松夢 | ナノ
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ラピスラズリの誘惑


月の浮かぶ水面にそっと足先を浸すと、熱いお湯がじくじくと肌を刺激するのを感じた。思い切り肩まで浸かりきり、思わず身震いする。1人で温泉に入るのなんて生まれて初めてだ。
それから誰かと2人きりで温泉旅行に行くのも、その相手が男、なのも。


****

事の始まりは、つい先週のことだった。
暇を持て余していた私は、ふとチョロ松にマンガを貸す約束をしていたことを思い出し、紙袋片手に松野家のインターフォンを押していた。しかし、だるそうに扉を引き出てきたのはチョロ松ではなく一松。生憎チョロ松は出かけているっていうから荷物だけ預けて帰ろうとしたところ、松代さんに「おいしい桃があるから上がっていって」って、結局松代さん、一松の3人で桃をいただくことになったのだった。

「名前ちゃんったらすっかり見ないうちに可愛くなっちゃって。今日はお休みなのかしら」
『はい、ちょっと暇だったのでチョロ松に会いに来たのですが……』
「やだ、うちの六つ子たちなんていつでも暇を持て余しているのにあの子ったら」

いつまでたっても陽気で、たまに毒のきいた言葉をさらっと交える松代さんとのお話に花を咲かせる一方、私が家に上がってから黙りっぱなしの一松が気になって仕方がなかった。気になるっていうか、部屋に戻ったって誰も咎めないだろうに、なぜかずっと居間にい続ける一松。桃を食べ終えても、寝転ぶわけでもくつろぐわけでもなく、ただぼんやりと一松は座り続けていた。

その日は珍しく誰も帰ってこなかった。時計の針がくるくると二周ほどし、そろそろおいとましようかと腰を上げると、「名前ちゃんを送って行きなさい」とエコバックと買い物メモを持たされた一松がひょっこり後ろから付いてくる。

『ねぇ、つまらなくなかったの?』
「つまらなくないよ。むしろ知らない情報いろいろ聞けてラッキーって感じ」

一松は無頓着そうに見えてしっかり他人には興味を示している。始終表情を変えないからてっきり今回は会話をなにも聞いてないのかと思ったら、そうではなかったらしい。
なんだかんだ一松とは今日全く話せなかったから、と積もる話に花を咲かせているうちに止まらなくなり、結局私は一松がメモの1番上のものから1番下のものまで全てをカゴに詰めていくのに付き合った。パーカーにジャージ、サンダルを突っかけただけの格好をした人と一緒に歩く機会なんて社会に出てから全くなかったから、とても違和感を感じたのを覚えている。最後に、もらったガラポンくじを引こうと商店街主催の簡易イベント会場でくじ引いたら温泉旅行が当たった。そこで一松と2人きりで旅行にくることになったというわけである。
あの時、私たちは大声で叫びたくなるのを必死におさえながら2人してにんまりと笑った。旅行だ、温泉旅行だ。旅行なんてもう何年もいっていない。それはたぶん一松も。

おそ松たちからは嫁入り前の娘が恥を知れ、と言われたけどそんなの気にしない。友達にだって付き合ってない男と2人で旅行なんておかしい、危険だと肩まで掴まれ必死に止められた。それでも私たちは2人で行く以外にこの旅行券の使い道を考えることはできなかったのだ。目の前に出てきた金色に光る小さな玉を見て手を取り合って喜んだし、引いた本人である一松は一松で私を誘わないということは全く考えていなかったらしい。それに私は一緒に行くのが一松なら全く問題ない、むしろ良いことな気がした。

『よかったよ、くじ当たった時に一緒にいたのが一松で。これがおそ松とだったら私絶対断ってた』
「まぁおれたち気は合うよな」
『だよねだよね、私もそう思ってたんだよ!』

目の前に広げられた豪勢な夕食に感動し、「すげー」とか「うめー」とか声を上げながらスマホのシャッター音を鳴らしていたのはつい1時間前のこと。良い感じにアルコールも回り、ぽやーんとかとろーんといった効果音が似合いそうな表情をしながら私達は目を合わせて声もなく笑い合った。私も一松もお酒は全く強くない。
贅沢の余韻を味わうように暫く2人とも無言で部屋を見渡したり、ただ天井を見つめていたりした。ふいにその沈黙を破るように一松が口を開く。

「なぁ、名前さ」
『んー、なに?』
「名前ってさ、キス……したことある」
『は?』

暫しの沈黙。まさか一松の口から“キス”なんて言葉が出てくるとは思わなかった。
なんと返すのが正解か分からず、一松の表情を伺うように視線だけ上げると一松は至って……というか珍しくめちゃくちゃ真面目な顔をして私を見ていた。

『あ、るよ』
「まじで!誰と!」
『ちょっと待って一松!急になに!』

どんっと机に身を乗り出した一松を思わず両手で押さえる。なにこの反応、一松ってこんなにテンション上がっちゃう子だったっけ。

『一松はないの……その、キスしたこと』
「そんなのあるわけねぇだろ」
『やだ一松怖い』
「っていうか、おれだけしたことなかった」

誰の中で一松だけが、なんてわざわざ聞くまでもない。自分で言った言葉に自分で傷ついたのか一松の視線がどこか遠くへいってしまう。
六つ子の中で一松だけ、少し可哀想かもしれない。ただでさえ童貞だなんだって日頃から騒いでる六つ子の中で、1人スタートラインにも立てていない一松。

『かわいそ……』
「同情するような目で見るなよまじで」

一松に女の子の経験が無いこと自体には正直驚いていなかった。別にいても驚きはしないだろうけど、いないと言われても他意はなく納得はできる。それより一松以外の六つ子にキスの経験があるだなんて。チョロ松とか、相手は私が知ってる人なのかな。カラ松の相手は高校の時の私の友達だったしな……あれこれと六つ子たちの相手に思いを巡らせてみるけど、想像するのはなかなか難しい。
また1人自分を裏切る相手が出来てしまった一松は、いじけたようにその場で寝転び始める。

『ねぇ一松』
「なに」
『じゃあ、してみる?』
「……なに言ってんの」
『いいじゃん、ここでキス処女捨てちゃいなよ。私相手なら失敗したって恥ずかしいことないでしょ?』
「おれ別にそういうつもりで言ったんじゃないんだけど」

なんだか一松がひどく不憫になって、もう私くらいしか相手がいないんじゃないかと心配になったりもして。どーんと胸を張って言ってみたものの、これがまた、一松は全く乗り気ではない。これじゃあ私がただの恥ずかしい女になっちゃうじゃない。そういうところ、気使えないから彼女できないのよ!という言葉は今回ばかりは黙って飲み込む。(だって一松これ以上傷つけたら可哀想)

『しなくていいの!今がチャンスだよ。一生得ることが出来ないチャンスかもしれないんだよ』
「お前失礼すぎだろ」
『ねぇ、一松。私ちゃんと本気で言ってるよ』

本気で練習相手になる、だなんて、私の頭のネジはどこか飛んでいるのかもしれない。一松も同じことを考えているようで、怪訝そうな表情で私のことを見ていた。しかし後にも引けなくなった私の姿を哀れんだのか、次第に悩む素振りを見せ始める。

『……っ一松、なにか言ってよ』
「名前と……キスしたい」

爪の切りそろえられた指先が顔の横を掠め、頬を包み込むようにして触れられる。意を決したらしい一松は、ごく自然に私を引き寄せた。あ、私一松とキスしちゃうんだ。友達の一線超えちゃうんだ。

男女で旅行なんて何も起きないわけがない、と言っていた友達の言葉を思い出す。そうだ、私は本気でなにも起きないだろうと思っていた。それなのに“何か”は今この瞬間、この場で起きようとしている。たとえその“男女”が一松と私だとしても、何かは起きてしまうんだ。

「ねぇ」
『……』
「なんでお前顔赤くさせんだよ。ついさっきまで余裕ぶってたくせに、やりにくいんだけど」
『な、なにこの寸止め』

唇の距離は僅か数センチ、傾けたまま喋るたびに一松の息がかかる。少し日本酒のにおいがするのはお互い様なのだろう。
一松とキスする、と思ったらなんだか恥ずかしくなっただなんて、死んでも言えない。ただ軽く触れるキスだけのつもりだったのに頬に手を添えたりなんかして、一松が雰囲気を出してきたのが悪い。

『するのしないの、しないなら私から一松のファーストチッス奪っちゃうよ』
「嫌だよ、おれがする」

思わず強がってみたけれどこれでキスが上手かったらどうしよう、なんて触れる瞬間思ったが、さすがにそれは杞憂に終わった。
恐る恐る触れた唇は初めはぷにっと弾力で押し返され、慌てたように無造作に押し付けられた二回目にカチっと歯が当たる。添えられていた手はふるふると震え、力を込めて引き寄せようとするため、少し痛かった。

初めは触れ合うだけだった一松も次第にツボになるポイントでも見つけたのか、執拗に下唇を舐め自分の唇で私のそれを挟んだり舐めたし始める。余裕でいなければならないと気を張っていた私もいつしか吐息を零し、その感触を堪能していた。



「……唇って柔らかい」

コツンと額と額をくっつける仕草はまるでキスの練習を思わせない。とろんとした目をした一松はこれ以上したら止まらないといった様子で引き剥がすようにして私の肩を押した。

『一松、どうだった?』
「お前……そういうこと聞くなよ」

すっかり照れモードに入ってしまったらしい一松は、私から背を向ける形で体操座りをしている。“悪くなかったよ”、お世辞でもなく素直な感想をかけても曖昧な返事しか返ってこない。

『一松こっち向いてよ』
「ばっ触んな……」

そっと肩に手をかけると顔を真っ赤にさせた一松がこちらを向く。あんまりにも赤いものだから呆然とその顔を見ていると、とてもじゃないけど人間とは思えないようなスピードで部屋の隅に逃げられた。



『ねぇ。もう私たち、つきあっちゃう?』
「……おれも今思ってた」
『嘘ばっかり』


[END]

主人公が唯一キスしたことある相手が六つ子の誰かだったのなら最悪だなと思います。

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