- ナノ -


(2話)



「ナマエー、今日も部活でしょー? 遅れるわよー?」

 重たい瞼をこじ開けて、枕元のスマホへと手を伸ばす。眠い目を擦りながら時計を見ると、普段の起床時刻を30分も過ぎていた。

「うそっ!」

 慌てて飛び起きて、大急ぎで着替える。当然ながら朝食を食べる時間は無さそうだ。

「もー、なんで起こしてくれなかったのー」
「起こしたわよー、三回も」

 指折り数えながら言う母を横目に見ながら、洗面所へ駆け込むと、手早く髪を整えた。

「ご飯はー?」
「いらない。食べる時間ないもん」
「あらあら」

 次からはもっと早く起きなさいね。そんな小言を言いながらも、母はお弁当を持たせてくれた。

「行ってきまーす!」


***


 重い足を引きずりながら、なんとか真っ直ぐに歩く。幸い朝練には間に合いそうだ。だが、寝不足のせいか頭がクラクラして、気を抜くと倒れてしまいそうだった。


「おはよ!」

 元気な声と共に肩をポンと叩かれ振り返ると、スガが爽やかな笑顔を向けていた。笑顔が眩しくて眩暈がする。

「おはよ……」
「うわ、体調わるそー。……つーか、やっぱ昨日具合悪かったんだべ」
「いや、昨日は元気だったんだけど、夜なかなか寝付けなくて。結果寝不足って感じ」
「マジかー。あんま無理すんなよ? 朝練休んだっていいんだからさ」
「ん……大丈夫。行ける」

 休みたくなくて、首を横に振った。烏養さんに会いたいし、なにより昨日の居心地の悪さを払拭したいという気持ちもあった。
 少しでもいいからみんなの役に立ちたい。じゃないと、私がここに居る意味がなくなってしまう。

 スガは困ったように笑うと、私の髪をわしゃわしゃと撫でた。

「無理だったらすぐ言えよ? おんぶしてやっからさ」

 スガはいつも優しい。スガの優しさに助けられたことは一度や二度じゃない。時々悪ノリすることもあるけれど、そのおかげで場が和むことも多い。

「ありがと。頼りにしてる」
「おう!」


***


 部活が始まっても、頭の中はぼんやりしたままだった。それどころか足元はフラつくし、若干気持ち悪くなってきた。朝食を抜いたせいで貧血っぽくなってるのかもしれない。少し座って休ませてもらおうかと顔を上げると、怪訝そうな顔をした烏養さんと目が合った。

「顔色悪いな。飯食ってきたか」
「あ……寝坊しちゃって……」

 誤魔化すように笑うと、烏養さんは呆れたような顔をしてガシガシと頭を掻くと、ドリンクを手に取った。

「ったく……。ほら、これ飲んでちょっとそこで座って休んでろ。顔真っ白だぞ」
「すみません……」

 そんな私に烏養さんは困ったように小さくため息をつくと、持っていたタオルを私の頭にかけ、その上からポンポンと撫でた。さりげない気遣いに、鼻の奥がツンと痛む。自分が情けなくて、溢れそうになった涙をなんとか押し留め、コッソリと体育館の隅へと移動した。



 体育館にチームメイトたちの声が響く。


 ――何やってんだろ……。


 みんなが一丸となって春高を目指しているときに、一体自分は何をやっているのか。頑張ろうと決めた矢先にコレだなんて。情けなくて恥ずかしくて、もういっそのこと、このまま溶けて消えてしまいたい。

 少し離れたところで部員たちに指示を出している烏養さんの姿が見えた。


 烏養さんが好き。好きでいる分にはいいと思った。誰にも迷惑かけないんだし、って。……でも実際はこうして体調を崩して部活に迷惑をかけてる。昨日の夜は諦めずに頑張ったっていいんだって思えたはずなのに、どうしてだろう、今日はそんなこと到底思えない。


 ……本当に潮時なのかもしれない。もう諦めろって、神様が言ってるのかも。

 烏養さんはきっと、この先どれだけ待っても私のことを恋愛対象にはしてくれない。『八歳』という年齢差は、きっと私が考えるよりも、もっとずっと大きいんだと、今更ながらそう思った。


 ……もしもあと八年早く生まれてきていたら、何か違ったんだろうか。今と違ってスタートラインくらいには立てていたんだろうか。
 同じクラスで勉強したり、選手として頑張る烏養さんをマネージャーとして支えていたら、恋が芽生えたりしたんだろうか。恋愛対象として見てくれたんだろうか。


 ――あーだめだ、泣きそう。


「ナマエ」

 声をかけられ顔を上げると、スガが心配そうな顔でこちらを見ていた。どうやら練習は終わったようで、後輩たちも片付けをしている。

「あ……ごめん。終わったんだね。片付け――」
「いいって! 体調悪い時まで無理すんなって。それより、保健室行くべ」
「そんな大袈裟なものじゃないよ。ただの寝不足だし。……でも、そうだね。寝ればスッキリするかもしれないから、ちょっとだけ休んでくる」
「俺が連れてく」
「平気だってば。練習後で疲れてるっしょ? 一人で行けるよ」

 普段は救われるはずのスガの優しさが、今は逆に辛い。気を抜くと泣いてしまいそうな中、優しくされたら余計に涙腺が緩んでしまう。頼むから放っておいてくれと心の中で叫びながら、スガから目を逸らした。でも、スガは私を逃してくれなかった。

「ダメだって! おんぶしてやるって言ったべ?」
「いいってば!」
「菅原」

 押し問答のようなやり取りを繰り返していると、いつのまにか同じ三年生マネージャーの清水潔子が立っていた。

「あ、清水からも言ってやってよ。ナマエを保健室に連れてこーと思ったんだけど、一人で行くって言い張って――」
「付き添いは私が行くから、菅原は教室戻って」
「え……」

 てっきり自分を援護してくれると思ったのだろう。スガは面食らったような顔をして固まった。

「ナマエ。残りの片付けは谷地さんと日向たちに任せたから、保健室行こう。菅原は鍵の返却お願いしていい?」

 有無を言わさない潔子の様子に、スガは渋々といった様子で「わかった」と呟いた。


***


 保健室への道のりを、二人無言で歩く。

 元々潔子は口数が少ない。普段からも、道中お互いに無言になることがあるので、これが初めてではない。なのでいつもなら気まずいなんて思わない。
 だが、今日はなんとなく居心地が悪い。先ほど醜態を晒してしまったせいだろうか。……ひょっとしたら潔子にも呆れられてるかもしれない。むしろ、私の不真面目な態度に怒ってるかもしれないまである。怖い。

 恐る恐る潔子の様子を窺うと、ふと目が合った。

「大丈夫?」

 いつもと変わらない声色に、心の中でホッと息を吐き出す。

「うん。ごめんね、仕事全部任せちゃったね」
「それは平気」

 再び沈黙が訪れる。今のところ、怒っているようには見えなかった。でも、これから発する言葉を慎重に選んでいるような、そんな緊張感が潔子からは伝わってくる。

 再び目が合い、緊張が走る。

「……何か、あった?」

 短く、かつ端的に問いかけられ、心の中で観念した。やっぱり潔子も私が変なことに気づいてたんだ。

「……あー、ちょっとだけ。でも、もう大丈夫」

 『もう大丈夫』。嘘じゃない。不調の原因は分かってるし、もう烏養さんのことは諦めようかなって思ってる。うん。多分諦めると思う。
 だから、これからはちゃんと部活に集中して、みんなみたいにちゃんとできる。

 ……もう二度と、こんな醜態は晒さない。


 潔子はまだ納得していないのか、何か言いたげに黙り込んでいた。そして、保健室の前まで来たところで、再びゆっくりと口を開いた。

「言いたくなかったら、無理には聞かない。けど……」

 言いづらそうな様子に、先ほどの警戒心が再び顔を出す。やっぱり部活に迷惑をかけたことを怒られるのかもしれない。

 内心ビクビクしていた私の予想に反して、潔子の言葉は意外なものだった。


「私はナマエの味方だから」


 思ってもみない言葉に、思わず顔を上げた。


「ナマエが元気ないと、みんな心配する。もちろん私も心配」
「潔子……」

 優しい言葉に再び涙腺が緩みそうになって、慌ててグッと堪える。

「いつも皆んなへの声掛け、率先してやってくれてるのがナマエだから。ナマエのおかげでみんなのびのび練習できてる。だから……頼りにしてる。早く元気になって」

 いつも言葉数の少ない潔子が、一生懸命言葉を選んでくれているのが嬉しくて、頷きながら涙を堪えるので必死だった。

「……ありがと。ごめんね……」
「謝らなくていいよ。じゃあ、ゆっくり休んで」

 そう言って、潔子は教室へと戻っていった。



 養護の先生に事情を話してベッドを借りると、カーテンを閉めて寝転んだ。


 ――ホント、最悪……。


 鼻の奥がツンと痛む。もう潔子も居ないし、別に我慢しなくてもいいか。そう思ったら、堰を切ったように涙が溢れてきた。

 自分への嫌悪感、不甲斐なさ、優しいチームメイトたちへの感謝の念がないまぜになって押し寄せてくる。

 自分はなんて馬鹿なんだろう。みんなが頑張ってる中、一人だけ不真面目で、浮ついてて。こんなんじゃ、みんなと一緒に頑張ってるって胸を張って言えない。きっとそのうち、みんなだって私がちゃんとしてないって気付く。

 いやだ。怖い。恋を手放すよりも、みんなから呆れられる方が怖い。みんなに嫌われたくない。

 そんなことを考えながら、この期に及んで自分のことしか考えられない自分に、再び嫌気がさした。


 バレー部に入った時は、こんなんじゃなかった。もっとちゃんとバレーのこと勉強して、みんなのために頑張ろうって思ってた。それなのに、いつからこんなふうになっちゃったんだろう。こんな、情けない自分に……。


 烏養さんを好きな自分は、恋してる自分は、嫌いじゃなかった。好きな人がいると、ドキドキして、ワクワクして、毎日とても楽しかった。

 でも、こんなふうに仲間に迷惑をかけたり、体調管理もできなくなる自分は嫌い。大っ嫌い。


 ……もうこれ以上、自分を嫌いになりたくない。


 バレー部のみんなが好き。頑張ってるみんなを応援したい。もっとちゃんと、マネージャーとしてみんなを支えたい。そのためには、もっと自分がちゃんとしなきゃいけない。自分の足でしっかり立たないと、誰のことも支えられない。


 大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。たったそれだけの動作なのに、不思議と心が落ち着いていくのを感じた。


 ――もう諦めよう。


 烏養さんのことは、諦める。今までどんなに脈がなくても頑張ってきたけど、ようやく本当の意味で決心がついた。


 大好きだった。本当に本当に、心の底から大好きだと思える初めての人だった。
 烏養さんが居るだけで、世の中が輝いて見えたし、毎日会えるだけで空も飛べちゃうんじゃないかってくらい、幸せで楽しかった。

 でもそれも今日で終わり。終わりにする。

 きっと明日からは、生まれ変わったみたいに心を入れ替えてちゃんとできる。……大丈夫。


 みんなで春高に行くために。今の私にできることを、もっとちゃんと探すんだ。
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