私の在り方
レレウィーゼ古仙洞。ウェケア大陸のなかにある秘境中の秘境だ。高台から続く細い坂道。その坂の下、奥から吹きつける強い風。唸るようなそれは、ユーリらの来訪を決して歓迎しているとは言い難かった。崖下には河があり、水の力によって大地が長い時間をかけて削られ、このように入り組んだ地形を生み出したらしい。
道中には秘境ならではの屈強な魔物もおり、下るのは容易ではなかった。開けた場所に着くと、特にレイヴンが疲れた様子で溜息を吐いていた。帰りはここを登らなくてはならないと知らせれば倒れてしまいそうに思える。ノアが心配して彼に声を掛けようとしたとき、ウウウ、とラピードが唸るのが聞こえた。
「誰か来ます!」
「こんなところに、人……?」
身構えるエステル、訝るジュディス。
一行が目指す先から此方に向かって歩いてきたのは、白髪の美丈夫。デュークだった。「おまえたち……!」デュークは珍しく驚いているらしかった。思わぬ再会にユーリも目を丸める。
「デューク! あんたか。相変わらず神出鬼没だな」
「……ここで何をしている?」
「ここに始祖の隷長がいるらしいんでな。精霊になってくれるよう頼みに来たのさ」
落ち着いたデュークの問いに、ユーリが答えた。精霊とは、とデュークが当然の疑問を呟く。
「始祖の隷長を、聖核を経て転生させた存在よ」
「その精霊の力でエアルの問題を根本的に解決できるかもしれないんです」
「エアルをマナに変換してね」
ジュディス、エステル、リタの説明に、デュークがどんな反応を示すか。ノアはそっと彼の顔色をうかがった。衝撃を受けたらしい彼は「……そうか。だから……」となにか納得したように声を漏らしている。始祖の隷長の転生に関して、デュークはデュークなりに何らかの変化を感じ取っていたようだった。エアルの問題を解決することは、エアルクレーネを鎮めて回っていた彼にとっても悪くない話のはず。そうノアは思っていた。
しかし、想像とは逆に、デュークの声音は剣呑さを増してしまう。
「……転生……エアルを変換……おまえたち、世界を作り替えようとでもいうのか。元はと言えば人間が引き起こした問題の為に。なんという傲慢さだ」
心の海に鉛を落とされたような気分がした。ノアは何も言えなかった。
デュークの言う通りだ。始祖の隷長の忠告を聞かずに魔導器を使い続けたのは人間だ。だがほとんどの人はエアルの問題など知らず、生活になくてはならない魔導器に頼り、ただ生きているだけ。最たるものが魔物の侵入を防ぐ結界魔導器だろう。
反面、魔導器を悪用する者がいたのも事実だ。星喰みを封印したのち、必要以上に魔導器を使用しないよう管理するためにできた《帝国》は、時代を経るごとに魔導器の恩恵を上流階級のみで独占した。アレクセイのように技術を悪用する者もいた。結果として太古に封印された星喰みが、再びよみがえってしまった。
デュークにとっては、ユーリやアレクセイという個人の区別など関係ない。皆同じ『人間』だった。個々でどれだけ真摯に問題へ向き合おうとしていても、同じなのだ。
そのことに気付いて、ノアは更に落胆する。どうすれば彼に自分たちの考えを理解してもらえるのだろう?
「だが、エアルの問題を解決しなけりゃ星喰みが世界を滅ぼしちまうだろ」
ユーリは引き下がらない。他の仲間たちもそうだった。エステルは、ベリウスの聖核がウンディーネへ転生したことを伝えた。ヘルメス式魔導器を壊していたかつての竜使いジュディスも、頑なだったフェローがイフリートという精霊へ生まれ変わったことを話した。
デュークの考えは変わらない。
「テルカ・リュミレースのあるべき形、それは始祖の隷長を含む全ての生物が自然な形で生命を営めるもの。それはおまえたちもわかっていよう」
それを聞いて、カロルとレイヴンは、グシオスの例を出した。彼はひとつの島を形成するほどのエアルを取り込み、限界を超えて暴走しかけていた。精霊ノームへと転生していなければ、星喰みになってしまっていただろう、と。だから全ての生物は分かり合えるとパティは笑った。その笑みが、凍り付いたデュークの表情を溶かしてくれたらとノアは願ったが、当然のように叶わない。
彼は静かに、決意を口にした。
「……たとえそうであっても私は認めるわけにはいかぬ。私はこの世界を守る」
「前にもそう言ってたな。じゃあ、あんたはどうやって世界を守ろうとしてるんだ?」
「……おまえたちの邪魔はすまい。が、私の邪魔もするな」
ユーリの問いかけに答えずに、デュークはこの場を去ろうとしていた。一行がレレウィーゼの奥を目指していることを察して、振り返りながら忠告する。
「この先はこの世界でもっとも古くから存在する泉のひとつ。相応の敬意を払うがいい」
「肝心の話は教えてくれないのね」
「……さらばだ。もう会うこともあるまい」
最後のジュディスの追求も空しく、デュークは今度こそ本当に歩き去って行ってしまった。
このまま二度と彼に会えず、分かり合えぬまま旅を終えてしまうのか。ノアの心はそれを良しとしなかった。
「ユーリ、あの、」足を踏み出しかけて、はっとして常に自分たちを率いてくれていた青年を振り返る。彼は肩を竦めてノアに返す。
「……行って来いよ」
「ありがとう。すぐに追いつくから」
いつだってユーリは見守ってくれている。仲間たちも些か突飛なノアを理解してくれている。彼らの顔を見渡してから、感謝を述べ、ノアは駆けだした。
デュークの歩みは常に優雅で、しかし無駄がない。軽やかで、急いでいるわけでもなさそうなのに気を抜くとあっという間に距離が空いてしまう。浮世離れした人だとは思っていたが、あまりにも彼は異なっていた。ノアが追いかけてくるのに気づいた彼は、やはり優雅に此方を振り返る。彼には一切そんなつもりがなくとも、纏う空気が厳かで、真っ直ぐで強い誇りに満ちていて――まるで始祖の隷長との対峙のようだった。
「デュークさん、私……」
「ノア」
言葉を選んでいるノアより先にデュークが口を開く。
「お前の体はそうしていられるのが奇跡に近い。この世界のバランスが乱れ始めたのと同じように、お前の存在自体が変わりつつある。満月の子との接触、力を刺激する義眼、何よりザウデでの影響……。自覚はあるのだろう?」
デュークの指摘を受けて、ノアは旅の記憶を振り返る。
――護らなくてはいけない。
――赦されてはならない。
そんな二つの想いに揺れ動き、乗り越えてきた日々だった。
よく知りもせずに義眼の力を扱って周りを心配させた。エアル過多の空間でも平然と動けた。時には溢れているエアルを吸い、力として放出した。不安定で不確かな記憶の断片をひとつ、またひとつと抱えながら、次第に義眼の魔導器を扱う精度は高くなった。この力こそがエアルクレーネを不安定にさせているのではないかと悩んだこともあったが、それは杞憂に終わる。
ベリウスたち始祖の隷長は、ノアの力は“狭間の者”という、かつてノアの先祖が始祖の隷長との盟約で手に入れたものだと教えてくれた。彼らほどではなくともエアルを調整できる血筋なのだと。これは“加護”であると。しかし未熟な自分では義眼魔導器なしに力を扱えない状態にあった。
それでも、この力で、孤独から自分を救ってくれた仲間を助けたかった。護りたいと思った。かつて護れなかった肉親の存在を思いだしてからはなおのこと。
バクティオン神殿で決定的な記憶の復活を経てから、赦せないものの存在も明確になった。肉親を生贄にした男と繋がっていた仇のひとりで、エステルを捕らえ、その力を悪用したアレクセイ。そんな黒幕たちをどうすることもできず大切な人が苦しむのを止められなかった自分自身。
一度は殺すと決めたアレクセイの命を助けた理由のなかに『死んで楽になんかさせたくない』という思いがあった。自分が荒らすだけ荒らしたものたちへの償いをしてほしかった。そうできるだけの力が彼にはあるはずだから。ただ、自分自身を赦すことは未だに難しかった。
自分の力で仲間を護りたいという想いはより強くなっていた。そして自分なりに実行してきたつもりだ。
力を使うほど、狼への変身を柔軟に行えるようになった。
義眼の制御に対し、潜在する術式が力を上回りつつあった。
鋭敏に世界を巡るエアルを感じ取り、精霊の存在を知れた。
――どうして“人間”で在る必要があるのか?
そう問いかけられているかのように、狼の姿でいること、人外の能力を行使することたちは、今や自然なものであった。
……ノアは質問に質問で返す。
「デュークさん、それは……私の力が、みんなと旅をしてきたから大きくなりすぎてしまったということですか?」
「その力は決して世界を脅かすものではない」
デュークはノアを気遣っているようだった。しかし否定はなく、ノアが常々感じていた思いを決定づけることになる。
――私は少しずつ“人間”からずれてきている。
もともと、自分はなりそこないだと思っていた。人でも魔物でもない、かといって始祖の隷長でもない、中途半端な存在。それが、エステルやアレクセイにより力を揺さぶられ、世界のエアルの活性化に刺激され、更に人ではない方向へと傾いでいた。
バクティオンで、ザウデで、自身を形成するエアルを何度も揺さぶられ不安定にされ、それを受けてよりエアルに適した体となることを選んだ潜在術式。始祖の隷長より賜りし加護。……加護?
胸の奥が痛む。皆の為に力を役立てたいとは思ったが、ここまでの変化を自分がいつ望んだというのだろう。
「本来ならばそこまで膨れる力ではなかった。義眼の悪意も因果も乗り越え、お前は成長した。……盟約の始祖の隷長はきっと、お前を誇らしく思うだろう」
ノアは複雑な笑みを浮かべた。少なくともデュークは、ノアの力を悪いものとは思っていない。そしてその力が始祖の隷長よりに進化しつつあることを褒めてくれた。
「ノア、お前は魔物でもなりそこないでもない」
ノアという「個」を、変化も含めて認めてくれていた。
――さっきは皆と一緒に『人間』って括られていたと思ったけれど。
仲間にも打ち明けられない変化を感じ取ってくれるデュークに、ノアは深く感謝した。感謝しているはずだった。ノアの視界は今にも零れそうな涙によって揺らいでいた。
「私は……私は……」
どうしたらいいのかな。
掠れた声は言葉にならず、レレウィーゼの風に吹き飛ばされていった。
渓谷の最奥で、何かが響く音がした。強烈なエアルの動きをノアは感じ取る。デュークも同じようで、「クローム……」と名前のようなものを呟いた。きっとここに住む始祖の隷長の名前なのだろう。話し合いが決裂したのか、別の理由か、ユーリたちは始祖の隷長との戦いに臨んでいるらしかった。
少し名残惜しそうにエアルの動きを感じていたデュークは、ノアへと歩み寄る。
「かつてヨームゲンで告げた通りだ。記憶を取り戻し、自分の在り方に悩むのならば――」
そして、真っ直ぐに彼女を見据え、右手を差し伸べた。
「――助けとなろう。お前はこれ以上傷つくべきではない」
涙を溢しながら、ノアは俯いた。
――そう言えば、デュークさん、私の家族のことも知ってるんだった。
『始祖の隷長を通して、私はお前が幼い頃に顔を合わせたことがある。お前の母、父とも。そして我々は共通の願いを抱いた。人との関わりを絶った私にとって、人との最後の繋がりだった』……ザウデから落ちて救われた際、教えられたことだ。ノアの両親とデューク、共通の願いとは一体何だったのだろう。もしそれが果たされていないのならば、子である自分が両親の想いを継ぐべきなのだろうか。
「……きっと、デュークさんと行けば、私は楽になれる」
けれど。ノアは涙を拭って顔を上げた。
両親、弟妹、旅の仲間へと想いを馳せていくうちに、蘇った願い。
力に戸惑って、大切な仲間の元を離れてしまうのは――嫌だ。
再び谷の奥底で、溢れんばかりのエアルの力を感じた。新たな精霊が生まれたことをノアに伝えてくれる。仲間たちは目的を果たしたのだ。素直に嬉しかった。ますますここでひとり、もたついているわけには行かない。
「私、みんなを護りたい、みんなの力になりたいって、ずっと進んできた。それをここで投げ出しちゃったら……逃げちゃったら、お母さんもお父さんも怒る気がするの」
「お前の力の進化は緩やかにだが加速している。何も手を打たずに彼らと共に行く、と?」
ノアは空を見上げた。青空を侵食するようにうねりながら浮かぶ星喰みの姿を睨みつける。
「デュークさんにとっても、何よりまずはアレを何とかしなくちゃでしょう」
「ああ」
「じゃあやっぱり私個人の話なんて置いとかないと。自分で言うのもなんだけど、この力、結構行くとこまで行ってるから何とかなる気がするんですよねぇ」
個人なんてどうでもいいという、ユーリたちが相手ならばきっと叱られているだろう台詞だ。しかしデュークは違う。その言葉から、ノアの変異がどれほど進んでいるのかを容易に察してしまう。視線を戻したノアはデュークの紅い瞳を見つめながら伝える。
「幸い、この力が進むほど戦いやすくなるし、今の環境にも良く馴染んでます。ちょっとびっくりするぐらいですけど……きっとこの災厄に対して、何もなしに挑むよりはいいと思ってます」
新たな精霊の誕生。生まれ変わったレレウィーゼを巡る風が、ノアの不安や焦燥をさらって行く。仲間たちがまた一つ世界の為に成し遂げたという事実が、こんなところでぐずぐずしていられないとノアを優しく急かす。もう少しすれば仲間が道を引き返してくるかもしれない。始祖の隷長との戦い、精霊化を経て、疲れながらも晴れやかな顔で。
「力がどうなろうとも、ひとりぼっちのままなら、私はただの化け物でした。それを、みんなが人間にしてくれたんです。孤独だった私のことを、人にしてくれた。だから私、人間として皆と一緒に星喰みと戦いたいです。だから……どんな事情であれ、こんな旅半ばで、大好きな仲間たちと離れるなんてできない」
素っ気ないふりをして誰より仲間想いなユーリ。その相棒でノアの恩人もとい恩犬のラピード。
慈愛に満ち、花のような少女エステルと、すっかり丸くなった魔導器好きのリタ。
小さな体に溢れんばかりの勇気を秘めたカロル。更に行動力も持った可愛い冒険家のパティ。
世界の為にバウルとふたりきりで戦っていたジュディス。複雑な過去と立場、想いを抱えていたレイヴン。
騎士と法と悪意の狭間で悩みながらも前を向くフレン。
旅で得た仲間たちの姿を思い出すと、胸のわだかまりは溶け、暖かくも強い決意に満ちていく。
ノアはすっかり吹っ切れた笑顔で、デュークに告げる。
「心配してくれて、親切にしてくれてありがとうございます。でも、これが……私の在り方です!」
デュークは、そうか、と短く頷くのみだった。ノアが決めたのならば自分にとやかく言える道理はない。そして彼もまた、星喰みに対する為、急ぐ身だ。
「ならば私も行こう。私が決めた在り方を貫くために」
立ち去るデュークの背に、さようなら、とノアは小さく別れの挨拶を送った。いつかユーリが罪人を断罪したのを見届けた時のような気分がした。彼がノアの決意を認めてくれたように、ノアもまた彼の決意を尊重すべきだと思った。たとえ、いつかその決意同士がぶつかることになろうとも。
……彼との道が決定的に分かたれたのを感じ取りながら、レレウィーゼの奥を目指し、踵を返す。
仲間と合流することを考えると、陰気な自分はどこかへ行ってしまった。旅の終着が、大切な世界のみならず愛しい仲間たちにとって喜ばしいものになることを祈り、その為に自分は幾らでも力を尽くすことを誓う。
ノアの瞳は輝いていた。