可愛いものを見た時の破壊衝動
 先日のことを考えれば考えるほど、心臓が悲鳴を上げ始めていた。考えないようにしても、油断するとまた思い出しては頭を抱えてしまう。
 ずっとそんな調子だから手をつけていた様々な研究は滞り、わたしはもう三日も家から出られていなかった。都度聞いていた彼の報告をまとめていたレポートも、あの日以降は何も書けていない。沢山のメモをまとめようとしても今までのことを思い出して、どうしても文字に起こすことが恥ずかしくなってしまうのだ。これも全部、この前の出来事のせいだった。
 
 抱きしめられること自体はむしろ安心する行為だったのに、その現場を友人に見られたことで突然すべて恥ずかしいと感じるようになってしまった。何故そんな風に思ってしまったのかをできるだけ客観的に考え、己の感情を紐解いてみて分かったことは確かにある。今のわたしがアルハイゼンさんの恋人という立場であることに関しては、自分なりに自覚しているはずだった。でも結局はその自覚もぼんやりしたかたちのままで、正しく受け止められていたかというと怪しい。第三者の視点に自分が晒されたことにより、わたしはおそらくそれを強く実感してしまったのだと思う。
 この感覚には覚えがある。わたしはあらゆる事象に対して鈍いくせ、一定ラインを超えると一気に肉体や精神に現れるからだ。今までずっと感じていた心臓の疼きは全て彼との交流によるときめきで、それをわたしは理解できずに無視していただけなのかもしれない。わたしはどれだけ鈍い人間なのだろう。
 アルハイゼンさんとのやり取りを思い出せば思い出すほど、わたしは照れ臭くてたまらなくなってしまっていた。何回くらい彼に頭を撫で回されたんだっけ。たくさんの微笑みを向けられたような気もする。ハグなんてわたしから進言してしまった。全部わたしへの好意から来るものだってことは、彼自身の口から聞かされていたけれど、それらを今までなんとも思っていなかった自分が恐ろしくてたまらない。今わたしはこんなに、心臓が暴れそうなのに!
 こんな体たらくで、研究なんて進むのだろうか。今のわたしの感情を言語化してまとめるなんて、公開処刑にも程があるじゃないか。何が楽しくて自分が感じたときめきをレポートにしなければならないのだ。そんなの、もはやただのラブレターになってしまう。舐めていました、恋愛というものを。いざ自分が抱えた途端に、こんなにも頭を悩ませるなんて。わたしは一体どうしたらいいんだ。もう彼とまともに顔を合わせる自信がない。幸いにも今日まで彼は我が家に訪問してこなかったので、彼の前で恥ずかしさに暴れるような失態は犯していない。
 世界中の恋する人間を尊敬してしまうなあ。全ての感情は理屈で言語化できるなんてやっぱり無理があるのかもしれない。わたしはずっと感情に関する研究をしていたけれど、恋愛関係は手を出すんじゃなかったかも。
 
 ソファの上でのたうち回っていると、玄関のベルが鳴る音がした。嫌な予感がする。居留守じゃダメだろうか。ダメだろうなあ。観念して立ち上がり、扉に近付いて声を掛けると予想していた通りの声が返ってくる。恐る恐る扉を開ければ、そこには少し心配そうな表情を浮かべたアルハイゼンさんが立っていた。
「無事だったか」
「無事……?」
「帰り際に君があの様子だったから念の為に訪問は日を置いたが、寝食を疎かにして倒れているかシティから逃亡を図っているか、様々な想定をしていた」
「む……」
「それから、忘れ物を届けに」
「あっ、本!」
 アルハイゼンさんの手の中には、先日知恵の殿堂で借りていた本が握られていた。あの日慌てて逃げ帰ったから置いてきてしまっていたんだ。それを今まで忘れていたくらいに、わたしは混乱していたのだろう。
「迷惑であれば俺はこのまま帰るが」
「え、お茶くらい出しますよ。上がってください」
「そうか」
 思ったよりも彼と普通に喋れている! と思いながら家に招き入れつつ様子を伺えば、安堵したような様子で笑みを浮かべているアルハイゼンさんが視界に映り、わたしはやっぱり恥ずかしくなってしまった。人間の脳、なんでもかんでも関連する記憶を勝手に再生するんじゃない、思い出して暴れそうになるでしょうが。

 いつものようにテーブルの椅子に座るのかと思いきや、彼は何故かわたしが先ほどまで転がっていたソファの方に腰掛けた。いや別に構わないんですけど、己の痴態を思い出すとそこにいられるのは恥ずかしい。ひとまずお茶を用意しようとキッチンに向かおうとしたら、強い力で腕を引かれてバランスを崩してしまう。驚いて目を瞑ってしまったけれど、ぎゅうと抱きしめられる感覚がして慌てて目を開いた。まずい、抱きかかえられている。たすけてくれ。
「ななななにしてるんですか」
「許可は要らないんじゃなかったのか?」
「あっ、あーっ! はいそうですね!」
 わたしはアルハイゼンさんの膝の上に横向きに座らされていて、彼はどこか満足そうな様子でわたしを包み込んでいる。たしかに彼はそういう人だった。撫でられるときもそうだけど、一度許可を与えてしまえばその後は不意打ちで仕掛けてくるのだ。見上げれば目が合い、なんとなく嬉しそうな雰囲気で目を細められた。わたしの心臓、頼む、静かにしてほしい。
「先日はすまない。奴に邪魔をされた事に苛立ってしまった」
「んん、いえ、わたしも逃げてしまってごめんなさい」
「何故逃げたんだ?」
「ええと、カーヴェくんに見られたら急に恥ずかしくなっちゃって……」
「なるほど……そうか……」
 隠す意味もないので素直に伝えると、アルハイゼンさんは一瞬困惑しながらも何かを納得したらしい。上から熱のこもった視線が降ってくる。じっと見られている気がして、わたしは視線を合わせられずに俯いた。顔がやたらと熱い。これはおそらく真っ赤になっていると思う。嫌だな、絶対にバレてるでしょう。
「今日の君は、なんというか」
「は、はい」
「虐めたくなる」
「はい!?」
 そう言うとアルハイゼンさんはわたしの頭に自身の鼻を当て、何故かゆっくりと深呼吸を始めた。もしかして、匂いを嗅がれていませんか。なんでだ。どうしよう、臭くないかな。シャワーは毎日浴びてるもん、多分問題ないはず。じゃなくてこの人は何がしたいんだ? 虐めたいってなんだ!
「あわわわ」
「緊張しているのか?」
「照れています!」
「ほう、俺を意識しているのか。日頃の努力に成果が出てきたわけだ」
 更に満足度が上がったらしいアルハイゼンさんはご機嫌な様子。表情はあまり変わっていないんだろうけど、この人の機嫌は分かりやすい。いや、彼と言う存在への理解度が上がっているからそう思えているのかもしれない。この人は想像以上に態度や雰囲気に出るのだ。そういうところ、彼は完璧な人ではないのだなあと感じてなんだか可愛く思う。いや、男の人に可愛いって思うのは、なんかちょっとだめじゃない?
「もう許して下さいよお」
「君は何か悪いことをしたのか?」
「ぎー!」
 本当に恥ずかしい。自分が自分じゃないみたいに、なんだか居心地悪くなっている。悪いことなんかしてないけれど、こんな風に彼に構い倒されている自分を客観的に考えると心臓がどんどん苦しくなるのだ。ガチガチに固まっているわたしがそんなに面白かったのか、アルハイゼンさんは何故か自身の右手をわたしの顔に持っていき、その長い指でわたしの鼻をつまんできた。なんでだ! 突然気道を片方塞がれて変な呻き声を上げてしまったわたしの様子に彼の笑い声が小さく漏れる。それから右手はわたしの頬へと移動し、一度ふわりと撫でたかと思えば、またしてもつままれた。これ、やっぱり遊ばれてますか?
「なにするんれすか」
「柔らかいな」
「もー! 好きにしてくださいな!」
 きっとこのままずっといじり倒されるのだろう。わたしは観念して彼の胸元へと倒れ込んだ。なんの抵抗にもならないけどわたしの体重をかけてやる。楽しそうにわたしの顔中をぺたぺた触っているアルハイゼンさんを放ったらかしにしながら、ふとひとつの単語を思い出した。彼の今の心理状態は、これが該当するのかもしれない。
「キュートアグレッションかなあ」
「うん?」
「虐めたいって話。 可愛いものを見た時の破壊衝動で、わたしの鼻を摘まんだり頬を抓ったりしている今のアルハイゼンさんですよ」
「ふむ、単語は知っているが君の分野だな」
「これってドーパミンの分泌によるもので、可愛すぎるものに接したときの脳の防御反応か、制御できなくなったものへの反応が主な原因なんですが……アルハイゼンさんはどっちでしょうね?」
 専門分野の話題になり少しだけ冷静になれたわたしは、ひたすら頬を揉み込んでいたアルハイゼンさんの手をそっと回収する。そのまま今度はわたしが彼の手のひらをむにむにと押したり撫でたりしてみた。指が長くて大きな手だなあ。彼はしばらく考え込んでいたけれど、わたしの手を握り返しながら「どちらでもあるな」と静かに零した。握り返されたと思ったら、次は親指の根元のツボをぐりぐりと押される。ここのツボは合谷だっけ。ちょっと痛い。
「数年前にわたしも取り扱ったテーマなんですよ、可愛いものへの攻撃性」
「詳しく聞こうか」
「男の子がキノコンの小さなぬいぐるみをよく壊してしまっていたんです。話を聞いたら、その子はキノコンが大好きだったんですよ。ぬいぐるみが可愛すぎるあまり叩いたり引っ張ったりしてたんですね。あとはそうだな……とあるカップルの男性が「相手の女性が可愛すぎる」という理由で暴力を振るってしまい、それを辞めることができない、みたいなのもあって」
「……暴力は良くないな」
「ふふふ」
 謎のツボ押しマッサージが終わり、彼の手はわたしの手を解放した。この話に何か思うところがあったのか、それからわたしを弄るのをやめた彼は緩やかな動作でわたしの腰に手を回してくる。またしてもぎゅうと抱きしめられてしまった。
 カップルの話は出さないほうが良かったかもしれない、釘を刺したみたいに受け取られたら困っちゃうな。痛い事をされるのは中々ハードルが高いけど、研究者としてはその衝動も全部わたしに見せてほしい。でもこんなことを言ったら逆に怒られそうなので、言うのはやめておこう。

緊張や羞恥心が解れてきたのか、暴れたくなるような衝動は胸の奥に溶けていったような気がする。しばらくわたしもアルハイゼンさんも黙りこんでいたけれど、静寂を破ったのは彼の方だった。
「愛情にはひとつの法則しかない。それは愛する人を幸福にすることだ」
「ん?」
「愛はお互いに見つめ合うことではなく、共に同じ方向を見つめることである」
「な、なんですか」
「天にありては星、地にありては花、人にありては愛、これ世に美しきものの最たらずや」
「アルハイゼンさーん?」
「……恋をしても賢くいるなんて、不可能だ」
 それから彼はひたすら、愛にまつわる格言のような言葉たちを呟き続けた。彼の中にある沢山の知識のどこかに眠っていたものたちだろうか。極めて理性的で他人に興味のなさそうな人だと思っていたけれど、こんな知識も持ち合わせているなんてなんだかすごい。わたしの追求する学問は科学で紐解く事に特化した方法だけど、アルハイゼンさんの追求する言語学は感情で紐解く方法もあるとても柔軟な分野なんだなあ。数々の格言たちはひとつひとつが個性的な感情の熱を持っていて、「愛は理屈のみでは噛み砕けないんだよ」と、優しく言い聞かされているような気がした。
 ひと通り言い終えたらしいアルハイゼンさんは、最後に一言「君を傷付けたいという感情は俺の中にはないよ」と言って、愛を語ったそのくちびるをわたしのおでこにそっと当てた。

 でこちゅーだ! たすけて!
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