尊ぶ
所縁
尖っていた心がとけてゆくの続き
寒風吹き荒ぶ日々。それでも木々に目を遣れば蕾が膨らみ始めている。降る雪の量も徐々に減り、春の足音がすぐそこにまで来ているように感じられた。陽射しもどこか暖かい時間が増えた。とはいえまだ冬だ。朝と夜は凍えるように寒く吐く息は白く霜は降りる。
名無しの様子が芳しくない。
傷はどうにか塞がっているが、後遺症があるのか傷を庇うように歩いたり手の動きがぎこちない。まるで老人のようではないか。囲炉裏の前で背中を丸めて小さくなっている名無しを見て燎は肩を落とた。名無し本人もどこか生気が湧いてこないのか日がな一日ぼんやり過ごしてばかりいる。
そもそもだ。傷がどうにか塞がっている程度なのは如何なものだろうか。気合いでどうにかなるようなものではない。しかしあまりに回復しないではないかと燎は首を捻る。すっかり腑抜けになっている名無しの様子を、仔太郎も心配そうに眉尻を下げて遠くから見守っているだけだし飛丸も力なく鼻を鳴らしている。
「燎…名無しの奴、あのまま干からびてぽっくり逝きやしねえよな…?」
「どうだろうな。無きにしも非ずだ」
「薬でどうにかならねえのかよお…」
「薬は飽くまで補助だ。熱を下げるためには解熱の薬を使うし、血が止まらなければ止血の薬を使う。しかし見てみろ」
顎をしゃくって二人と一匹は名無しを見た。相変わらず囲炉裏の火に当たり暖をとっている。目を開けてはいるが寝ているのではないかと思うほどに身じろぎ一つしない。
「怪我はもう治ってる。放っておいても死ぬことはない。そういう状態だ。あれにつける薬も飲ます薬もない。与えてすぐに元気になるなんざそれは薬じゃなく毒さね」
「じゃあどうするんだ。あのまま放っておくのか」
「それしかあるまい。私ができることはしたからな。あとは本人次第だ」
病み上がりの人間を眺めている暇はないと燎は鶏の世話をするため小屋へ足を向けた。仔太郎の足元でクウンと鳴いたあと、飛丸は燎の後をついて行ってしまった。その場で一人立ち尽くし仔太郎は解せぬ、と口をへの字に曲げたまま名無しを睨んでいる。死闘の末、自分を助けてくれたあの男が腑抜けているのが寂しくそれと同時に少しばかりみっともないと思った。
「しっかりしてくれよ…名無し」
酷い怪我をして生死の境を彷徨っている間、燎の手伝いをして看病をした。目を離した隙に呼吸が止まってしまったらどうしよう、と何度も考えて心配で気が気でなかったのに。傷が治り会話ができるようになったのに、何故そんな気が抜けたままなんだ。仔太郎は笊を抱えて歯痒い気持ちをどうにか昇華しようと悶々と考え込んでいる。
「君、燎さんはいるかい」
「うわ!」
不意に背後から声をかけられて飛び上がった。振り返ると目元が涼しげな好青年がすらりと立っている。この家を訪れる人は燎の薬を求めて来るので青年もそうだろうと仔太郎は考えた。
「あ、ああ。燎はいま裏にいる。呼んでくるから待っててくれ」
「風の噂で聞いていた居候とやらは君かい」
「居候?」
いつの間にやらそんな話が村の間で囁かれていたのだろうか。預かり知らぬところで広まっていた自分の話題に目を丸くした。仔太郎を見て青年は困ったように眉根を寄せて口を開いた。
「一人であれやこれやで忙しい燎さんの手を煩わせたり困らせてはいけないよ」
まるで仔太郎が問題の種のような言い草だ。初対面であまりに礼を欠いている。顔が整っているのが癪に思えてきて眉間に皺が寄ってきた矢先、燎が小屋から戻ってきてひょこりと顔を覗かせた。
「おい仔太郎、笊はどうした……ああ、弥一さん。どうしたんです」
「燎さんこんにちは」
弥一と呼ばれた青年は声の方に顔を向けてニコリと笑った。仔太郎を見遣っていた時のやや侮っている顔つきとは打って変わって清々しい。
「先日の薬のお陰で妹の病がすっかり良くなりまして。お礼にこれを持ってきました」
「干し柿じゃないですか。それにこんなにたくさん?わざわざありがとう」
「いいえ、ほんの気持ちですから」
掌を返したような弥一の態度に、仔太郎の顔つきはますます険しくなる。胡散臭いものを見るような視線を向けているが当の本人も話している燎も気がつかない。
「寒いのに薬を売り歩くのは大変でしょう。また手伝いに来ますから」
「お気遣いありがとうございます。またそのうち頼みます」
どこか押し付けがましい態度に辟易した仔太郎は二人の横を通り過ぎ、鶏小屋から卵を取り出して笊に乗せた。小屋を出て来てもまだ話している。面白くないと舌打ちをしたが弥一はどこ吹く風だった。
「オイラ、あの弥一って奴、好かねえ」
囲炉裏で火にかけている鍋からよそった雑炊を睨みながら仔太郎は恨めしそうに言った。
「藪から棒になんだ」
「オイラがタダ飯を食らってぐうたらしてるみてえに言ったんだぞ、あいつ」
「そんなこと言う人だったかね」
「言われたんだ」
言った言わないで問答をする横で食事をする名無しの箸の進みは緩い。やり場のない悔しさを沢庵を齧って紛らわしている仔太郎を横目に椀を床に置いて一息ついた。茶を啜っている。
「誰だ、その弥一っていうのは」
「前に野党が押し入った話をしたろ。村の若人たちの内の一人で一番年下なんだが、利発な人だよ。たまにこうして食糧を分けてくれるんだ」
笊に乗っている干し柿を忌々しげに見て仔太郎は唸る。今日はずっと不機嫌だ。
「食わねえぞオイラは。絶っ対に食わねえ」
「仔太郎は何をそんなに毛嫌いしてるんだ。おい赤鬼。箸が止まってるぞ。もっと食べろ」
「食ってるさ」
見知らぬ青年と少年が燎の家に居候している、と噂されているのは三人とも寝耳に水だった。先日訪れた姉妹が名無しについて話し、それを周りの大人が広めて尾鰭がついたと考えるのが妥当だ。
「ま、居候と言えば居候だが」
燎は独りごちたがどうも釈然としない認識だ。一人は怪我の療養で動けないとはいえ、もう一人は小さい体ながら燎についてまわりあれこれと仕事をしている。飛丸だって川に入って上手いこと魚を獲ってきたりする。初めて見た時は器用な犬がいたもんだと驚いた。
「全く、タダ飯食いではなかろうに」
翌日も弥一が顔を見せた。というのも朝早くから行商のために家を出た燎と村のどこかで鉢合わせしてそのまま一緒に家まで来たらしい。
「げえ……」
「やあ励んでいるね。結構結構」
あからさまに嫌な顔をする仔太郎に弥一は
見高な挨拶して通り過ぎる。燎の荷物を持ち何食わぬ顔して引き戸を開けた。勝手知ったる他人の家だ。
「むっ」
妙なものがいる。弥一はそんな態度で土間に座っている名無しを凝視している。傷が塞がってある程度動けるようになってからは土間の入り口が名無しの定位置になりつつあった。引き戸を開ければ畑仕事に勤しんでいる燎の姿が見えるからだ。突如入ってきた弥一と名無しの視線がかち合ってしばし膠着している。
「君は誰だい」
「誰って…」
突然の問いかけに名無しは目を瞬かせた。いきなり入ってきた弥一こそ問われるべきだが立場が逆転している。
「……」
そういえば先日の幼い姉妹にも同じ問いをされて言葉に困ったな。名無しはぼんやりと考え始めてそのまま黙り込んでしまった。荷物を土間に置きながら、無視をされたと弥一は腹立たしげに吐き捨てた。
「全く、彼女の良心につけ込んで少年も君も。迂闊に一人にしておけないじゃないか」
胡乱な目を向けて一瞥したあと弥一は出て行った。久しく波立たなかった気分にしこりが生まれた。仔太郎のことだから大袈裟に言ってるんだろうと見過ごしていたがこれは意図的に敵意を向けられているではないか。その夜、三人で膝を突き合わせて夕食を摂っている時に名無しは事の経緯を、茶を啜りながら話した末、こう零した。
「俺も好かん」
「ほらな!ほらな!」
「ああもう男ってのはどうしてこう短絡的なんだ」
仔太郎は名無しと弥一に対する見解が一致したと盛り上がっている。
「あいつ燎の前では取り繕ってるけどオイラたち相手だとひでえんだぞ。昨日はタダ飯食い扱いはするし今日は小馬鹿したようにこっちを見やがったんだ。明日も来やがったらただじゃおかねえ」
「物騒なこと言うな。彼なりに気を遣ってくれているんだ。あんまり邪険にするんじゃないよ」
「あれのどこが気遣いってんだよお!」
焼いた魚にガジガジと齧り付いて喚いていた仔太郎はいきなり声を潜めた。
「オイラが思うにあの野郎、燎に気があるぜ」
煮物が名無しの箸の間から逃げ転がり囲炉裏の中に落ちていく。
「仔太郎。馬鹿も休み休み言え。そんなわけあるか」
「何で言い切れるんだ」
「何でって………」
咄嗟に否定したが何故否定したのか思い当たらない。なにか理由があるはずだと黙考したが、ああそうだと思い出したように納得した。
「許嫁がいるらしいとは聞いたことがあるな」
「いる“らしい”じゃ断言できないじゃねえか」
「どちらにせよ惚れただのなんだのって子供じゃあるまいし」
燎は阿呆くさいと取り合わない。やりとりを黙って聞いている名無しの脳裏に昼間の言葉が過ぎった。
迂闊に一人にしておけないじゃないか。
居候扱いしたこともだがそれ以上に青年の燎に対する気持ちの持ちようがあまりに偏っているように見受けられた。空になった椀に雑炊を注ぐのを見て、食欲が湧いてきたのなら良い傾向だと燎は箸を進める。
「朝から晩まで囲炉裏の番をされても困るんだよ。赤鬼、体の調子がよくないのはわかるが少しは動かないとますます動けなくなるぞ」
「そうさな。薪割りくらいはできるかもしれん」
「頼んだぞ」
弥一は翌日も当たり前のように訪れ、またお礼と称して干物を持ってきた。薪割りをしている名無しの近くでこれ見よがしな態度を取っている。嫌味な視線が向けられながら鉈で薪を割った。三度顔を見せた弥一を見て不思議そうな顔をしているのは燎だけだ。あとの二人は邪魔くさそうに。一匹は興味がないのか畑の土の匂いを嗅いでいる。
「もらってばかりで申し訳ないから卵を持って帰ってください。妹さんに食べさせてあげれば滋養がつく」
「ねだったようで逆に悪いです。気にしないでください」
「いや、いつももらってばかりのこちらの身にもなってくださいよ。持ってくるからそこまで待ってて」
緩衝の役割的存在を担う燎が消え、その場に残った三人と一匹は互いを見遣って動かない。一触即発とはまではいかないが剣呑な雰囲気である。
「最初は野党が怪我人を装って忍び込んだのかと思ったがそういうわけではないようだ」
「失礼な奴だなアンタ。こんな呑気な野党がいるもんか。こいつは治療中だからここにいるんだ。オイラはその付き添いだ」
「そうかい。それなら出て行くまで見張っておかないといけないな。僕は彼女が一人で切り盛りしてるのを以前から手伝っているから知っているが、野党が押し入ってきて危ない目に何度も遭っている」
だから僕はお前らを警戒するし彼女も放っておけない。それが弥一の言い分だ。主張は分からないでもないがあまりに一方的で思いやりがない。話をしても平行線を辿るだろうと名無しは仔太郎に目配せした。
「争いは避けたいところだが口で言ってだめなら体で理解させるしかあるまい」
「おっ、やるのか名無し」
取っ組み合いの喧嘩を始めるなら加勢するからなと言いたげだ。名無しは立ち上がって、僅かに上背のある弥一の前に立つ。弥一はそれを好戦的な態度と受け取った。
「本性を表したな野党め」
「だったらどうする。そうやって睨みつけるだけか」
「ば、馬鹿にするな、僕にだって多少の覚えはある」
挑発に逆上した弥一は名無しの肩をどついた。覚えがあるという割にはただの張り手で子供のじゃれ合いに毛が生えたようなものだったが、名無しはそのまま畑に仰向けに転がり倒れ込む。あまりの手応えのなさに突き飛ばした本人が驚いている。
「へっ」
てっきり腕に物を言わせて黙らせるのだと構えていた仔太郎も素っ頓狂な声を出した。
「いてて…張り手でひっくり返っちまう野党がどこにいるか教えて欲しいもんだな…」
「理解させるってそういう意味かよ…」
仔太郎は仰向けに伸びている名無しを見て肩を落とした。刀がないとは言え腕力だけなら確実に名無しに軍配が上がる。懐に一発叩き込んでやればこのいけすかない男を黙らせられるのに。仔太郎は口をへの字に曲げた。
「アンタ腕が立つなあ」
ひっくり返ったまま名無しは呟いた。もちろん嘘だ。所見ではあるが弥一は戦いに向かない性分の人間だろう、と名無しは判断した。というより戦さ場に出たことなどない人間だ。当たり前ではあるが燎の方がずっと腕が立つし強い。弥一が手を焼かずとも問題はない。
「おや?出会って三日で相撲を取るとは随分仲が良いじゃないか御三方」
不意に声をかけられて心臓か転げ出るほど驚いたのは弥一だ。振り返れば卵の入った籠を手に燎が立っている。その場は重いような間抜けなような空気が流れていた。思いを寄せる女性に見られてしまって顔を青くしている弥一の前に燎が立つ。いつものように口元に笑みを称えている。
「あなたの気遣いはありがたい。手伝ってもらって本当に助かってるよ。しかし二人は私の身内だ。あまり悪く言わないでもらいたい」
しん、と辺りは静かになった。きつくはなくともはっきりとした撥ねつけの言葉。立つ瀬がなくなっている弥一に卵が入った籠を渡して燎は背中を軽く叩いた。
「さ、弥一さん。また薬が必要になったらおいで下さいな」
「燎さん、僕は」
「はいはい。お気持ちは十分いただきましたから」
その場に留まるのを良しとしない空気に弥一はすごすごと引き下がった。気まずそうな表情を浮かべて未練がましく何度か振り返ったが燎が見送り続けている。引き戻れはしない。弥一の姿が見えなくなると踵を返して燎は声を上げた。
「いつまで寝転がってるんだ。介添えが必要か?全く、起き上がれない癖して無理をするんじゃないよ」
呆けたままの名無しを起こしてやりながら燎は珍しく深めに息を吐いた。
「悪い人じゃないんだ。外から来た人をよく思わないだけでな。しかし言葉が過ぎた。仔太郎すまなかったな、嫌な思いをさせた。灸を据えたからしばらくは来な……」
仔太郎が燎に抱きついている。
「お、おい。なんだ、どうした」
「燎…」
あまりの苦しさに狼狽している燎を他所に、仔太郎はますます力を込めて抱きつく。声が震えている。
身内。
それはみな持っていないものを指している。南蛮からやってきたらしい犬だけが友人の天涯孤独の少年。難破した船から拾われた唯一の生き残り、己の出生すら知らぬ男。戦と病で家族全員を失った女。寄る辺のない者たちだ。
きつく抱きついたまま離れない仔太郎の横から飛丸が体を擦り寄せた。甘えている。
「ああ、飛丸。お前もだ。大切な身内だ」
頭を撫でてやると柔く温かい毛皮の感触が掌に伝わる。飛丸も嬉しそうに目を細めている。幸せな瞬間だと思うと同時に背後から重い体温が被さって来た。後を見遣れば名無しが燎と仔太郎をまとめて抱き込んでいる。
「赤鬼…お前まで…」
確固たる線引きの言葉は謂れのない嫌がらせを封じた。名無しも臨戦体勢だった仔太郎も思いもしなかった燎の発言に初めは呆然としていた。だが無意識のうちに、どこかで欲していたのかも知れないと理解し、それを言い放った燎をどうしようもなく抱きしめたくなった。
「ぐ、苦しいぞ…離してくれ」
二人は聞こえているはずなのに緩まる気配はない。それどころか一層きつく抱きしめられて息が詰まる。燎は諦めて名無しと仔太郎の背中に手を回して微笑んだ。
「やれやれ、聞かん坊ばかりで手が焼けるなあ」
20211230