はらりはらりと、葉も花びらもまるで泣いているように落ちてくる。ゆっくり舞うそれを手のひらで受け止めてルーはふうと息を吹く。花びらが鼻の頭にのっかってレオが盛大なくしゃみをした時 「お待たせ!」 弾むような声が響いた。振り返ればパナシーアボトルを腕に抱えたカロルが急き切ってこちらに向かって走ってくる最中。エステルと村長がその後を追って現れた。 「じゃ、カロル任せたぞ」 「…うん!」 ユーリがカロルの頭をくしゃりと撫でた。気付けば集まった村人がみな祈るようにその様子をじっとうかがっている。その中にはレオを囲んだ子どもたちも。ふたを開ける音と息をのむ音とが重なる中、カロルはハルルの樹の根元にパナシーアボトルを放った。 ―…もう一度蘇って 皆の願い。けれど、喉から絞り出したその祈りに応えるものはなにもない。流れていくのはシンとした静寂だけ。次第にハルルの樹を囲い始めたのは、人々の悲しみと諦めの声だった。 「そんな…」 エステルの悲痛な声。パナシーアボトルはもう作れない、聞けば余計に声にならない悲しみに彼女は胸を詰まらせた。そしてそっと指を組んで、祈り始めた―… 期待を持たせてしまったこと、蘇らなかったことへのやるせなさ、あるいは望みを断たれた消失感。膝をついたカロルの泣きだしそうな顔を見て、ルーは咄嗟に彼の元に駆け出していた。 「ルー…ボク」 「泣くな、カロル。なに、また別の方法を探そう一緒に」 「別の方法なんて…ってあれ、今ちゃんとカロルって」 ―…ドクン 突然、警鐘のように心臓が跳ねた。吐き出しそうな悪寒。それはデイドン砦でエステルに会った時と同じ―… ―…ドクン…ドクン 「ッ…!!」 「え? ルーどうしたの、だいじょうぶ!?」 急に強張ったルーの体が見えないなにかに蝕まれていくように震えだす。カロルは咄嗟にうずくまるルーの肩を支えた。 「う…レオ…」 「レオがどうかしたの!? ねえルーってば!」 様子に気付いたユーリがルーの元に駆けだそうとした刹那、ユーリのそばにいたレオが獣声の唸りに混じり言葉を放った。それは囁かれるように小さな―…叫び。 「ッ若造…エステルを、止め…ろ」 「おい…! レオ!?」 「がっ、ぐ…ぐぅ、…ルー、ごめ…」 レオの体は硬直して瞳はみるみるうちに真っ赤に染まる。ゆらりと空気が上気して逆立っていく毛並み。只ならない気配にユーリはレオから距離を取る。レオの唸りは次第に声色を変え、狂ったようにグルグルと喉から低い濁音が響く。その口が牙を剥き始める。ふいに鞘を掴むユーリの手にぐっと力が入ったが、彼は剣を抜かなかった。 「ユーリ…レオから離れろ」 ふらりと力なく立ち上がったルーが彼の名を呼ぶ。そんなことはわかっている、できれるならば避けて通りたい。けれどユーリの瞳に宿る意志は強い。思う気持ちはカロルも一緒だった。が、ルーがそっと自分の肩から離れた時、カロルは一目散に背を向けてその場から遠ざかって行った。 ざわざわと広まりかけた不穏。全て一瞬のできごとだった。エステルの祈りが、力が。ハルルの樹に注がれていったその時に。それは起こった。 リィィィ―…ン 金属をすり合わせるような高い耳触りな音。空気が一変する。エアルが慟哭し始める、哀しい音。レオの変化の速度は高鳴る空気に比例して早い。人々の悲鳴が馳せる。皮肉にも、満開になったハルルの樹から降り注ぐ花びらは光沢を纏って舞い落ちる。 「これは一体…」 咲き乱れるハルルの樹とその下で禍々しいエアルを放つ獣。びりびりと肌で感じる身の危険に辺りが喧騒に包まれる。 ―トンッ― レオの脚が地を一度蹴る。行く先は力を使ったエステルの元。 「レオ?…」 脱力した彼女の目の前に、対峙する鳶色の狼。それは遠く失われた異国の言葉だったのかもしれない。レオの口から流れ出る唸り声の中に、呪符の言葉を聞いた。 「―…Mal mondial」 「…ッレオそれを言うな!」 ルーは支えるユーリの腕を乱雑に払い駆けだした。それよりも先に地を蹴りあげたラピードが庇うようにエステルの前に出る。レオを留めるように低い唸り声がこぼれた。 「ラ…ラピード」 身を呈するラピードの背にエステルは滲む涙をこらえる。ユーリが彼女の腕を引いた時、弾みでパタリと涙が散った。その場から一定の距離を取るユーリとエステル。次いで対峙するのはルーとレオ。桜色の花弁が入り混じる大気が悪しく渦を描く。 ルーはすうと肺の奥まで呼吸した。が、先に蹴り上げたのはレオの方だった。 ―ガッ―… 「!…っぐ」 「ルー―!!」 ユーリの声が響く。レオの牙がルーの肩にギリリと食い込んだその瞬間に。彼の踏みだすその足をラピードが遮った。 走る激痛に目眩がする。それでもルーは、いつもの余裕めいた顔を崩すことはなかった。レオの背に腕を回す。自分の髪と同じ色をした鳶色の毛並みに触れた。なだめるような優しい声がする。 「…Arrêt…Le Lion,Gardez santé mentale」 まるでその空間だけ切り取られたかのように、静かな時間が流れる。ルーの笑みは戦慄なその状況には酷く不釣り合いなものだった。流れる脈の音さえ耳を澄ませれば聞こえてくるに違いない。 「が…うう」 「だいじょうぶだ」 そう言ってポンと背を撫でる。けれど肩に加わる力は緩まない。ぱたりぱたりと流れていくのは煌々と目の覚めるような鮮血だった。 「ルー…!」 千切れそうな。悲痛と困惑の色をみせる、エステルの声。祈るように再び握られる指先。ルーの背筋がぞっとした。青くなるルーの顔色は、流れる血脈の変化ではなかった。やめろ…―言葉にならない制止の声をユーリが聞いた。 「待てエステル、…術を使うな」 「でもこのままだとルーが!」 「ッ…Arrêt!!(止めろと言ってる!!)」 そこにいる全ての視線がその声の主に集中する。振動する覇気のこもったルーの怒声。びくりと体を震わせたエステルの指がその反動でするりと解かれる。けれどその言葉はけしてエステルに向けての言葉ではなく、目前にいる狼へ向けられた言葉だった。痺れを切らしたのか、あるいは長引かせるわけにはいかなかったからか。焦りの色が浮かんでいた。 狼がルーの肩から口を離す。そっと緩やかに。その牙で更に傷つけることのないように。次第に落ち着きを取り戻す狼の口元から荒い唸り声が消える。 「やっぱりそいつ魔物だったんだ…ッ!」 吐き出した声は、あの幼い少年のもの。その声が村人全てに伝染する。畏怖する声、泣き声、罵踏する声。皆に疎通する思いは、やがて声になって叫ばれる。 「ハルルから出てけ…! …このっ」 その言葉はあまり聞きたくはない。 ただ…胸が痛くなるから。 「この…! 化け物ぉおー!!」 恐ろしいくらい脳に轟く。その言葉。それでもルーの顔は崩れない。ただその顔に、感情はなかった。ぴたりと止んだ喧騒。代わりにルーが一歩前に出る。その度にざわめきが起こる。ざわざわざわざわ―…後ろずさる、逃げていく者、砂を引く音がやかましい。 じっと村人を見渡すルーの視線。右から左へ。どれもこれも同じ顔。どうしようもないとわかっているのに、やるせない思いが膨らんでいく。 項垂れるレオの頭に、そっと手を乗せて名前を呼んだ。 「レオ」 獣を呼ぶ声にびくりと肩が跳ねる、その村人の反応に少しだけ笑いがこみ上げる。けれど構いもしない。その視線はすでに狼へと注がれていた。 「ばかもの。これくらい気にするな。だいじょうぶか…レオ?」 慈しむ笑み。これから冗談でも話し始めるような快活な笑いだった。肩の傷のことなどまるでなかったようなもの言いで。淡々と狼の口元の赤を服の袖で拭った。 「皆すまぬ。非礼を詫びる。…厄介をかけたな」 ぺこりと。口調とは似つかわしくないあどけない礼をして。唖然となった周囲に申し訳なさそうに口角を上げて、そのまま狼の背に飛び乗った。狼の背に乗った彼女は速い。それを一度目にしたことのあるユーリは咄嗟に彼女を呼びとめた。 が、疾風がハルルの樹の下で舞い上がった時。 すでに彼女はそこにはいなかった。 地面に落ちた、赤。赤。…赤。 それがじわりと地に染み込むにつれて、ハルルの花弁は更に鮮やかに色付き染まった。 芽吹き新風 110401up prev|next|top |