Thinking of You (後編)
季節が秋から冬に変わり、春高出場を決めた僕らは、それなりに忙しい日々を送っていた。
あれから彼女は、たびたび縁下さんに送ってもらっているようで、一緒に居るところをよく見るようになった。
「でも、付き合ってはいないらしいよ」
聞いてもいないのに、山口は時々こうして近況報告のようなことをするようになった。彼女への気持ちは打ち明けていないはずなのに、なぜ分かるんだろう。
「ただ、ああやって一緒に帰るのが習慣化する前に、なんとかしたほうがいいと思うんだよね……」
「なんとかって、何」
とは言ったものの、山口の言うことも一理ある。この間も縁下さんにお菓子の包みのようなものを渡していたようだったし、二人の距離が前よりも近くなっていることは確かだ。
あの日、自分が送っていくと言っていたら、何か変わっていたんだろうか。
「たとえば、ツッキーがミョウジと一緒に帰ったりさ! 二人っきりなら、きっと自然といい感じの雰囲気に……」
「……家だって反対方向なのに、急に誘ったら不自然デショ」
「そこは、ほら……その……そっか……」
「……そうだよ」
それに、いきなり一緒に帰ろうだなんて、好きだと言っているようなものだ。おいそれとできることじゃない。
「でもさ、ツッキーはこのままでいいの? ミョウジがまだ縁下さんのこと好きとかじゃないなら、今のうちになんとかしないと……。縁下さんは……その……好き、なんだと思うよ……?」
「……分かってるよ」
それが分からないほど馬鹿じゃない。面倒見の良い先輩というだけにしては、彼女との距離がやけに近い気がするし、なにより彼女を見る縁下さんの眼を見ていれば、どう思っているかなんかすぐに分かる。
きっと、僕と同じ気持ちを、彼女に抱いている。
縁下さんはいい人だと、僕も思う。彼女は誰とでも仲が良いけれど、一緒に帰るようになってからは話しやすいのか、なにかと縁下さんに頼ろうとすることが多くなったようにも見える。
このままではまずいことになるということだけは漠然と分かるのに、どうしたらいいのかはさっぱり分からなかった。
***
練習後の自主練があらかた終わり、周りも片付け始めた。そっと彼女を覗き見る。彼女の方も片付けが終わったのか、ちょうど帰り支度をしているようだった。
今日も縁下さんと一緒に帰るんだろうか。
『一緒に帰るのが習慣化する前に、なんとかしたほうがいいと思うんだよね……』
頭では分かってる。このままじゃダメだって。でも、だからって僕にどうしろって言うんだ。
「お疲れ様!」
ふと肩を叩かれ振り返ると、彼女が立っていた。
「……お疲れ様」
「あれ、どうかした? なんか疲れてる?」
「練習後だからでしょ」
「ああ、そっか!」
そう言って彼女は納得したようにカラカラと笑った。
「……何か用?」
「えー、用は別に無いんだけど、ほら、月島明日から白鳥沢で強化合宿でしょ? しばらく会えなくなるなーって思って、話しとこうかなって」
「たかが五日じゃん。木曜までは普通に学校あるわけだし」
本当は嬉しいくせに、口をついて出るのはそんな可愛げのない言葉で、流石に自分に嫌気がさした。
「そうだけど……なんかちょっと元気ないみたいだったからさ。なんかあったのかなーって」
「別に何も……」
言いかけて、ふと思う。
ここで『一緒に帰ろう』と言えばいいんじゃないか? 合宿でしばらく会えないんだし。この流れなら不自然ではないかもしれない。せっかく彼女がとっかかりを作ってくれたじゃないか。何か言えよ。
「あのさ……」
「おーい、ミョウジ。帰んないの?」
出入り口の方から、縁下さんの呼ぶ声がする。ああ、やっぱり今日も一緒に帰るのか。
「あ、帰りまーす。じゃあね、月島……」
言いかけて、何かに気づいたように眉を上げた。
「……大丈夫?」
「え……?」
「なんか難しい顔してるよ? やっぱり何かあった? 話、聞こうか?」
なんて答えたらいいか分からず何も言えないでいると、彼女は少し考えるようにしてから「ちょっと待ってね」と言って縁下さんの方へと走っていった。そして、何か一言二言話してから、こちらへ戻ってきた。
「お待たせ。一緒に帰ろ」
「……は?」
「なんかあったんでしょ? 話聞いてあげる。あ、その代わり、送ってよ? 流石にこの時間に一人は怖いんだよねー」
ヒヒヒ、と戯けたように笑うと、彼女は僕の腕を引いた。
彼女は出会った時からいつもこうだった。グイグイと人の内側まで踏み込んできて、強引に僕をどこかへ連れて行こうとする。
それを心地よく思うようになったのはいつだっただろう。
最初はものすごく癇に障ったし、ひどい言葉を投げつけたこともある。でも彼女は許してくれた。あの瞬間から、ずっと好きだったのかもしれない。
***
「なんかあったー?」
並んで歩きながら、彼女は僕を見上げて言った。
「……別に何も無いよ」
「そ? 言いたくないならいいけどさ。ほら、明日から合宿っしょ? せっかくの機会なのにもやもや抱えて行くってのもさ、もったいないじゃん? だから、モヤモヤはここで全部吐き出していかないと! 私、結構聞き上手って言われるんだよ?」
「……誰から?」
「えー? 仁花とか?」
どこまで本当か分からないようなことを言いながら、彼女は笑う。そんな彼女につられて笑うと、彼女は満足そうに顔を綻ばせた。
「やっと笑った。ま、いつでも聞くからさ、何かあったらお姉さんに言いなー」
「何、お姉さんって」
「ん? だって、私の方がお姉さんじゃん。月島って、九月生まれでしょ? 私、七月生まれ。ほら、二カ月くらい私がお姉さんじゃん?」
「はは、何それ」
彼女と一緒に居ると、穏やかな自分で居られることに気付く。彼女の隣は居心地がいい。
もし、好きだと告げたら、今のこの関係はどうなるんだろう。こんなふうに一緒に居られることは無くなるんだろうか。なら、この関係を手放してまで彼女に想いを告げることが、僕にできるだろうか。
そこまで考えて、心の中でため息をついた。
――無理に決まってる。
彼女の態度を見る限り、自分が特別に思われているとは思えない。きっと、ただの友達の域を出ていない。ならきっと、僕の望んだ結果にはならないだろう。
……縁下さんと一緒にいる時の彼女は、どうなんだろう。僕に対する態度と、何か違いはあるんだろうか。
「ん? どうかした?」
「……縁下さんは良かったの? 一緒に帰らなくて」
「ああ、大丈夫大丈夫。別に約束してるわけじゃないし。いい人だよね、縁下さんって。そういえばさ、この間帰る時、帰りにお腹鳴っちゃってさ。お腹空きましたねーとか話しながら帰ったんだけど、縁下さん肉まん奢ろうとしてくれちゃうからさ、断ったわけ。なのに強引に奢られてしまって」
「……別に奢って貰えばいいんじゃないの。澤村さんには奢ってもらってるじゃん」
「大地さんはキャプテンじゃん。だからいいの」
「何それ」
「でね、やっぱ気まずいので、この間クッキーの詰め合わせあげた。美味しいやつ。ちっちゃくまとまってね、何個か入ってるの」
「……ああ」
数日前に見た光景が頭の中で繋がる。なんだ。そういう経緯で渡したものだったのか。
「なんか申し訳なくてさー。彼氏でもないのに、部活の先輩に理由なく奢ってもらえないよ。そう思わん? 潔子さんに奢られたらビビらん?」
「ああ、そうかもね」
「でしょ? あ、月島はいつでも奢ってくれていいよー」
「嫌ですけど」
再び彼女がカラカラと笑う。彼女と話していると、時間が過ぎるのがあっという間だ。そうこうしているうちに、彼女の家の前まで来てしまった。
「次に月島に会うのは合宿明けかな?」
「……そうだね」
「がんばってね! 応援してる。春高は、月島の活躍にかかってるんだからね!」
そう言っていつもと同じ顔で笑う彼女を見て、ふと山口に言われた言葉が頭の中で蘇った。
『ミョウジがまだ縁下さんのこと好きとかじゃないなら、今のうちになんとかしないと……』
「あのさ……」
「ん?」
……もし、好きだって言ったら、彼女はなんて答えるだろう。友達としか思えないとか、そんなふうに考えたことなかったとか、そういったことを言われるんだろうか。
告白が断られても、今みたいに笑って話ができるだろうか。二人で居る時に気まずくなったりしないだろうか。
でももし縁下さんと付き合うようなことになったら、そもそもこうして二人きりになること自体不可能じゃないか。なら、ダメ元でも今この場で気持ちを伝えた方がいいんじゃないか。ほんの少しでも可能性があるなら……。
頭の中にいろんな考えが浮かんでは消える。
「月島? ……大丈夫?」
黙り込んだ僕の様子を窺うように、彼女はほんの少しだけ首を傾げながら、小さな声で問いかけた。大きな瞳がこちらを見ている。
――やっぱり好きだ。
「あのさ。……もしも、僕が――」
「あら? ナマエ?」
言いかけたタイミングで、彼女によく似た声が背後から聞こえた。
「ああ、お母さん。おかえり。出かけてたの?」
「ちょっと買い忘れちゃったものがあったからスーパーに行ってたのよ。……お友達?」
「ああ、同じバレー部の一年生。月島君」
彼女の紹介に合わせて頭を下げる。
「こんばんは。ナマエの母です」
小さく頭を下げながら、彼女の母親が柔らかく微笑んだ。笑った時の目元がよく似ている。
彼女の母は僕をじっと見てから、彼女の耳元でこっそりと何かを耳打ちした。
「は!? 違うから! ただのチームメイトだし!」
「あら、そうなの? でも背が高くてかっこいいじゃない!」
数秒前の印象とは打って変わって騒がしい雰囲気に、若干面食らう。やっぱり親子だ。よく似ている。
「もー、いいから先帰っててよー」
グイグイと母親の背中を押すと、彼女の母親は名残惜しそうにチラチラとこちらを見ながら家へと入っていった。
「ごめんね、うちのお母さん、ちょっとミーハーで」
「いや、別に……」
よく似てたよ、とは言わずに、彼女の方を見る。気恥ずかしさからか、ほんのりと頬が紅く染まっている。
さっきのやり取りは、流れから察するにおそらく『彼氏か』とでも聞かれたんだろうなと思った。その答えがアレか……。
『ただのチームメイトだし』
そりゃそうか。現時点で何とも思われていないのは想定内だ。特段がっかりすることもない。そう思っていても、やっぱりどこか気持ちが沈む。
「あ、月島、何か言いかけたっしょ? なんだっけ?」
問いかけられ、息を呑む。さっきまでの勢いはもう削がれてしまった。とてもじゃないが、このまま気持ちを伝えようなどという気は起きなかった。
「いや……また今度話す」
「そう? じゃあ……合宿がんばってね」
そう言って、彼女はいつもと同じ顔で笑う。家に入るのを見送ってから、やっぱり彼女が好きだと改めて思った。
合宿が終わったら、きちんと気持ちを伝えよう。
結果がどうなったとしても。今みたいに居られなくなったとしても。このまま何もしないでいて、彼女が誰かのものになるのを見ているよりは、きっとよっぽどいい。もしダメだったとしても、少しずつ関係を変えていけばいい。
この時はまだ、そう思っていた。
***
五日間の合宿が終わって、久々に見慣れたいつもの道を歩く。
結局、合宿に入る前に学校ではほぼ会えなかったので、会うのは先日送り届けた以来だ。なんだかずいぶん長いこと会っていない気がする。最後に会った時の彼女の笑顔が脳裏に浮かぶ。……早く会いたい。自分が誰かに対してこんなことを思うようになるなんて、思ってもみなかった。
「月島ー! 背伸びたかー!」
学校に着いて早々に、菅原さんに頭をわしゃわしゃと撫でられる。もうこの手のやり取りにはすっかり慣れてしまった。
彼女はまだ着いていないようで、姿が見えなかった。
――まだ来てないのか。
残念なような、待ち遠しいような、落ち着かない気持ちで当たりを見渡す。するとまもなく背後から彼女の笑い声が聞こえた。ふと視線を向けた時、心臓が大きく脈打った。
……彼女の隣には、縁下さんが居た。
まるで一緒に登校してきましたと言わんばかりの雰囲気に、思わず息を呑んだ。背中を嫌な汗が伝う。偶然途中で会っただけじゃない。親密そうな二人の様子に、全てを悟った。
自分はしくじったんだ、と。
「ツッキー……」
山口が心配そうな顔でこちらを見ているのが視界の端に入った。
「……いつ……」
「……えっと……ツッキーが合宿の間……。縁下さんが告白したみたい……。俺も昨日の帰りに聞いて……その……」
言わなくてごめん。そんな雰囲気が山口から漂っている。山口のせいじゃないから大丈夫だと言ってやりたいのに、言葉が出てこない。それどころか、思考回路が断ち切れてしまったように何も考えられなかった。
「ツッキー、大丈夫……?」
「何が? 別に平気」
トイレに行くと告げて、なんとかその場を離れる。
一人になってから考えるのは、たった一つだった。
――なんで。
なんで、あの時言わなかったんだろう。
なんで、彼女の隣に居るのが僕じゃないんだろう。
なんで、なんで……。
いくら考えたって答えなんか出やしない。分かっているのに考えずにはいられなかった。
言えばよかった。タイミングなんか気にせず。話の流れなんか気にしないで。言ってしまえばよかった。
……僕は馬鹿だ。
もしもあの日をやり直せるなら、何だってするのに。
いくら願っても、そんな非現実的なこと、起こりはしない。そうやって、同じ問いを馬鹿みたいに繰り返しながら、月日だけが虚しく過ぎていった。
***
卒業するまで、二人は付き合ったままだった。付き合った当初は仲の良い先輩後輩の域を出ていなかったようだったのに、月日が経つにつれ、バレー部内では公認カップルのようになっていった。
彼女を手に入れたいという気持ちはもはや残っていなかったが、彼女への気持ち自体が消えることはなく、報われることのない気持ちだけが抜けない棘のように胸の真ん中に居座っていた。
もういっそのこと、好きだと告げてみようか。振られでもしたら逆に諦めがつくんじゃないか。そんなことを考えたこともあったが、『友達』というポジションは最後の砦で、それを失う勇気は持てず、最後まで何も言えずに終わった。
彼女を忘れられるならと、他の子と付き合ったこともある。だが結局、彼女と違うところを発見するたびに気持ちが冷めてしまい、申し訳なくてすぐに別れてしまった。
結局僕はどこへも行けず、この数年の間ずっと、ぐるぐると同じところを回っていた。
「あ、そうだ。日程、来週になりそうだよ」
向かいに座った山口が、いきなりそう切り出した。一瞬なんのことかと思ったが、すぐに思い当たった。
「ああ、日向のやつ? ずいぶん急だね」
「ちょっとね。……ツッキーも来れるよね?」
「一応ね」
あまり気乗りはしないけど、と心の中で付け加える。
「影山だけはやっぱり無理そうだけど、他のみんなは来れるみたい。それと……今回は同期だけだから、ミョウジも来ると思う」
不意に彼女の名前を聞いて、心臓が跳ねた。
「そう……」
――久々に、彼女に会える。
風の噂で、彼女と縁下さんが別れたらしいということは耳に入ってきていた。そのせいなのか、前回のバレー部の集まりに、彼女は参加しなかった。
もうバレー部の集まりには来ないつもりなのかもしれない。ならこの先、バレー部くらいしか繋がりのない彼女と会うことは無いかも。そう思っていた。
でも、彼女に会える。
きっとこれは最後のチャンスだ。これを逃したら、もう好機は訪れないだろう。
「……あと、これは独り言だから聞かなくてもいいんだけど」
山口が僕から視線を外したまま続けた。
「……今のところ、付き合ってる人は居ないらしいよ。でも、同じ学部のヤツに映画に誘われたりはしてるらしいから……早いほうがいいかなって」
チラリと山口がこちらを見た。
まだ好きだよね? 彼の目はそう言っているようで、コイツには敵わないと小さく笑った。
もしもあの日をやり直せるなら、何だってするのに。柄にもなくそう願ったこともあった。でも、願いを叶えるのは神様でも何でもない。
彼女を手に入れるためなら、なんだってやってやる。もう二度と、あんなふうに後悔するのは御免だ。あんな……出口のない迷路を彷徨うような途方もない想いは。
もう二度と、同じ轍は踏まない。
そう決めた瞬間、長いこと胸に刺さったままの棘が、春を待たずして雪のように解けて消えていくような気がした。
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