自己肯定感を鍛える方法
「何故そんな胸糞悪い記事を読んでいるんだ」
「興味本位で……?」
 いつものように彼女の家を訪れると、家主の彼女は先程まで何かの記事を読んでいたらしく、新聞がテーブルに広げられていた。人の感情を研究する学者である彼女は、よくこうして他国の新聞記事を読み漁っていることがある。そのうちの七割ほどが砂漠の先の隣国フォンテーヌで発行されるスチームバード新聞であり、あの国の人間は物語性を非常に好む故に人間関係に関連した事件も記事に載りやすい。
 彼女が付箋を付けていた部分に目を通す。書かれていたのはとある夫婦が主役の事件であり、夫の不倫による痴情の縺れで殺人未遂が起きた事が纏められていた。まさかと思うが、次の題材にするつもりではないだろうか。心理学的テーマとしては確かに選択の余地があるが、彼女がこんなものを研究することになるのはあまり喜ばしいことではない。彼女は特に何も感じていないかのように新聞を片付けながら、珈琲の用意を始めた。
「アルハイゼンさんは浮気なんてしなさそうですね」
「当たり前だ、何を言っている」
「もし浮気とか心変わりとかしたら隠さず教えてくださいね」
「……はぁ」
 彼女は時々、俺を試しているのか煽っているのか分からないような、地味に失礼な事を言う。最初に俺の事を研究サンプル扱いしてきた女性だ、根が研究者気質なのは接していてよくわかる。問題なのは、その分野が心理学に振り切っていることだ。今の言い方であれば、彼女は「浮気をする人間の心理状態」に興味があるのだろう。だがそれは浮気という行動そのものがもたらす俺達の関係の変化には触れていない発言だ。実際にされた時に彼女自身がどう感じてしまうのかを全く想定できていない。先日俺がニィロウと会話していただけでやきもちを焼いたと発言していた癖に、そんな事も考えられないのか。失礼な上に、実に愚かな発言だ。

 珈琲の入った二つのマグをテーブルに置いた彼女の肩を掴み、こちらに向かせてその頬を抓る。勿論両の頬だ。
「なにするんれすか!」
「俺に失礼な発言をした事をまず謝罪するんだ」
 少し強めに捻れば、彼女は痛そうに呻き声を上げた。その様子に心臓が少しだけ跳ねるような感覚に陥る。これはあまり、やるべきではないな。己の内にある加虐心が首をもたげた気配がして、俺はそっと手を離す。失礼だと言っている意味が、彼女には理解できているだろうか。
「いたい……」
「しそうにないなどと言っておいて、浮気したら言えと? 心変わりを俺がすると? 俺がそんなに不誠実な男に見えるのか?」
「……あっ、いや、違うんですごめんなさい……!」
 責め立てれば、珍しく彼女は露骨に落ち込んだ様子で謝罪の言葉を放った。彼女の今の発言はあまり言われたくなかったのだと自覚し、己の心の狭さを痛感する。だが今回ばかりは、冗談でも俺の誠実さを疑うような発言をした彼女が悪い。
「絶対にないのはわかってますよ、もしそんな事があったらきっとわたしの努力が足りないだけだし……」
「……君はその考え方を改めた方がいいな」
「えっ」
 彼女はどう考えても自己肯定感が欠けていて、尚且つそれを全く自覚していない傾向がある。俺がどれだけ称賛しても素直に受け止めて貰えないどころか、謙遜を始める始末。彼女に対して嫌いな部分があるとしたら、まさしくこの態度だった。
「努力とはなんだ、何を努力する必要がある」
「いや……」
 口籠る彼女をじっと見つめる。言い淀んでいるのはよくわかるが、ここで俺が折れれば彼女は一生このままだという確信があった。だからこそ、俺は彼女を責めるという選択を取ることに決めた。
「きみに……飽きられない努力……」
「俺を舐めてるのか?」
「う、」
「まあ、君に自己肯定感が備わっていない事はよく理解しているよ。俺はそれを直してほしいが」
 溜め息を吐けば彼女は露骨に萎縮してしまった。責めると決めたとはいえ、こんな風に説教がしたい訳ではなかったんだが。

 さすがに俺の方が耐えきれないため、俯く彼女の腕を引きソファへと誘導した。いつものように腰掛け、彼女を膝に乗せて抱きしめる。他人に強く当たる事には慣れていたが、彼女に対しては例外だな。思ったよりも罪悪感に苛まれてしまう。
「どうしてきみがわたしを好きなのかわからないや」
「何度も伝えているのにか?」
「自信がないの」
 背に回された小さな手が、少し震えている。きっと彼女を責めすぎてしまったのかもしれない。恐らく初めて彼女に説教をしたはずだ、怖がられるのも無理はない。理由なんてどうでもいいんだ、好きなことに変わりはない。それをどうしたら彼女は理解してくれるんだろうな。
「恋とは、我々の魂のもっとも純粋な部分が未知のものに向かって抱く聖なる憧れである」
「……また格言ですか?」
「昔の作家の言葉だ。だが俺は異なる意見を持っている。聖なる憧れなどと綺麗な言葉で着飾っているが、どちらかというと俺は狂気だと思うよ」
「狂気……?」
 抱きしめる力を強めれば、彼女は少し強張ったような気配がする。俺が君と出会っておかしくなった事など君も知っている筈だろう。頼むから俺を狂わせた自覚をしてくれないだろうか。

 彼女の額に唇を寄せ、そのまま瞼に鼻に、頬へと降りて順に口付けを落とす。擽ったそうに身を捩る彼女の、次は唇を塞いだ。俺がこんな事をする相手だってたった一人、君だけだ。
「俺は君に恋をして狂ったんだ。他に目を向ける訳がないし、こんな俺を救えるのは君しかいない。故に君はもっと自信を持つべきだ、俺を救える唯一の人なのだから」
「……責任重大じゃないですかあ」
「そう。心変わりなどする訳がないだろう。改めて言うが、君は俺に謝るべきだ」
「ごめんなさい……」
 これで彼女が自覚してくれるかどうかは俺にもわからない。だが、俺にとって非常に特別な存在であることは何度もこうして伝える必要があるだろう。

 それにしても、こんな話になった原因の新聞は後ほど処分すべきか。彼女にはこのテーマを研究させることも阻止しないといけない。
PREVTOPNEXT