尖っていた心がとけてゆく
人の気配がする。彼らが家にいるように十日経った。頭では理解しているものの体の方が未だにその違和感に慣れない。隣の布団の中で身動ぐ気配を察知して、朝日が昇るだいぶ前に燎は目を覚ました。目を開けるなり身を翻して布団から転がり出て短刀を手にして身構える。が、部屋の中はしんと静まり返って名無しの深い寝息が聞こえるだけだった。

「違う違う…。いまはわたし一人じゃない」

一人で暮らすようになってから物が動く気配に鋭敏に反応するようにもなり、浅い眠りを繰り返す日々を過ごしていた。

「染み付いた癖はすぐには取れないか…」

はぁ、と自嘲気味にため息を吐いた。意識が戻ったものの布団からはほとんど出れない生活を送りながらも名無しは徐々にではあるが回復し始めた。足を引きずりながらも家の中を歩き回れるほどには傷は癒えているが、寒さから来る痛みは抑えきれない。骨の芯まで凍える冬の日が続く。木々の蕾は僅かに出始めているものの、春はまだ先だ。

覚醒してしまってはもう寝れはしない。燎は仕方なく身支度を整えて仕事に取りかかった。



畑仕事と薪割りを終わらせて戻ってくると赤鬼が土間の入り口に座ってる。いつの間に起きたのか。ここまで歩くのは骨が折れただろうに。

「赤鬼?どうした」

ここまで来て座り込んでしまったのか。顔色は悪くない。わたしに気がついて赤鬼は顔を上げて掠れた声で呼んだ。

「燎」

「傷が痛むのか」

体調が優れないのかと聞いても首を横に振った。結んでいない髪は肩につくほどの長さで、玄関から入ってくる寒風に揺れている。

「お前、いつもこんなに早いのか」

「ああ、そうだけど」

一人で暮らしているとこうなってしまう。畑仕事に炊事や洗濯、家業である薬師の一環で村を訪ね歩くこともある。雪が降ることを見越して遠くの家々には多めに薬を渡してあるため、出歩く必要はないがだからと言って遅く起きだしていたら仕事は溜まる一方だ。

「朝飯ならもう少し待ってくれ。半刻ほどで作るから」

「いや…」

腹は減っちゃいるがそうじゃない。また首を横に振って赤鬼は「ここにいていいか」と曖昧に笑っている。耳に当てている布に滲んだ血が赤黒く変色していて、あとで替えようとと考えながら返事をする。しかし何故そんなところに居たいなどと言うのか。

「朝飯を作るだけだぞ?」

「ああ」

「変な奴だな…。風通しが良いが寒くはない?」

「ああ、大丈夫だ」

鍋を準備して火をおこして玄米を炊く合間を縫って庭の隅で飼っている鶏たちに餌をやって、川で釣った魚の内臓を取り除いて串に刺して火にかける。忙しなく動き回っていても付きまとうそれに少しばかりうんざりして唸った。後ろを見遣ると、赤鬼がひどく柔らかい表情でわたしを見ている。

「…居心地が悪い」

「朝飯を作るだけなんだろ」

「そうだが人に見られてると…こう…むず痒くてだな…」

そもそも同じ屋根の下に人がいるというだけで朝早くに飛び起きてしまう癖が抜けないのだから、背後から視線を感じたらどうしたって身構える。この性分を知っていても赤鬼はわたしを眺めているらしい。なんと意地の悪い奴だ。

「気にするな」

「そういうわけにも…そうだ。座っていられるなら薬草を粉にしてくれ」

昼頃に薬を取りに人が来るのでその準備をしたいとあれこれ指示を出すと、それに応じて赤鬼は薬研を扱う。風に生活の音が混じる。懐かしい音や雰囲気に張っていた気持ちがゆるくなったようだった。



土間の柱に大きな刀傷がある。少しばかり角が取れて丸くなっているものの大昔に出来た傷ではない。

「燎、こいつは何だ」

「ああ、それね。いつだったかな」

話を聞けば、ある日突然野党が押し入ってきて金品を出せと脅して来た。断ると大太刀を抜いて叩き斬ってくれると喚いた拍子に柱に引っ掛けた。その時にできた傷だという。

「お前よく無事で…」

「土足で上がり込むし畑は荒らすわ商売道具は壊すわでえらい目に遭ったよ。一度や二度じゃない。何度も押し入られて参ったよ」

野党が押し入って来る度に容赦なく打ちのめし追い返しているうちに、ここ最近はぱったりと足が途絶えているらしい。その名残で護身用のため枕元に何かしらの武器を用意するようになったのだという。

「村の若人が加勢に加わってくれることもあったんだが、男手がない時を狙ってやってきたよ。後から知ったんだが、女が一人で薬師を生業としている噂が立っていたらしい」

燎は噂ではなく事実ではあるんだが、と土間の向こうに立ち並んでいる棚を後ろ手に指差した。ここには薬草が仕舞われている。

「荒らされた家の手入れは大変だったろうに」

「大したことはなかった。逃げ遅れた奴をとっ捕まえて丸二日こき使ってやったからな。やはり男手はあるに越したことはない」

「は……」

予想外の言葉に心配していた気持ちは消え労いの言葉は引っ込んだ。野党をとっ捕まえてありとあらゆる仕事を休む間もなくやらせ、足腰立たなくなるまで疲弊させた様が浮かぶ。逃げないように首に紐でもかけて柱に括り付けていたんだろうか。人の領域を土足で踏み散らかした輩には昔から厳しかった燎だ。自業自得とはいえ、その野党には同情する。

「来る度に仲間内の誰かが捕まり酷使されては骨折り損のくたびれ儲けだろうよ。野党どもが来ることはなくなったよ」

かなり強かに生きてきたらしい燎は、少しばかり得意げに胸を張る。とはいえ恐ろしかったに違いない。女が一人この広く大きな家を守るのにどれほど苦労して心を砕いたのか、幾度となく命の危機に晒された様は想像に容易い。

「また来ても追い払うさ」

魚の焼き色を確認して裏返す。野党どもの手法にも驚かなくなったし慣れてしまえばなんてことはないと燎は言った。そんなはずがないだろうに。

「万が一、以前と同じようなことがあったら俺が…」

「そういうことは傷を治しきってから言うんだね。まだ傷が塞がったばかりだ。無理をするとすぐに開くよ」

その通りだ。大袈裟に巻かれた包帯の下には塞がったばかりの傷がたくさんある。耳、腕、腹部、その他数え切れないほどに。場所が少しでもずれていたら確実に死んでいた。燎の薬と介抱のお陰で感覚も戻ってきている。拳を握り込めばそれなりに力も入る。

「まあ、今となってはその心配はない。この家にはしばらく男が二人いるから」

片方はまだ幼く可愛い時分ではあるがなと燎は笑う。言葉に違和感を覚えた。

「おい燎、それはどういう…」

言い澱んでいる間にもこの話はもう終わりだとばかりに切り上げて、俺に背を向けている。

「さあ、朝飯にしよう。仔太郎を起こしてきれくれるか」



「燎さん、こんにちはあ」

幼子が二人、手を取り合って戸の近くに立っていた。昼頃に薬を取りに人が来る、と言っていた件の人物はこの子供たちか。顔を見れば姉妹のようでよく似ている。

「燎さんいないのかな…」

燎は鶏の様子を見て来ると今しがた畑へ向かったばかりだ。体の自由が利きにくいとはいえ無視するのは心が痛む。土間から顔を出すと、途端に二人は縮み上がった。ただでさえ小さな体がより小さくなる。目が合うと、小柄な妹と思しき子が悲鳴を上げた。

「きゃっ」

「お、おさむらいさま…?」

年上である手前怖がってはいられないと、年長と思しき子は妹を庇うようにして立つ。馴染みの薬師の家を訪ねたら見知らぬ男が出て来た、となれば大人でも警戒するだろう。

「いや…」

俺は侍ではない。なんと言えばいいのかと口ごもっていると家の主が戻ってきた。優しい声を聴いて姉妹は振り返る。

「こんにちは二人とも。お母さんの様子はどう?」

「燎さん」

「あのひと、だあれ?」

姉妹は揃って姿を見るなり燎の足にしがみついた。妹が不安げに俺を見ている。あまりに怖がる二人の頭を撫でている様子を見ると、まるで母娘のようだ。

「あはは。そんなしかめっ面だから怖がられるんだよ赤鬼」

「おに?」

危険な輩ではないらしいと分かり姉妹は燎の足から離れたがいまだ警戒されているようで必要以上に近寄らない。妹に至っては姉の後ろに隠れてばかりいる。それでも興味はあるのかじっと瞬きすらしないでこちらを見つめていた。視線が外れたのは燎が薬を手渡してからだった。

「取って食いやしないよ。この人はね、わたしの古い友人。お友達だよ」

「おともだち?会えてうれしい?」

「もちろん」

「そっか。だから今日はにこにこしてるんだね」

姉の言葉に燎の気配がやや強張った。僅かな違和感。細かい感情の揺れが手に取るように分かる。燎は子供たちに気取られる前に、膝をついて目線を姉妹と合わせていつも通りの雰囲気に戻ってにこりと笑った。

「さあ、お母さんに薬を早く持っていってあげて」

「うん」

「また雪が降るだろうから、寄り道しないんだよ」

「はあい」

じゃあまたねと姉妹は手を繋いで寒空の下、雪の残る道を歩いていく。燎はその姉妹の後ろ姿を見送っていた。見えなくなるまでじっと身動き一つせずに遠くを見つめていた。膝の上で手をきつく握り締めている。

「…子供ってのは、鋭くて困るね」

「燎…」

―この家にはしばらく男が二人いるから。

傷が癒えるまでの間。一人で苦もなく歩けるようになるまでの間。再び刀を扱えるようになるまでの間。傷が癒えたら去っていくのだと、燎は考えていた。会えて嬉しい。だからにこにこしているのだと言い当てられて喉がつかえた。震えそうになる声を押し殺して、溢れそうになる涙を堪えていた。

「なあ、赤鬼。寄りかかってもいいのか?」

差し伸べた手を取って立ち上がった燎を抱き寄せた。すすり泣く声は抑えが利かなくなっていく。燎は人に頼ることを忘れ、自分で全部背負い込んでいた。幼子が泣くように涙を零すのは長年に渡って蓋をしていた感情の発露だ。

「ああ、寄りかかれ」

零れる涙が熱い。雪が舞う空を見た。燎の心は、もう二度と冬のように凍えることはない。


20200725
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