うなりスッと立ち上がってどこかへ行こうと踵を返した。
「ま、待ってください!」
咄嗟に立ち去るミスラの手を掴むと、ミスラはほんの少しだけ驚いたように目を丸くした。
「何ですか?」
別に私の態度に気分を害した様子はなかった。私の言動が彼を傷つけたというような様子もない。ただ、このままミスラを行かせてしまってはいけない気がした。
「えっと……迷惑じゃないです。よかったら、もう少しだけ一緒に居てくれませんか? ミスラに一緒に居てほしいです」
「はぁ。別に構いませんけど」
表情を変えずにそう言うと、再びミスラは私の隣に座った。
「……ミスラはまたしばらく眠れていないんですか?」
「はい。まぁいつもですけどね。この間はやっと眠れたと思ったら悪夢にうなされたんで。正直、寝た気がしませんでしたよ。眠れないよりはマシなんですけどね」
「ああ……」
ミスラの不眠は大いなる厄災の傷が原因なので、オズの魔力と同様、賢者である私が手を握ることで一時的に解消されるらしかった。それが先日判明したのだが、あいにくその時は『半殺しにされた恨みを晴らす』とオーエンが乱入してきて、私は早々に部屋を後にしてしまったのだ。あのあとちゃんと寝られたのか心配だったのだが、やはりオーエンの描いた魔法陣のせいで悪夢を見ることになったらしい。
「じゃあ、またミスラが眠れるように手を握りましょうか」
今なら邪魔も入らないだろうし、ミスラだってゆっくり眠れるだろう。そう思って提案したのだが、ミスラの答えは意外なものだった。
「いえ、結構です」
「え……? なぜですか?」
普段から『寝られれば何でもいい』と言っているほど切実に睡眠を欲しているはずなのに、なぜかミスラの答えはノーだった。意味が分からず問いかけると、ミスラは表情を変えずに言った。
「だってあなたも今眠れないんでしょう? 眠れない人に寝かしつけられてもいい気分で眠れそうにないんですよね。どうせならいい気分で眠らせてほしいので」
「はあ……なるほど……」
「だから何か面白い話でもしてくださいよ。どうせ眠れないんだし」
「ええ……唐突な振り……」
「まぁ面白くなくてもいいですけど。何か話してください。何でもいいです。……あなたの声は、嫌いじゃないので」
そう言って、ミスラは椅子の背もたれに背中を預けるようにして目を瞑った。
「……じゃあ、またいつものようにミスラのことを聞いてもいいですか?」
「はい、いいですよ」
とはいっても、何から聞けばいいのか。
「えっと……ここの生活はどうですか? 何か不都合や困ったことはありませんか?」
「眠れないことですかね」
「あ……そっか……。えっと……じゃあ……」
話が終わってしまった。他に必死に話題を探す。今はもう、ミスラが私の言ったことに対して腹を立てて殺されるかも、といった類の心配はしていないが、私の不用意な一言で彼を傷つけたりするのだけは避けたい。
「……どうして、ここに来てくれたんですか……?」
「……さあ? なんとなくですかね」
「なんとなく……」
「はい。あなたがあまりにもぼんやりとしているように見えたので、後ろから脅かしたら部屋で暴れるよりも面白いものが見られるのかなって」
「はは……良かったのやら悪かったのやら……」
「あとは……」
言いかけて、ミスラは一瞬口を噤んだ。
「あとは……?」
「……なんとなく、似てた気がしたからですかね」
「……似てた?」
「はい。えっと……渡し守をしていた頃の俺に。……とは言っても俺からは俺は見えませんけど。ただ、端から見たらあんな感じだったのかなって」
ミスラの言葉は時々抽象的で、なんとなく意味を推し量るのが難しいときがある。
「えっと……私が寂しそうに見えた、ってことですか……?」
「さあ。寂しいとかは分かりませんけど、なんか見てたら変な気分になったので。なんとなくここに来ました」
そう言ったミスラの顔は、いつもより少しだけ幼く見えた。
「……今は、その……ここで生活していて、変な気分になったりすることはありませんか? ……その……渡し守をしていた頃のような……」
ミスラは以前、ミスラが幼い頃の話をしてくれたことがある。その時ミスラは『寂しい』とは言わなかったが、なんとなく私は、ミスラは寂しかったんじゃないかと思ったのだ。今はどうなんだろう。少しは彼の孤独は薄らいだのだろうか。今はあの頃のように寂しいと思ったりはしないんだろうか。
「ああ……今はあんまりないですね。ここはいつも誰かしらが騒いでいて賑やかですし。あとは南の国の兄弟に危険が及ばないように見張ってないといけないので、そこそこ忙しいんですよね。隙あらばオズのことも殺してやろうと思ってますし。あとはまぁ……静かな場所に居たい気分のときは俺が移動すればいいだけなので。北の湖なんかは静かですからね。……なので、とくに困ったことはないですね」
「そっか。それならよかったです」
なんとなく、ミスラの言葉からは、彼がこの魔法舎を少なくとも嫌ってはいないことが窺えた気がした。いつかここがミスラにとっての『居場所』になればいい。私にとってそうなったように。
「ミスラは空間移動の魔法が得意ですもんね。いいですね、行きたい場所にすぐに行けるって。羨ましいです」
思い描いた場所に瞬時に移動できるなんて、魔法の使えない人間からしたら夢のようだ。これぞ『魔法』という感じがする。
「行きたいんですか?」
「えっ?」
「湖ですよ。連れて行きましょうか?」
「い、今……ですか?」
「はい。どうせ俺は今夜は眠れそうにないので。あなたもでしょう?」
そういえば、もう眠気も寝たい気持ちもどこかへ行ってしまった。もうベッドに戻ったところで寝ることは叶わないだろう。
「そうですね。じゃあ、せっかくなので連れて行ってくれますか?」
「いいですよ」
「あ、上着着ていったほうがいいですよね?」
「いらないんじゃないですか? 俺が一緒に居ますし。あなたが凍えないように守ってやりますよ」
「ありがとうございます」
ミスラは立ち上がると、呪文を唱え、扉を描いた。扉の向こうには、真っ白な世界が広がっている。こんなとてつもない距離を一瞬で移動できるのだから、魔法とは私の想像を超えたものなのだと改めて実感した。
ふと、ミスラを見上げる。ミスラはいつもどおりのあまり読めない表情をしていた。だが、不思議といつもよりも身近に感じた。
こうして月夜の散歩ができるなら、眠れない夜も悪くないかもしれない。
「じゃあ俺から離れないようにしてくださいね。離れたらあなたなんか即凍死しますよ」
「えっ……」
「ああ、三秒くらいはもつかもしれませんけど。どちらにしても死にますね」
「は、離れません。ミスラも、私を置いてどこかに行ったりしないでくださいね!?」
「まぁ、努力はします」
ミスラの曖昧な返事に、一瞬背筋がゾワリと震えた。
「ちゃ、ちゃんと行きも帰りも、私と一緒に居てくださいね? 絶対に置いていったりしないでくださいね?」
「……ああ、それも面白そうですね」
「ミスラ!? 頼みますよ? ミスラが居ないと私は帰ってこれないんですからね!? 寒くて死んでしまうって、ミスラが言ったんですよ!?」
「あはは。分かってますよ。ほら、行かないんですか?」
そう言って、私に向かって手を差し出す。
私は絶対に離れないように、両手でしっかりとミスラの手を握った。
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