キューピッドになった覚えはないけど
 日も暮れぬうちからアルコールで喉を潤すなんて、最高の贅沢であり幸福だ。それも久しぶりに自身の仕事の成功報酬で飲んでいるのだから、後ろめたい気持ちなど微塵もないとカーヴェは晴れ晴れした気分だった。だからこそよく飲みに誘う友人である彼女を酒場に連れてきたというのに、向かいの席に座り両手でグラスを包み込んでいる彼女は、まるで魂が抜けたように項垂れている。いつも朗らかな笑みを浮かべ他人に弱った姿なんて滅多に見せない彼女が、とても悲しそうな表情なのだ。いや、どちらかというと寂しそうと言ったほうが正しいのかもしれないと、カーヴェはぼんやり考える。彼女がそんな感情を湧かせる相手なんて、現時点ではたった一人しか浮かばないのだ。
「何かあったのか? その、アルハイゼンと……」
「……アルハイゼンさん」
「あ、ああ……」
 該当人物の名を出した途端、小さな彼女はグラスを投げるように前に突き出しテーブルに突っ伏してしまった。倒れそうなグラスを咄嗟にキャッチし、そっと隅に寄せたカーヴェは困惑した表情を浮かべる。まさか、喧嘩でもしたのだろうか。あれだけ彼女を傷つけるなと言っておいたのに、あの男はとうとう何かをやらかしてしまったんじゃないか。カーヴェの脳内で最悪の想定が浮かび上がってきたところで、彼女の小さな嘆きの声が彼の耳に届いた。
「会えてないんです……」
「ん……?」
「会えてないんです! もう五日! オルモス港に連れて行かれたきり、帰ってきてないんです!」
「……ああ、そういや家にいなかったな」
 脳裏によぎっていた様々な可能性と、どうやって奴を懲らしめてやろうかの算段をつけようとしていたカーヴェは瞬時にその考えは全て捨て去り頭を抱えた。深刻なことかと思いきや、単純に会えない日が続いて寂しがっているだけだったらしい。彼女にとっては初めての恋人であり、今では相思相愛の仲睦まじいカップルなのだとはカーヴェも感じていた。相手がアルハイゼンなのがカーヴェにとっては意味不明だが。その相手に、五日間会えていない。たかが五日、されど五日だ。付き合いだしてからほとんどの時間をアルハイゼンと共有していた彼女にとっては、それは耐え難い日数なのだろう。
「詳細は知らないんですが、現地で何かの会議が長引いてるみたいで……」
「まあ、役職上離れられないだろうな」
「会えないだけでこんな気分が落ち込むものなんですね……」
「僕に惚気けられても複雑だからやめようか……」
 彼とわだかまりが残るカーヴェにとっては手放しに喜べるような相手ではない事を彼女も当然知っており、元気のない笑顔を浮かべることしか出来なかった。とはいえ彼女の気は晴れないままのようで、いつもとは逆の立場になってしまっていることにカーヴェも苦笑した。普段は自分の方が弱音を聞いてもらっている手前、落ち込む彼女を放っておくなんて彼には出来そうもない。そう思ったカーヴェは、ある方法を思いついた。
「五日だろ? なら流石にそろそろ帰ってくるはずだし、うちにいたらどうだ?」
「えっ」
「実は僕も次の仕事のためにまた家を空けるんだ。君ならしばらく滞在しても問題ないだろうし……あいつは一度教令院に戻るだろうから、例え君の家に向かうにしても自宅には寄るはずだよ。多分だけど」
「……なるほど」
 彼女の表情が少しだけ明るさを取り戻したように見え、カーヴェはほっと胸を撫で下ろした。というのも、彼にはある程度の予想がついているのだ。賢者たちのせいで無駄に会議が長引き、予定より大幅に拘束されたアルハイゼンは、間違いなく機嫌が最悪なことになっているはずだと。ちなみに、カーヴェに次の仕事があるというのは真っ赤な嘘だ。機嫌が最低値を叩き出しているアルハイゼンと自宅で鉢合わせれば、十中八九彼に八つ当たりをされる確証がカーヴェにはあった。なぜなら過去に似たような経験が数えきれないほどあるからだ。自分の素行が褒められたものじゃない自覚がそれなりにあるカーヴェは、揚げ足を取られに取られ精神的に大怪我するかもしれない状況になんて当然身を置きたくはない。故に、自分はしばらく自宅から避難し、その自宅に彼女を配置する。これはアルハイゼンへの労いという建前の、効果的な生贄だった。
「疲れ果てたあいつが帰宅して、家に君がいたら喜ぶと思うぞ」
「……ふふ、そうだったらいいなあ」
 隅に追いやられていたグラスを手に取り、彼女は酒を口に含む。酒盛りの時間はまだあるのだからと、二人はそれからいつものくだらない世間話に耽った。

 一度彼女の家に寄り、泊まるための荷物を持ち出してからアルハイゼンの家へと向かった。カーヴェとしては今のうちに逃げようかと思っていたけれど、万が一今夜帰って来た場合には誘導してやるべきだと思い直す。彼女ももうこの家は慣れ親しんだもので、「今夜は早めに寝ますね」と言い残しアルハイゼンの部屋に行ってしまった。さて、まだ眠るには早い時間だ。そう思ったカーヴェは、広間でひとり晩酌を始めることにした。
 
 それからしばらく。カーヴェの予想は大当たりし、夜も更けた頃にようやく家主が帰って来た。こういう時のカーヴェの直感は思ったよりも当たるもので、アルハイゼンはいつもよりも荷物が多く、明らかにそれらを置きに来たという雰囲気。つまりこの後すぐ彼女の家に直行する気だったのだろう。やはり残っていて正解だったと、カーヴェはもうとっくに眠っているはずの彼女の姿を思い描き、緩やかに顔を綻ばせる。なぜ彼が笑みを浮かべているのか分からず、自身の機嫌も良くない自覚があったアルハイゼンは、カーヴェに対しやや冷えた声で一言だけ告げた。
「いたのか」
「ああ、おかえり」
「……荷物を置きに来ただけだ、俺は出掛ける」
「待て待て、彼女ならお前の部屋だよ」
「は?」
 疲労困憊なこともあってか、アルハイゼンから間の抜けたような声が発せられた。それも当たり前だろう、目当ての彼女が自分の部屋にいると言われたのだから。とはいえ頭のいい彼はすぐに状況を理解する。カーヴェによって彼女が自宅に招かれ、それから自分を引き留めるためにカーヴェが広間に残っていたことを。
「俺に恩を売ってもツケは帳消しにしないからな」
「そんなんじゃない! 彼女が落ち込んでいたから手助けしただけだ」
「落ち込んでいた?」
「君に会えなくて寂しがってたよ。もう寝ているかもしれないが、早く行ってあげてくれ」
 カーヴェがそう言うや否や、アルハイゼンは足早に自室へと向かってしまった。残されたカーヴェは緑の大きなベッドソファに倒れ込み、可笑しそうに笑い転げる。彼女が関わると様子がおかしくなるアルハイゼンのことはもう何度も見てきたはずなのに、見るたびにカーヴェは新鮮な気持ちになっていた。あんなにデリカシーのない男なのに、真逆の要素を引き出す彼女はやはりすごい存在だ。もう少し他の人間に対してもあの柔らかな態度であれば、彼も多少はマシなのになと何度思ったことか。まあでも、彼女以外に優しくする姿は想像ができないのもまた事実だった。
 
 程よくアルコールも回り強い眠気に誘われたカーヴェは、二人がいい夢を見られますようにと願いながら自身の部屋へと引っ込んだ。
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