アイス人間恋をする
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アイス人間
『と、溶けてる!』


※  ※  ※

バニラ味のアイス人間がどろどろに溶けて消えていくシーンだった。雪のように美しく消えることは叶わず、彼は道をそのベタベタの体で真白に汚して溶けていく。
これでこの物語は終わりだと思ったのだが、その絵本はまだ数頁の余りがあった。しかし蛇足だ。
僕はこの後の展開を作者の性格から想像して、ため息をつきながら本を閉じる。

「**君。この本は一体何なのかな」

ノートほどもない小さな絵本を、台所に立つ彼に見せつけるようにひらひら振って尋ねた。『アイス人間恋をする』というタイトルが黄色の表紙に黒字で力強い字体で書かれている。今更のようにタイトルを思い出して、もしかしてこれはシリーズものなのだろうかと思う。作者はすぐそこで皿を洗っているのだしさっさと聞いてしまえばいいのだろうが、何となくしゃくだったので聞かない。

「プレゼントです」

『アイス人間恋をする』の作者はカチャンと音を立てながら洗い終えた最後の皿を置くと、タオルで手を拭いた後、当たり前のように僕の左隣に腰を下ろした。
狭い部屋だ。確かに座れる場所は限られる。だからといってここ以外にないというわけでもない。あまり愉快ではなかった。
狭い、と文句を言うが、少年はすっと目を細めてそれを聞き流す。そして僕の右手から本を受け取ると、表紙を見て今度は明確にほほ笑んだ。少しだけ触れた彼の手は冷え切っていた。この真冬にも拘らず冷水で皿洗いをしていたようだ。

(やっぱり)

思いながら少年の手を凝視する。長く細い指の上に肉の色を透かした完璧な形の爪が乗っかっている。そこまでは美しいのだが、その指と爪の継ぎ目には血の色がにじんでいた。まるで剥がそうとしたように、あるいは単なるささくれの様に。
白けた**君の手が『アイス人間恋をする』の表紙をそっと撫でた。

「絵本なんて初めて描きました。何年あったって、人にはやらないことがたくさんありますね。俺は実感しましたよ。何度、何年あっても、右に行こう、左に行こう、まっすぐ行こう、行くのは止そう、その次はどこに行こう。分岐はいくつもいくつも……。何年あったって足りやしない。全然足りない。でもそれはまるで希望みたいで」

だからホラ。彼は冷たい手で僕の左手を開くと、絵本を持たせた。どうやら既刊はこれだけらしい。
持たされた『アイス人間恋をする』はじっとりと僕の手になじんだ。その感触、目に入ったふやけた黄色の背表紙といまだに僕の左手に重なったままの彼の手で、感づく。

「でも希望じゃないね」

タイトル『アイス人間恋をする』は滲んでいる。少年の手から流れ出した粘度の高い液体が、僕の手の甲を滑った。ベタベタする。
そうかもしれない、と力なく答える少年はせめてもの抵抗の様に僕の左手を強く握りこもうとした。しかしぐにゅぐにゅとろとろとその掌は僕の手を彼から逃がしてしまう。あまりに不毛なのでこちらから振り払い、手持無沙汰に絵本を右手に持ち直す。左手にべっとりと付着した白を舐めれば、バニラの粘ついた甘味が舌に染みた。こんな寒い季節には向いていない。
**君の体が僕にそっと寄りかかった。あるいはもたれかかった。それがまだ彼の意志ならいいなと思いながら、甘すぎるバニラの味にカラカラに乾いた喉から声を絞り出す。

「アイス人間は恋なんてすべきじゃなかった。アイスなんだから」

「いいえ、彼は恋をしなければいけなかったんですよ」

「……何故」

少年はこんな時まで笑い声で返事をよこした。くつくつと笑うだけで、言葉で答えようとはしない少年に疑問を重ねる。

「だって、なんにもないよ」

彼と同じように笑おうとした僕のひしゃげた声は、誰かの泣き声みたいだった。
それにすら笑って答える少年の身体が、その振動のためにぐにゅりと制服の中で崩れる。首も頭部の重みに耐えられなくなったのか力なく傾いて、ひんやりした頭は僕の肩に乗った。
彼はううんと一度唸ると、なんにもなくても、と喉からぽこぽこと泡立つ音をさせながら言う。

「あったかいです」

少年の頭の乗った肩から一気に冷たさが広がった。液体が体中をつたう。僕のスーツとワイシャツは少年の肌の色や脳ミソの色、血の色にじわじわと染め上げられていった。



※ ※ ※ 


アイス人間
『と、溶けてる!』

人間
『それが恋なんだ』

アイス人間
『どうして? どうして死ななきゃいけないんですか?』

人間
『逆さ。死ぬために恋をしたんだ。体温を共有するためだけに』


※ ※ ※



「**君」

呼びかけるが答えはなかった。おそらくもう彼の頭部は少年の面影を残してはいまい。あえて確認する事もないだろうと思い、僕は目を閉じる。

「蛇足だ」

全身が冷え切っていた。凍え死にそうなほどに。








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