- ナノ -


(嵐の夜3話)


 目を覚ますと、いつもとは違う景色が広がっていた。壁に飾られた大きな鹿のような生き物の剥製がチラリと目を動かしてこちらを見ている。もう何度も見た光景だった。


 ――ああ、そうだ。昨夜はミスラの部屋に泊まったんだ……。


 棚に並んだ呪術の道具と思わしき髑髏や人形は、初めてこの部屋を訪れた時には不気味に感じたものだったが、今ではすっかり見慣れてしまった。

 そっと寝返りを打った時、下半身にいつもとは違う怠さを感じた。それが引き金となって、一気に昨夜の出来事が頭の中で蘇る。


 ミスラとの夜は、覚悟していたよりもずっと穏やかなものだった。甘い言葉を囁いたり、壊れ物を扱うように丁寧に触れたり、ということはなかったけれど、ミスラの思うがまま乱暴に扱われて痛い思いをするということも無かった。
 だが、普段のミスラの行動を思うと、それはミスラが私を最大限丁寧に扱ってくれた結果なのかもしれない。

 隣で静かに寝息を立てるミスラを、そっと見つめる。こうして寝かしつけた日は、大抵私の方が早く目を覚ます。最初はミスラを起こさないようにと、息を殺してミスラが起きるのを待っていたが、朝まで眠れた時のミスラの眠りは深く、私がほんの少し身じろいだくらいでは起きない。普段厄災の傷で眠れていない分を、こうして取り戻しているのかもしれないと思った。


 ……さて、どうしたものか。このままミスラが起きるのを待とうかとも思ったが、報告書が溜まっているのを思い出した。提出期限も迫っているし、できれば昼までに少し片付けておきたい。

 身体に巻きついたミスラの腕をそっと外すと、慎重にベッドから抜け出した。振り返ってミスラの様子を窺うが、起きる気配はない。どうやらいつもと同じようによく眠れているようだ。

 どうかミスラがこのままできるだけ長く眠って、普段の睡眠不足が解消できますように。そう心の中で祈りながら、私はミスラの部屋を後にした。



***



 ミスラの部屋を出て、とりあえず朝食を摂るため食堂へと向かうと、シャイロックとムルに出くわした。

 シャイロックはこちらを見ると一瞬驚いたような顔をして、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。

「おはようございます、賢者様」
「おはようございます、シャイロック。ムルもおはようございます」

 そう言いながらムルを見るが、ムルはキョロキョロと何かを探すように辺りを窺っている。

「ムル?」
「賢者様だけ? ミスラは?」
「ミスラ? ミスラならまだ部屋に……」
「じゃあ賢者様がミスラになったの? それとも賢者様の中にミスラが居るのかな! だって賢者様の――」
「ムル、おやめなさい」

 やんわりと制止するように声をかけられ、ムルはピタリと動きを止めた。

「そのように不躾に質問なさっては、賢者様が困惑してしまいますよ」
「だって面白そう! シャイロックは気にならない? それとも、もう知ってる?」
「ご想像にお任せします」
「オッケー! 知ってるけど知らないふりするゲームだね! じゃあ俺もそうする! またねー、賢者様!」
「ム、ムル!?」

 一人納得したように頷きながら、ムルは立ち去ってしまった。結局、ムルが何を言いたかったのか分からずじまいだ。助けを求めるようにシャイロックを見上げる。彼なら答えを知っているだろうと思ったのだが、シャイロックははぐらかすようにやれやれと肩を窄めただけだった。

「まったく、困った人」
「あの……ムルは一体何を言いたかったんでしょうか……」
「お気になさらず。大したことではありませんよ。ムルの悪い癖です。それより賢者様、何処かへ行く途中だったのでは?」
「はい、食堂へ。書類仕事が溜まっているので、その前に朝食を摂ろうかと思いまして」
「なるほど。……そうですね、今のうちの方がいいかもしれませんね」
「今のうち?」

 一人納得したように呟くシャイロックを見上げる。ムルといい、シャイロックといい、西の魔法使いの言うことは時々含みがあってよく分からないことがある。
 
「ええ。人が少ないうちの方がゆっくりできるでしょうから」
「ああ、なるほど。そうですね」
「では、賢者様。私も失礼しますね。あのイタズラ猫を捕まえなければ」


 そう言って、シャイロックはいつものようににっこりと笑うと胸に手を当てて小さくお辞儀をした。


***


 シャイロックと別れ、食堂へと向かう。食堂にはまだブラッドリーしか居らず、たしかにゆっくり食事ができそうだと思った。


 ブラッドリーはこちらに気付いたのか、眉間に皺を寄せながら顔を上げると、私を見てさらに皺を深くした。

「おはようございます、ブラッドリー。早いですね」
「おいマジかよ……。賢者、ちょっと来い!」

 ブラッドリーは立ち上がるなり私の腕を掴むと、そのまま私を連れて奥へと向かった。

「ブラッドリー!? どうしたんですか?」
「うるせえ! いいから来い」


 キッチンへ入ると、ネロが何やら作業をしていた。みんなの朝食の準備だろう。

 ネロはピタリと動きを止めてから、ゆっくりと振り返った。

「悪い、ミスラ。まだもう少しかかりそうなんで――」

 言いながら振り返ったネロと目が合う。ネロはギョッとしたような顔をして固まってしまった。

「……おはようございます」
「あー……悪い。間違えたわ」

 気まずそうに頬を掻きながら、ネロはどうも腑に落ちないというような顔をしていた。


「おい、一度しか聞かねえからちゃんと答えろ」
「は、はい?」
「おまえ、昨晩はミスラと一緒だったろ」
「……? はい。ここ最近私が魔法舎を留守にしていて眠れていないようだったので……。あの、それが何か……?」
「……ミスラと寝たのか」

 真剣な顔で見つめるブラッドリーからそっと視線を外す。『寝る』というのは、所謂そっちの意味の『寝る』だろうか。

 ――いや、いくらなんでもそんなこといきなり聞かないよね。もし違ったら大恥をかくことになるし……とりあえず誤魔化そう。


「えっと……いつものように寝かしつけを……」
「そうじゃねえだろ! ミスラとヤっただろってことだよ!」

 ――やっぱりそっちか。

「…………ノーコメントで」

 嘘はつけないので黙秘を貫くことにした。目を逸らしたまま貝のように口を閉ざしていると、ブラッドリーの大きな大きなため息が聞こえた。

「おまえなぁ……」
「ちょっと待て、嘘だろ! だからかよ、どうりで……」

 ネロは手で顔を覆うと項垂れてしまった。

「あの……なんとなくそういうことに……なってしまいまして……」
「なってしまいまして、じゃねえ! 逃げらんなかったのかよ! ミスラ相手じゃ無理か……」
「そりゃ無理だろうよ……」
「だからってよ……同じフロアにフィガロが居んだから大声出しゃいいだろ!」
「んなことしたら殺されちまうだろーが! ……可哀想にな。辛かったろ、賢者さん……」

 自分の方が傷付いたような顔をして、ネロが言った。

「えっ……? あの……」
「だな。……ったくあの野郎、見損なったぜ」

 忌々しげに舌打ちをしながら、ブラッドリーも続く。これはもしかしなくてもミスラが無理矢理私を襲ったと思われているのでは……。

「ち、違います違います!」

 慌てて否定すると、二人とも同じように眉間に皺を寄せながらマジマジと私を見つめた。

「えっと……無理矢理とかではなく……ちゃんと……その……合意の上で、と言いますか……」

 気恥ずかしさからごにょごにょと言い訳をすると、二人は気の抜けたような顔で「ああ……」と口々に呟いた。

「賢者……お前、男の趣味悪ぃな……」
「そ、そんなことは……ないと思うんですけど……」
「だってミスラだぞ! 普通は好き好んで近寄らねえだろ」
「……まあまあ。賢者さんの男の趣味は置いといて、とりあえず事故が起きたんじゃなくてよかったよ」
「すみません。心配かけてしまって……」

 そっとブラッドリーを見上げると、ブラッドリーは呆れたような諦めたような顔をしながら、グシャグシャと私の頭を撫でた。

「とりあえず、ミスラにはあんま気ぃ許すなよ。人間なんざあいつの気まぐれでいつ殺されてもおかしくねーんだからな」
「分かりました、ボス……。あの……一つ聞いてもいいですか?」
「なんだ」
「そういうのって……魔法使いなら分かるものなんですか……? その……誰と、誰が……どうなったとか……」

 ミスラとのことを後悔しているわけではないが、すれ違う人全員に分かってしまうのは流石に恥ずかしすぎるし、何よりこの魔法舎には年少者も多い。彼らの健全な心を育むためにも、不用意な行動で彼らを心を傷付けたりしたくない。

 ネロは「うーん……」と唸り声を上げると、頭をガシガシと掻きながら口を開いた。

「若い奴らは分かんねーだろうけど……ある程度生きてりゃなんとなーく分かるよ。痕跡消されたら難しいけど、今回はだいぶ分かりやすいしな。なんかこう……マーキングっつーか……」
「マーキング……」
「ま、相手はあのミスラだからな。間違ってミスラの縄張りに手出さねえように、生存本能が警報でも出してんだろ。北じゃあミスラに手出すのはご法度だしな」
「ああ、なるほど……」

 北の国でのミスラの評判は、何度か話に聞いたことがある。私たち人間が山に入る時に熊に出会わぬよう警戒するのと同じように、魔法使いたちはみな、北の国ではミスラに出会わぬよう、怒らせぬよう、注意を払っているのだろう。


「とにかく、おまえ今日は部屋から出んな。ネロ、コイツんとこまで飯持ってってやれよ」
「そんな大袈裟な……」
「いや、その方がいいんじゃねえの? 年長者とか魔力の強い奴らにはすぐバレちまいそうだし。賢者さんがその方がいいってんなら止めねえけどさ……」

 言われて、先程のシャイロックとムルの反応を思い出した。きっと二人にもバレていたんだろう。

「へ、部屋に居ようかな……」
「おうよ、そうしとけ。仕方ねえから朝飯は俺様が持っていってやる。ありがたく思えよ」
「ありがとうございます、ブラッドリー」

 不意に、バリバリという轟音とともに、魔法舎全体が大きく揺れた。

「なっ、何!?」
「ったく、またかよ! まだ朝だぞ……」

 呆れたような口調で呟くブラッドリーを見上げる。彼には何が起きているのか全て分かっているようだった。答えを促すように見つめていると、視線に気付いたブラッドリーが、今度は私に呆れた視線を向けた。

「こんなことすんのは一人しか居ねえだろーが!」
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