- ナノ -


(31話)



 翌日、まともにリエーフの顔を見られなかった。朝から何度か顔を合わせるたびに、彼が何か言いたげにしているのは気付いていた。でも見ないフリをした。
 音駒の試合を見ていても、リエーフの落ち込みようは酷く、ミスは目立つしレシーバーとも上手く連携できていないようで、リベロの夜久さんにお尻を蹴り飛ばされていた。

 自分のせいだと分かっている。でも、どうしても近寄る事ができず、リエーフのことを避け続けて午前中が終わった。


「あー、ナマエちゃんや。ちょっといい?」

 黒尾さんがいつもの様子で手招きをした。

「……はい」

 呼ばれると思っていた。当然、用件だって分かっている。


「昨日は悪かったな。大丈夫?」
「はい。お騒がせして申し訳ないです」
「いや、アレはうちのリエーフが100パー悪いから。……で、そのバカのことなんだけどさ、使いもんになんなくて困ってるんだよね。助けてくんねーかなーと思って」

 気まずそうな顔で頬を掻きながら黒尾さんが言った。

「ツッキーから大体のことは聞いてる。ナマエちゃんが許せねぇっつーんなら無理にとは言わないんだけどさ。……できたら、謝らせてやって欲しいんだけど、どうかな」

 聞いていて、申し訳なさで死にそうだった。烏野は音駒の猫又先生のおかげでこの合宿に参加させてもらっている。それなのに、個人的な理由で音駒の練習の邪魔をしてしまった。恩を仇で返すとはこのことだ。

「……リエーフに悪気があったわけじゃないって分かってます。ごめんなさい。私こそ子供っぽいことをしてしまって……」


『何かあるとそうやってすぐ被害者面して……』


 言いながら、ハッとした。

「すみません、私、今……被害者ぶった顔してますか……?」
「……は? いや、ナマエちゃんは被害者なんだからいいんじゃねーの……?」

 黒尾さんは戸惑ったような顔をしてそう言った。いや、普段月島君が言うのは、きっと私のこういうところなんだ。なんてこった。目から鱗とはこのことか。

「いいえ! ダメです! 音駒の皆さんにご迷惑をおかけしてすみませんでした!」

 ガバッと黒尾さんに頭を下げると、黒尾さんは「うおっ!」と言いながら後ずさった。

「私、リエーフと話してきます!」
「あ、ああ……お願い……シマス……」
「……あの……リエーフはどこにいますか?」
「あそこ」

 指差された先を見ると、扉の端からリエーフがチラリと顔を覗かせていた。

「リエーフ!」

 小走りで駆け寄ると、リエーフはビクリと肩を震わせた。

「ゴメンね! 私、無視しちゃって。リエーフが何か言いたそうにしてるのは分かってたんだけど……その、どうしたらいいか分からなくて。……あと、やっぱりちょっとムカついたから……」
「ナマエちゃん素直だなオイ……」

 遠くで黒尾さんの声がしたような気がしたけれど、とりあえず無視した。するとリエーフはブンブンと首を振った。

「ナマエは悪くない。俺があんな事したから。本当にゴメン。俺のこと殴っていいよ」

 真剣な顔でそう言うと、リエーフはギュッと目を瞑って頬っぺたを差し出した。

「殴らないよ。リエーフがわざとやったんじゃないって分かってる。それなのに、無視したりして、私も悪かったって思ってる。ゴメンね」
「いや! それじゃ気が済まない!」
「え……ええー……」

 困ったな、どうしよう。助けを求めるように黒尾さんを振り返ると、黒尾さんはウンウンと頷いている。殴れということだろうか。

「よし! じゃあいくよ!?」
「おう! 来い!」

 体育館の中に『バチンッ』という音が響く。

「いってー!」
「わっ! ごめん!!!」
「ナマエ……マジで痛かった……」
「私も掌がジンジンする……」

 言いながら笑いがこみ上げ、二人して声を上げて笑った。リエーフの頬にうっすらとモミジが浮き上がる。色が白いから目立つな……。

「あーあ、痕クッキリ……」
「いいよ。気にしない」
「じゃあ、これで仲直りね」

 掌を見せながらそう言うと、リエーフはニッと笑った。

「よし。じゃあ飯食い行くぞー。昼休憩が終わっちまう」
「はーい」


 体育館を出る時、リエーフが「ナマエ!」と声をかけてきた。少し思い詰めたような表情に、思わず眉を寄せる。まだ何かあったのだろうか。

「どうしたの? まだ何か――」
「もし! 虫居たら、俺が追っ払うから!」

 だから大丈夫だから! と鼻息荒く言い放つリエーフを見つめる。本当に気にしてくれていたんだと、逆に少し申し訳なく思いながらも、私の頭の中にはあの長身のクラスメイトの姿が浮かんでいた。

「……ありがとう。でも、もう居るから大丈夫」
「居るって?」
「…………ナイショ。さ、ご飯食べに行こー!」


 私は大丈夫。だって月島君が守ってくれるんだから。



***



 あれから毎日、自主練後は月島君と一緒にいる。

「でね、私は当然レシーブできると思ったんだけどね? 角度が悪かったのか、こう……私の顔目掛けて。モロ、鼻に当たっちゃったんだよね」
「うわぁ……」
「で、ものすごい量の鼻血が出て。一緒に練習してたうちの従兄が母親を呼んでくれて、病院行ってレントゲン撮ったら、折れてたってわけ」
「っていうか、レシーブしてて鼻折るとか、凄まじすぎるんだけど……」

 うわぁ、と顔を顰めながら月島君が言う。

 自主練が終わると、みんなで食堂へ行き夕食を摂る。その後、なんとなく月島君と一緒に話をするようになっていた。別にどちらかが言い出したことではないけれど、なんとなく二人で居ることが当たり前のようになっている。

「当時中学生でそれだから、ホント及川先輩のサーブ気をつけた方がいいよ。その折れた鼻を治す所も超痛いんだけど、聞いとく?」
「結構です」
「そう? はい、じゃあ私の『超ーーー痛い話』は、これでおしまい。次は月島君の番ね。じゃあ月島君は、『一番ビックリした話』」
「は? 僕はいいよ」
「なんでよ! 私ばっかり……」

 ふと、ポケットの中の携帯が震えているのを感じた。見ると、液晶画面には『高橋』と表示されている。

「あ、高橋から電話だ。出ていい?」
「高橋?」

 怪訝そうな顔でそう言うと、月島君は小さく頷いた。

「もしもーし」
『あ、ナマエ? 今平気?」
「うん、平気だよ。今ねぇ、合宿で埼玉に来てる。月島君もいるよ。替わる?」

 チラリと見ると月島君が迷惑そうな顔でブンブンと首を振った。受話器の向こうでも高橋が『いや、なんでだよ。替わんなくていいよ』と言っている。

『……なぁ、合宿っていつまで?』
「明日で最後。明日の夜帰るよ」
『ならさ、明後日は部活?』
「明後日? 明後日はたしか午後からかな? なんで?」
『……ちょっと話したいんだけど、昼くらいに会えね?』
「昼頃ね。分かった。学校に行けばいいよね? はーい。じゃあまたね」

 通話を切ると、月島君が「高橋、何だって?」と聞いた。

「なんか会いたいんだって。話あるって。なんだろう? 課題が分かんないとかそんなとこじゃないかな、多分」

 私も課題最後まで終わってないんだよなぁ。なんて思いながらそう言うと、月島君は呆れたように小さくため息をついた。

「なんでため息? あ、月島君も会う? 高橋」

 は? なんで僕が。きっとそんなことを言われるだろうな、なんて思いながら問いかけると、月島君は意外にも「……会う」と一言呟いた。

「え? 会うの? 高橋に?」
「一緒に行く」
「……そう? ……オッケー、分かった」

 意外だった。きっと、席も前後だし、運動部同士だし、私の知らない間に友情が芽生えてたんだろう。若干腑に落ちないような気もしたが、そう思うことにした。

「……何の話してたのか忘れちゃったね」
「別にいいんじゃない?」
「えー、最後なのに。明日で合宿終わっちゃうんだよ?」
「疲れたから終わってくれていいよ。それに、この先もまだ何回かあるじゃん」
「それもそっか。……ふふ、この合宿で、一番レベルアップしたのは月島君だよね」

 クスクス笑いながらそう言うと、月島君は眉間にシワを寄せた。

「そんなことないと思うけど」
「そんなことあります! 黒尾さんと月島君の二人並ぶとね、全然隙間がないんだよ、ブロック。リエーフはまだまだって感じだけどね。今日後ろから見て、レシーブしやすそうなブロックだなって思ったよ。それに、自主練もするようになったし、どんどん上手くなっちゃうね。春高予選が楽しみ」

 言いながら、私まで嬉しくなってくる。きっと、月島君はこれからどんどん上手くなって、それを間近で見る事ができる。それが嬉しかった。

「……君も」

 月島君がポツリと呟く。

「私?」
「……苦手な蜘蛛を助けてあげたデショ」
「あぁ……あれは……その後の騒動でプラマイゼロどころかむしろマイナスな気がするんですけど……」

 できれば思い出したくない自分の失態から、思わず目を逸らす。わんわんと泣きながら喚き散らした。家に帰りたいだの何だの。思い出すだけで死にたくなる。記憶から抹消したい。

「ああ。あれはあれで面白かったけどね」
「もう、面白がらないで……」

 その時、耳元で羽音のような音がした。反射的に隣にいた月島君にしがみつく。

「な、なんかいる! 音がした! なんか止まってない!? 髪とか肩とか、何か止まってない!?」
「ちょっと、落ち着いてよ。カナブンだよ。ほら、もう取ったから……」

 顔を上げると、至近距離で月島君と目が合った。驚いたような顔でほんのりと頬を紅く染めながら私を見下ろす月島君を見て、自分が今何をしているのか、誰に抱きついているのか、ようやく理解した。

「ご、ごめん……はは……ホントごめ……」

 慌てて離れようとすると、月島君の手が私の首に添えられ、グッと引き寄せられた。少し斜めに傾いた月島君の綺麗な顔がゆっくりと近づいてくる。



 キスをされたのだと分かるまで、数秒かかった。



 ゆっくりと離れていく月島君の顔をぼんやりと眺めながら、頭が真っ白になった。


 ……え? キスされた? なんで?

 だって、月島君は……好きな人が……いるはずで……。

 ああ、そうか。……『私』、だったのかも。

 本当は、なんとなく、そうかもと思うこともあった。でも、気のせいだと思うようにしてきた。だって、気付いたら、きっと変わってしまう。私たちの関係が。そうならないように、今まで必死に自分の気持ちにも相手の気持ちにも気付かないふりをしてきたのに。

 もしも、月島君の言った、好きな人が、私だとしたら。勘違いとか自惚じゃなくて、月島君が……私と同じ気持ちだったとしたら。

 ……これから一体どうなるんだろう……。


「……そんなに嫌そうな顔しなくてもいいんじゃないの」

 ため息混じりに紡がれた言葉に顔を上げる。そこには、後悔の色を浮かべながら佇む月島君の姿があった。
 傷ついた顔をしてこちらを見つめる様子に、思わず息を呑む。

「ちがっ……そうじゃなくて……」

 言いかけて、言葉を飲み込む。何て言ったらいいんだろう。

 傷付けたかったわけじゃない。嫌だったわけじゃない。月島君のことが好きで。でもそれが怖い。何かを変えるのも、変わるのも。月島君のことが好き。どうしたらいいか分からない。

「そうじゃ……なくて……」

 何も言えない。私には。結局、私は、何も変わってない。あの時からずっと。

 視界が揺れて、瞬きと共にクリアになる。それと同時に、頬に何かが伝うのを感じた。それを見た月島君が、少し狼狽えるように身構えたのも。


「ツッキー? どこー?」

 遠くで山口君の声がする。

「ごめん、私、先に行く」

 乱暴に頬を拭い、月島君を置いてその場を離れた。



***



 周囲に人の居ないのを確認してから、足を止めた。壁に背を預け、膝を抱えて座り込むと、涙が溢れた。
 どうしてこうなったんだろう。何がいけなかったんだろう。


『お前と普通に話せなくなるのは嫌だ』


 頭の中で飛雄の声がする。

 分かってる。私だって嫌だ。月島君と、普通に話せなくなるのは。絶対に嫌だ。


 さっき見た、月島君の傷ついた顔が頭から離れない。傷つけた。あんなに優しい人を、身勝手な理由で傷つけた。

 ごめんなさい、傷つけて。
 ごめんなさい、逃げ出して。
 ごめんね、月島君。ごめんね。どうか嫌いにならないで。

 臆病な私は、そう心の中で繰り返し祈ることしかできなかった。
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