- ナノ -


(32話)



 ほとんど一睡もできないまま、合宿最終日の朝を迎えた。

 頭がガンガンと心臓の鼓動に合わせて痛む。

 気持ち悪い。気を抜くと吐きそう。でも多分何も出ない。夕飯も、昨日は摂れなかった。でも何か食べないと倒れる。そう思って栄養補給用のゼリーを無理やり流し込んだ。


 とりあえず歯でも磨きにいこう。少しはスッキリするかもしれない。そう思って洗面所に行くと、月島君が居た。
 さすがに昨日の今日では気まずすぎる。出直そう。そう思ってそっと踵を返す。

「あからさますぎじゃない?」

 背後から声をかけられ、ギクリとした。恐る恐る振り返ると、鏡越しに月島くんと目が合った。色素の薄い瞳が、責めるように見つめている。さすがにこれでは逃げられない。諦めて洗面所へと向かうと、月島君は大きくため息をついた。

「おはよう」
「……おはよう」

 そう言ったきり、お互い無言で歯を磨いた。
 ……沈黙が重い。……気まずい。今すぐ帰りたい。



「……酷い顔」

 月島君がポツリと言った。

「はは……」

 無理もない。自分でも分かるくらい顔色は悪く、真っ白だ。泣いたせいで目元は赤く腫れているし、目の下にもしっかり隈ができている。


「僕は謝らないから」

 キッパリとした口調で、月島君が言った。

「君にキスしたこと、僕は謝るつもり無いから。それだけ」

 じゃあ、お先。そう言って去っていく月島君の後ろ姿をぼんやりと見つめる。

 私だって、別に謝って欲しいわけじゃない。嫌だったわけでもない。

 ……じゃあ、一体どうすればよかったの? あの女の子みたいに、付き合ってくださいって言えばよかった? それでもし、上手くいかなかったら……?

 ……それでも、月島君は、私のことを好きでいてくれる?


 きーん……という音が聞こえる。


 ああ、ダメだ。目が回る。練習が始まるまで少し休ませてもらおう。



***



 合宿最後の対戦相手は梟谷学園高校だった。

 日向は、木兎さんから教わったフェイントを使ったりして、みんなから驚かれていた。それだけじゃない。合宿の初めにできなかったことが、徐々にできるようになっている。日向と飛雄の速攻も、一度だけだったけど成功した。

 月島君も、連日の黒尾さんたちとの練習の成果か、梟谷からの攻撃を落ち着いてブロックしていた。

 みんな、一週間前とはまるで別人のようだ。


 ……っていうか、月島君って私のこと本当に好きなのかな。……好きじゃなきゃキスなんかしないか。……いや、するのかも。だってこの間及川先輩にもされそうになったし。……まぁ、それで怒られたんだけど。隙だらけだって。……昨日のも隙に入るのかな。

 月島君のことは好き。自主練終わりに一緒に話したりするのも楽しかった。ずっと、ああやって居られたらいいなと思った。友達のままで。
 でもきっと、それはただの私のワガママで。月島君はきっとそんなこと望んでないんだろうな。

 そんなことをつらつらと考えていると、コートから歓声が上がった。


「やっぱり俺最強ー!!! ヘイヘイヘーイ!」

 木兎さんの声につられてコートを見ると、試合が終わっていた。


 あーしまった。試合全然見てなかった。スコア係じゃなくてよかった。


 ……っていうか暑い。今日一体何度なの。夏とはいえ暑すぎでしょ……。


 ……っていうかここ……どこだっけ……。


 キーン、という高い音が聞こえる。そういえば朝も聞こえた。頭がグラグラする。


「――ちゃん、そろ……BBQの準……こうか」


 遠くでやっちゃんの声がする。ああ、そっか、バーベキュー……そうだ、準備しないと……。

 動き出そうとした瞬間、ぐるりと世界が回った。足がもつれ、身体が支えられない。

 倒れる……っ、そう思った時、大きな手が私の身体を支えるように伸びてきた。後ろから抱きかかえるように支えられ、必死に降りてくる目蓋をこじ開ける。すると、心配そうな顔をして、私の顔を覗き込む月島君が見えた。
 
「ごめ……ちょっとフラついただけ……平気……」

 次の瞬間、フワリと身体が宙に浮いた。

「月……」
「僕が運びます」

 月島君は、そう言って歩き出した。

 以前、保健室へ運んでくれた時と同じように、月島君の横顔が見える。あの時も、こうしてこっそり月島君の顔を覗き見た。


 好きだよ、月島君……。


 心の中でそう呟くのと同時に、そこで意識が途切れた。



***



 目を開けると、顧問の武田先生が心配そうな顔でこちらを見ていた。

「あ、気がつきましたか?」
「武田……先生……」

 起き上がろうとすると、視界がグニャリと曲がった。

「あっ! 急に起き上がってはダメですよ!」

 倒れそうになったところを支えられ、再び横になる。

「でも、練習が……」
「大丈夫ですよ。もう練習試合は終わったので、今は食事までの自主練の時間です」

 そう言われて、ホッと息を吐き出した。

「軽い貧血だそうですよ」
「……自分が情けないです。みんなの体調を管理するのがマネージャーの仕事なのに。自分の体調すらちゃんと管理できないなんて」

 しかもあんな理由で。情けない。情けなくて涙が出てくる。

「そんなことありませんよ。失敗しない人間なんていません。それに、元選手ならではのミョウジさんの細かい心配りに、助けられている人も多いはずですよ」
「先生……」

 武田先生の優しい声を聞きながら、そっと背を向け、バレないように涙を拭った。

「さ、ミョウジさんも少し休んでください。帰りの移動も長丁場ですよ。あとで食事を持ってきます。食べられるようなら少し食べましょう」
「はい……」



***



 目を閉じて、外の音を聞く。セミの鳴き声や小鳥の囀りも聞こえる。体育館ではまだ誰かが練習しているのだろう。ボールの跳ねる音や歓声も遠くに聞こえる。
 そして、そんな音に紛れながら、誰かの足音が聞こえた。だんだん大きくなったその音は、部屋の前でピタリと止まった。

 コンコン。

 小さく、控えめに叩かれ、「はい」と返事をすると、ガラリと扉が開いた。

 現れたのは、月島君だった。

「起きてたんだ。もう大丈夫なの?」
「月島君……」

 身体を起こそうとすると、月島君は慌てて駆け寄ってきて、私の身体を支えた。

「起きなくていいよ。まだ寝てなよ」
「ううん、もう大丈夫」

 寝てる場合じゃない。話をしなければ。そう思って無理やり起き上がると、月島君は呆れたようにため息をついた。

「大丈夫に見えないんですけど。顔真っ白だよ」
「平気。それよりちゃんと話がしたい」

 真っ直ぐ月島君を見つめると、月島君は再びため息をついた。

「わかったよ……」

 観念したようにそう呟くと、月島君は目を伏せた。


「……で? 僕は振られるわけ。……なんで? 君も……僕と同じ気持ちだと思ってたけど」
「……好きだよ、月島君が好き」
「じゃあなんで?」
「……上手く、いかないと思うから」
「だから、なんでだよ」

 月島君が苛ついた口調で言った。

「……私、月島君に話してないことがあるの」
「何」
「……中学の時、飛雄と付き合ってたの」
「…………は?」
「ほんの少しの間。……三ヶ月くらい……かな」

 それを聞いて、月島君が能面みたいな顔になった。

「……へぇー……。で? それが何」
「付き合う前は、何でも話せたし、一緒に居てすごく楽しかった。……私が言ったの。付き合って欲しいって。飛雄は多分何も考えずに、『わかった』って」
「……王様らしいね」
「うん。……でも、付き合うようになって、クラスメイトやチームメイトに揶揄われたりして、だんだんギクシャクするようになったの。飛雄は変わらなかったんだけどね……私がダメだった。なんか……恥ずかしくて」

 だんだん、話せなくなった。話すのが億劫になって、話しかけたらかけたで周りに揶揄われて。付き合う前、どうやって話してたかも分からなくなった。

「ある日、飛雄が言ったの。『やめる』って」

『お前がしたかった『付き合う』って、こういうことかよ』
『違うよ! そういうつもりじゃなくて……』
『ならやめる。前の方がいい。お前と普通に話せなくなるのは嫌だ』

「ショックだったけど、その通りだなって思った。私も、また前みたいに普通に話したいって思ってたから。別れて前みたいに話せるなら、その方がずっといい、って。実際、別れた後は少しずつだけど、普通に話せるようになったから……あれでよかったんだと思う。……だから怖いの。誰かと付き合ったりしたら、また、そうなるんじゃないかって……」
「だから僕とも付き合わないって? 何それ。そんなくだらない理由だったわけ?」

 月島君が吐き捨てるように言う。

「くだらないって……私は……」
「くだらないよ。何で僕と付き合ったら気まずくなって別れるまでがデフォルトなんだよ。そんなの勝手に決めないでくれる!?」
「だって!」
「僕は影山飛雄じゃない」

 月島君の色素の薄い双眸が真っ直ぐに私を捕らえている。

「そんなの……分かってる……」
「分かってない」
「分かってるよ! でもどうしても考えちゃうんだもん! 今みたいに話せなくなったら。また、別れようって言われたら。……そんなの嫌。絶対無理。飛雄とは友達に戻れたけど、月島君とはきっと戻れない。なら、今のままがいい。月島君と話せなくなるくらいなら……今のままの方がいい。私……月島君に嫌われたくない……」

 言いながら、ボロボロと涙が溢れてくる。

「そんなに泣くと化粧がハゲるよ」
「泣いて落ちるほど厚塗りしてないもん! ……顔が派手で悪かったわね」
「別にそんなこと言ってないじゃん」

 月島君は笑いながら、やや乱暴に私の顔を掌で拭った。

「ならさ、誰から何を言われても、別れなければいいだけデショ。……少なくとも僕は、周りから揶揄われるくらい何でもないし、そんなくだらない理由で君を手放すつもりなんてない」
「……嫌じゃないの? こんな……面倒くさい……」
「嫌だよ。面倒くさい女だなって思ってる」
「ほら! だから……っ!」
「でも好きなんだから仕方ないデショ」

 呆れたように、困ったように笑いながら、月島君は私の頭を撫でた。

「君は、気が強くて、お節介で、うるさくて、喧しくて、騒がしくて、頑固で……」
「うるさいってたくさん言った……」
「……でも本当は臆病で、強がりで、泣き虫の君を放っておけない。絶対に手放したりしないから、僕のものになってよ」

 グッと抱き寄せられ、月島君の匂いに包まれる。

「面倒くさくても?」
「君は元々面倒くさいから大丈夫だよ」
「……どういう意味」
「じゃあ逆に聞くけど、君は僕が進んで面倒なことやるタイプだとでも思ってんの?」

 ハッとした。言われてみればたしかにそうだ。月島君は間違いなく面倒事から距離を取るタイプで、面倒なことになると分かっていて自ら首を突っ込むなど、有り得ない。

 小さく首を振ると、月島君はしたり顔で笑った。

「その僕が、君のことを面倒だと思ってて、それでもいいって言ってるんだから、信じてみてもいいんじゃないの」

 その少し得意げな顔がいつもの月島君らしくなくてちょっと可愛くて、思わずクスリと笑う。

「何笑ってんのさ」
「ううん。……ホントにそうだなって思ったの」

 怖がって自分の事を守ってばかりで、肝心の月島君の気持ちにまで、気が回らなかった。あの月島君が、ここまで言ってくれてるのに、何を怖気付いていたんだろう。今この手を取らなかったら、きっと一生後悔する。

「付き合うって、一人でするんじゃないもんね。……月島君となら、大丈夫な気がする」

 背中に回した手にギュッと力を込めると、彼も同じように抱き返した。

「……じゃあ、僕と付き合う?」
「うん。よろしくお願いします」



***



 無事、合宿が終わり、再び宮城に帰ってきた。

 以前約束した通り、月島君は家まで送ってくれた。山口君は用があるらしく、学校で見送られてしまった。そんな山口君の視線からは、何もかもお見通し、というのを感じたけれど、それを確かめる術は今のところ無い。


「……で? 高橋はどうすんのさ」
「あぁ、課題終わってないとこあるんだった。終わってないとこは明日の午前中やって、出来たとこまで渡すよ」
「そうじゃなくて……」

 月島君は何か言いたげにしながら、「……やっぱ何でもない」と言ってため息をついた。

「何? 最近ため息多くない?」
「なんでもないよ。ただ、哀れだなって思っただけ」

 よく分からないことを言いながら、月島君は再びため息をついた。

「じゃあさ、待ち合わせ、昼でしょ? ……その前にお昼食べない? ……一緒に」

 まるで強調するように一番最後に付け加えられた単語に、思わず声が漏れる。

「……わぁ……デートだ……」
「そうだよ。どうする?」
「食べる」

 即座にそう答えて、心の中で頷いた。そうか。付き合うってことは、こうやって何でもないことでいつでも会えるようになるんだ。それは嬉しいかも。

「何、ニヤニヤして」
「だってこれからは、何か特別に用事が無くても、何でもない日に会ったりできるんだなって思って。なんか嬉しくて」

 ヤバイ。嬉しくて顔がニヤける。

「それを渋ってたくせに」
「うるさいなぁ。私のことが好きなくせにー」
「うるさい。誰に向かって口きいてんの」
「いひゃい!」

 ムギュッと両方のほっぺたをつままれ抗議の声を上げると、月島君はハハハ、と笑った。

「ひどい。私のこと好きだって言ったくせに」
「好きだよ?」
「じゃあもっと優しくしてよ」
「あれ? 何も変えたくないんじゃなかったの? 友達と同じがいいんだよね?」

 意地悪な顔で月島君が笑う。

「……いじわる」

 それを言われたら何も言えない。

「はは、ホント面倒くさい女だよね」

 そう言って、月島君は私の手を握った。

「はい。これでいいんでしょ」

 勝ち誇ったように笑う彼を見ながら、絶対に離すもんかと握った手に力を込めた。

「力強……」
「絶対に離さないから覚悟してよね」
「のぞむところだよ、女王様」
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