ふわふわ足立さん
-----------------------------



 もうこうなったらこうするしかないではないか。
 俺はくったりとした足立さんを負ぶって家まで持ち帰る。本当なら電車を使いたい距離だが、生憎とこの町の電車はそんなに遅くまで走っていない。幸い体は丈夫なほうで、足立さんの混濁は深い。誰かに見られたとしても、酔っ払った叔父の部下を家に運んでいる途中と言い訳すれば何とかなるだろう。状況は最高とはいえないが、上々である。
 夏の終わりかけの夜は、どこか肌に張り付く感じがする。夜と、それに混じる足立さんの匂いを吸い込んだ。タバコの煙のように強くはないし、全てを巻き込むほどの無臭ではない。彼は体温もあり、発汗もする、割に普通の人間だった。
 呼吸を足立さんで満たしながらの帰路は、思ったよりも快適で快感だった。俺の足は信じられないほど軽くするすると進む。63キロが背中に乗っているとは思えない。それどころか、俺の体重さえ感じないほどである。さすがに変ではないか。考えて、ふと気づく。どうも、足立さんが異常に軽いのだった。そのふわふわとした存在感。いつの間にか、俺の足は地上を離れていた。足立さんに引っ張られて、浮かび上がってしまったらしい。足立さんは風船のように空へ帰ろうとしていた。
 不思議と足立さんと俺の体は癒着しており、思い切り掴んでいなくとも、彼だけが飛び去ってしまうということはなかった。俺は天使様にでもなったような心地で、体を地面に垂直に傾けてみる。すると、期待したとおりにピーターパンのような調子で浮かぶことが出来た。両手を広げてくいと上に向ければ、果たして体はふんわりと空へ向かう。俺はついに空をも手に入れてしまった。
 月に向かって飛んでみようかとしばらく高度を上げるが、空の上のほうは幾分肌寒い。足立さんが風邪を引いてしまったら可哀想だと思い、俺は月を目指すのは諦めた。それでも、町中のどんな建物よりも高く飛び上がると、それだけでとても気持ちがよかった。足立さんだって、こうして自分が高みから全てを見下ろすことが出来るのだと知ったら、もう少し世界を好きになるのではないだろうか。俺は彼を起こすことにする。たとえそれで落ちたって、仕方のないことだ。
「足立さん、すごいですよ」
「……」
「これなら、地獄に行かなくて済みそうだ。そのまま天国にでも行ってみましょうか?」
「……」
「もう。起きてるんでしょう」
「はは、ばれた?」
 寝ている人間と起きている人間では呼吸の深さが違うのだ。密着している俺には、彼の目覚めがすぐに分かった。上空にいる驚きで一度体が膨らんだのだって知っているし、心臓がいつもより楽しげに踊っていることだって感じている。足立さんは全く、俺のことをバカにしている。
 足立さんが目覚めても、地上に叩きつけられるようなことにはならなかった。意識とはあまり関係のない現象らしい。俺は嬉しくなって、すぐに足立さんを許した。
「どこへ向かって飛びましょうか」
「舵は君なの? なんだか納得行かないなぁ」
 とりあえず海にでも行きたいと思い、するりと右に体を傾ける。足立さんは不満げな声を出しながら、その実楽しんでいるようで、俺の肩から垂れ下がった腕が興奮でぴくぴくと震えた。
「あ、ほらほら、東京タワー」
「え?どこに?」
「そこらじゅうにあるじゃない。まったく、作りすぎだよ」
 いたいけに震える指先が、町を指差していく。どうやら足立さんは電柱のことを東京タワーだと思っているらしかった。ははあ、と俺はそこでようやく合点がいく。
「なんにせよ、うまくいってよかったです」
 俺は少し前傾姿勢になって、速度を上げた。足立さんの嬉しそうな声が髪に当たる。海はもうすぐそこだった。
「足立さん、この海は、きっと東京湾なんでしょう」
「日本海ってこと?」
「そうです。そうやって、なにもかもふわふわしていれば、幸せなんですよ」
「ふうん。菜々子ちゃんは大人びたことを言うね」
 足立さんは俺と菜々子の区別さえふわふわしているようだった。それでいい。浮かび上がる程度に、彼の頭が柔らかく軽ければ、彼は苦悩も虚無も抱けないに違いなかった。
 俺はくるくると体をまわしたりなんてして、パレードの飛行機のように飛び回った。あはは、と響く足立さんの、屈託のない笑い声。足をくいと曲げると、彼の体に当たって跳ね返ってくる、その肉体の質量が嬉しかった。俺はひどい罪人だった。
 さて、着いてみると海は夜闇にすっかり溶けて、どこにも見当たらない。ただ潮の匂いと波の恐ろしい音が響くばかりだ。月さえ照らさない海の上は、深海と大差ない。重力の無力も手伝って、俺ははしゃぎまわる。足立さんもなにも分かっていないのだろう。ただくすくすと笑う。足立さんの汗のにおいが、時折潮と混じって俺の鼻にぶつかった。
「菜々子ちゃん、一つお話でも聞かせてあげようか」
「お願いします」
「よーし。それでは、ごほん」
 俺は楽しくて楽しくて、教訓のある昔話のことなど忘れてしまっていた。俺が辿るべきお話だってまるで覚えていなかった。殺人事件や、テレビの中なんて、思い出したくなかったのだ。それが全て彼のふわふわした脳ミソをぐっしょりと血に染めて、固めて、元に戻してしまうことを知っていたからだ。
「昔々、ギリシャにイカロスという男がおりました」
 俺は足立さんをふわふわさせた満足におぼれて、自分もふわふわしていることに気付いていなかったのだった。空が、明け始めていた。
「彼は空を飛ぶことを夢見て、あれ? 違うかも。まあいいや。空を飛ぼうと、羽を作ることにしたのです」
 海がささやかに染まり出す。そうすると、やはりここは深海などではないのが明らかになってしまった。波の白さが照っている。海の青さが燃えている。
「イカロスは、鳥の羽を蝋燭で固めて、見事空へと飛び上がりました。彼は大喜びして、その誇らしさ、すばらしさに有頂天になり、上へ上へ、高く高くと、どこまでも上っていきました。」
 俺は、高度が下がり始めていることに気がついた。今まで俺をなんなく持ち上げていた足立さんの浮力が、少しずつ弱くなっているのだ。
「彼はどこまでもどこまでも飛んでいって、そうして鬼をやっつけて、白髭のおじいさんになってしまいましたが、今も僕たちの上を飛び回っては、空から人を落としているのでした」
 ちゃんちゃん、というあの締めは、波飛沫に掻き消されて聞くことが叶わなかった。俺たちは揃って海へ落ちたのだった。足立さんは太陽の熱に耐え切れず、殆ど溶けてしまっていた。悪いことに溶けた足立さんは海水に冷やされて、俺を固定するように固まってしまった。おかげで俺は泳ごうともがくことさえ出来ずに、足立さんの重みで海へ沈んでいく。
「この地獄は、随分と涼しいね」
 沈みきる前に足立さんはそう言って笑った。今から俺たちがいく場所を思うと、なんとも皮肉な言葉だった。足立さんは今に、血に塗れてふわふわできなくなるというのに。
 俺は海水を吸って重くなった頭を数度横に振って、とりあえず海の底に付くまでの間、彼のふわふわをふわふわした。











prevnext



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -