触れ合いによって発生する充足感
 なんと、今日は珍しく何の予定もない休日だった。ここ最近はずっとアルハイゼンさんと予定を擦り合わせ、休日に会う約束を続けていたのだけれど。まあ、会うといっても大抵はカフェか酒場で食事をしながら、互いの情報交換や各々の分野について議論して時間を溶かす言葉遊びだ。思ったよりも彼との会話は弾むので楽しい日々を送れている。それにしても、久しぶりに何もない日が発生すると、何をしたらいいのかわからなくなってしまうなあ。家にいてもうっかり自身の研究に触ってしまいそうだし、この前ティナリくんから受け取った薬草に手を出してしまいかねない。
 
 最近見つかったこの新種の薬草、形状や味はパセリに似ていて、実際のところはほとんどパセリのようなものだ。中の成分にわたしは着目していて、この薬草を摂取するとレンジャーたち曰く「強度の性興奮状態」になるらしい。まあ、分かりやすく言うと媚薬や精力剤みたいなものだ。ではなぜそれが引き起こされるのかを考えると、おそらくこの薬草にはテストステロンと呼ばれる男性ホルモンを増幅させる成分が入っているのだと思う。一応わたしも生論派の人間であり、自身の研究テーマ以外の分野にも触れて知識を活かしてきた。この薬草も今回の研究に活かすつもりで受け取っている。わたし自身の交際状況に活用するわけではない。断じて違う。この薬草を使用した時の肉体や精神への影響を……まあとにかく、純粋に世界中の悩めるカップルに役立てるための研究のひとつだ。具体的にはほら、たとえば不感症とか、勃起不全とか。
 そんなものを休日に摂取して一日を過ごすのは、さまざまな反応に鈍い体質を持つわたしでもやりたくはない。故に、今日はまずシティを散歩する事にした。はずだったんだけど。

 ぽたぽたと髪から滴る雫を手で掬いながら、わたしは通された部屋をぐるりと見渡した。
「広……」
「タオルを持ってくる、温かい茶も淹れよう。とりあえず適当に座っていてくれ」
 予定を入れなかったはずなのに、わたしは何故か今アルハイゼンさんといる。否、アルハイゼンさんの家に招かれている。わたしも彼も雨のせいで濡れていて、ざあざあと雨音がこの家を包み込んでいた。スメールシティではそんなに頻繁に雨を見かけないのに、通り雨だなんて珍しいこともある。
「今朝は風が強かったからな、雨林の雲が流れ込んできたんだろう」
「わ、ありがとうございます」
 戻ってきたアルハイゼンさんにふわふわのタオルを手渡され、わたしは濡れた髪をひとまず拭く事にした。
 
 ふらふらと街を散策していたわたしは、そういえば知恵の殿堂で借りたい本があったなと、結局休日にも関わらず教令院に立ち寄っていた。目的の本を借り、一旦家に戻ろうと坂を下っていたところでぽつぽつと雨が降ってきたのだ。家まで少し距離があるし、教令院に戻ってもこの雨量だと雨は強まりずぶ濡れになってしまう。決めあぐねておろおろしていた所、同じく教令院にいたらしいアルハイゼンさんと出くわした。お互い雨に降られていたこともあり、目を合わせるなりそのまま手を引かれ、目の前にあった彼の家に連行されてしまったのだ。教令院から近い位置でびっくりというか、帰り道にあったんだなあ。
 
 入口すぐの広間は本当に広々としていて、わたしは少し萎縮してしまう。教令院のような規模の大きい建物はともかく、一般的な住居としてはかなりの広さだろう。わたしの家なんかよりうんと広い。この広さの家を一人……いや、二人か。二人で暮らしているのはなんというか、言葉を選ばずに言うなら贅沢って感じ。まあでも、彼の役職を考えれば妥当なのかな。
「以前研究の為に使っていた建物を、関連規定に従ってそのまま資産として貰ったんだ」
「あっすみません、きょろきょろ見ちゃって」
「構わない。持て余し気味ではあるが、職場に近くて住みやすい家だよ」
 中央の大きなソファに誘導され、並んで腰を下ろす。温かいお茶をもらい一息ついたところで、わたしは慌てて鞄の中にある本を取り出した。よかった、濡れてなさそう。
「知恵の殿堂にいたのか」
「今日は予定がなかったので、息抜きに何か本でも読もうかなって。そういえば、アルハイゼンさんの家もすごい本の量ですね」
 広間の棚には沢山の書籍が並べられており、しかもどれも品質が保たれている綺麗なものばかりだった。さすが知論派出身の人だ、きっと彼もアーカーシャが存在していた頃から紙の本に触れていたんだろうな。
「書斎にはもっとあるよ」
「書斎! いいですね、憧れちゃう」
「……この家を貰っておいて良かったな」
「どうしました?」
「いや、なんでもない」
 隣に座ってわたしを見下ろしているアルハイゼンさんは、いつものようにうっすら微笑んでいた。この表情を「いつもの」と思えるようになっていることに気付き、それだけこの人と時間を共有していた事実になんだか嬉しくなってしまう。
 わたしに好意を向けてくれているというアドバンテージが大きいんだろうけど、彼はわたしに対してとにかく態度が柔らかい。他の人への……主にカーヴェくんに対しての当たりの強さを時々目の当たりにしては、何度もそれを痛感したものだ。そんな特殊な性格の人だけど、アルハイゼンさんと共有する時間をわたしもどんどん好きになっていた。これもわたしに起きている変化なんだろうな。なにもかも初めてで新鮮だけれど、中々悪くないと思っている。
 そんな風にぼんやりと浸っていたら、どうやらわたしは顔に出ていたらしい。大きな手が伸びてきて、またしても頭を撫でられてしまう。あの日初めて許可を求められてから、最近は特に何も言われずにこうして手が伸びてくるようになった。でも、される度にむずむずする。なんだろうな。はたして本当にこれだけでいいのだろうか。
「あの」
「ん?」
「撫でるだけでいいんですか?」
 彼の手がぴたりと止まる。しまった、わたしは何を言っているんだ? 大きな手が離れていくのを目で追っていくと、神妙な面持ちのアルハイゼンさんと目が合った。彼はそれから視線を落とし、自分の手のひらを見つめている。まるで言葉がなにも出てこないみたいに。彼のぼんやりした視線を浴びた手のひらはすぐに彼の口許を覆い、視線はもう一度わたしに向けられ、それからそっと顔を逸らされる。どうしよう、アルハイゼンさんを混乱させてしまった。わたしも混乱しているというのに。
 顔は逸らされたまま、見える片目の視線だけがこちらに向いた。気のせいじゃなければ、手で覆われた隙間から見える彼の頬は、うっすらと紅が差している気がする。
「君は自分が、何を言っているか理解できているか?」
「わ、わかんないです、なんか、そう思って……」
「では、何をしていい?」
「……う、」
 逆に問われて、今度はわたしが言葉に詰まる。彼との関係性から連想した無難なスキンシップの内容は、どれもわたしには経験のないもの。異性と触れ合ったことなんて、家族以外にあっただろうか。あるわけがない。学生時代の途中で一人暮らしが始まってからは、そもそも他者との触れ合いが一切ないのだ。
 でも、このままでいてはいけないと、心臓がずっとわたしに訴えている気がする。感情の在り方を理屈で考えるのがわたしの仕事なのに、理屈の前に何かが立ち塞がっているのだ。
「抱きしめてみませんか」
 両手を広げて、一言で提案してみる。これなら一番ふつうで、一番当たり障りのないスキンシップだと思う。というのも、ハグにはストレス解消の効果があり、オキシトシンやエンドルフィンと呼ばれるホルモンが分泌される行為でもあるからだ。精神的な安らぎを与えるといわれる神経伝達物質「セロトニン作動性ニューロン」の働きを促進することでストレス反応を抑え、ええと……つまり、ハグは精神の健康にいい! だから一石二鳥だと思って安直な提案をしたのだけれど。
「俺の我慢を軽々と飛び越えてくるのは反則だろう」
 またしても目を逸らされてしまった。どうやらこれは今のわたしたちにとってはやりすぎた提案らしい。駄目だったかと広げた腕を下げようとしたけれど、ぐい、と引っ張られる。顔面が思いっきり彼の胸元にぶつかってしまったことに狼狽えるも、そっと背中に手を回されて状況を理解する。前言撤回、べつに駄目ではなかった。
 わたしはしばらくじっとして、彼の腕の中で動かずにいた。
「雨の匂いがしますね」
「降り始めだったからペトリコールの方だな」
「ペトリコール?」
「古代語では「魔像」という意味ではあるが、また別の古い言語では「石のエッセンス」という意味を持つ。長く乾燥した天気の後の最初の雨に伴う心地よい土の匂い、という表現の単語だ。双方が石にまつわる意味を持つ単語だな」
「へぇ、綺麗な意味を持つんですね」
「言語学も追求すれば楽しいものだよ」
 アルハイゼンさんは時折、こうして様々な言語について教えてくれる。彼が長年蓄えてきた知識に触れさせてくれるこの瞬間が、わたしはとても好きだった。まあ、それに対して質問をするとまるで講義みたいになってきちゃうんだけど。
「じゃあフォンテーヌのペトリコール町ってどっちが由来なんです?」
「ふむ……気になるなら自分で調べてみるといい」
 

 気付けば雨音は聞こえなくなっていたけれど、代わりに彼の心音が大きく聞こえた。自分の耳が彼の心臓に近い位置にあるから、聞こえてくるのは当たり前だ。どうしてハグでオキシトシンやエンドルフィンが分泌されるのか、長年体験していなかったから不思議だったけど、なるほどこういう感じなのか。一番大きいのは安心感かな。他人に身体を預けるという行動が、精神的にも安心感を与えているのだろう。それにしても、これはちょっと、眠くなってくるかも。
 寝てしまわないように身じろぎするわたしに、アルハイゼンさんは少しだけ腕の力を緩めてくれた。これは提案してよかったかもしれない、身をもって知ることが出来て大満足だ。
「どうです?」
「今後もさせて欲しい。構わないか?」
「んふふ、べつに許可なんていらないのに」
「……ほう」
 だってわたしたちは恋人なんだし、好きなだけ口説いていいって言ってあるし、嫌じゃないし。そう口に出そうとしたけれど、彼にもう一度抱きしめられてしまったので全ての言葉を飲み込んだ。
「ん、あれ、灯りがついてる?」
 不意に玄関の扉が開錠する音がし、開く音と共によく聞き慣れた声が広間に響く。玄関に視線を向ければ、大荷物を抱えたカーヴェくんが立っていた。彼は目をまんまるに見開いて、こちらを凝視している。おお、これはまずいぞ。異性と抱き締め合っている現場を友人に見られたことが原因なのか、わたしはなぜか無性に恥ずかしさが込みあげてくるような感覚を覚えた。一方カーヴェくんは唖然とした表情を浮かべながら抱えていた荷物を全て手放してしまい、ガタガタと凄い音を鳴り響かせていた。あーあ。
「なーーーーーー」
「煩い」
「何してるんだ君たちは!」
「見ればわかるだろう」
 わたしは咄嗟にアルハイゼンさんの胸元を押して少しだけ物理的距離を開けてもらったけれど、アルハイゼンさんはそれでもわたしを離す気はないらしい。ま、参ったな。大声をあげたせいなのか大荷物を運んでいたからなのか、肩で息をするカーヴェくんはずかずかと大股でこちらに近寄ってきた。そして顔を真っ赤にしながら、自身の右腕をわたしとアルハイゼンさんの間に勢いよく差し込んでくる。一体どんな意図の行動なんだ、引きはがそうとしてるのかな。カーヴェくんがそんなことをしたせいで、アルハイゼンさんはまた眉間に深い皺を寄せてしまった。どうしよう。どうしたらいい。
「家でこういうことするのはどうかと思うぞ!」
「家だからしているんだが?」
「ぼ、僕だって女性を連れ込んだことはないだろう!」
「そんなことしたら即刻叩き出している」
「ぐ、ぐうう! どうして君も抵抗しないんだ!」
「こ、恋人ですから……?」
「うわーーー!」
 わたしたちの返答にパニックになってしまったカーヴェくんは、両手で頭を抱えてうろうろと広間を歩き回っている。この状況は、本当にどうしたらいいんだろう。伝染するように混乱してきたわたしの背をぽんぽんと軽く叩いたアルハイゼンさんは、そのままわたしから離れて立ち上がり、カーヴェくんの頭を、べしっと叩いた。
「落ち着け、目障りだ」
「君のせいだろうが!」
「俺のせいではない。大体君は今日帰る予定ではなかったはずだろう、何故いる」
「別に……う、打ち合わせが早く終わっただけだよ」
「ほう、またクライアントと揉めて逃げてきただけじゃないのか?」
「うるさいな!」
 二人の口論を眺めながら、わたしは放心していた。なんか二人の会話が上手く頭に入ってこないな。本当に参った。
 そんなことよりも、先ほどの現場をカーヴェくんに見られて、わたしはそれを恥ずかしいと思ったのか? 心臓がずっとドクドクと鳴っている。うるさい。すごい。感情が沸き起こる仕組みが脳からの電気信号だなんて、最初に言ったのは一体誰なんだ。どちらかというと心臓が悲鳴を上げるから感情が湧き起こるんじゃないのか? いや、脳の中枢から電気信号が出ているのは間違いないんだけど、納得いかないぞ、人体。こんな風にここが大騒ぎするなんて、自身の心臓がここまで煩いと感じたことにびっくりしてしまう。わたし、今、もしかしてすごく照れているのか!

「わたし、かえります!」
 立ち上がって、口論をしたままの二人の間をさっと通り抜ける。二人から同時に引き留める声が聞こえたけれど、すべてを無視してわたしは玄関を飛び出した。追いかけてきたらどうしよう。いや逃げるしかない。今日のところは許してほしい、せめて心臓が静かになるまで。わたしは、次に会う時どんな顔をしたらいいんだろうなあ!
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