「……あ、」

「どうした?」

「ううん、なんでもない。じゃあね。」

「?ああ、また明日な。」



なまえを家の前まで送り届けた歌川は、不思議そうな顔をしつつも追求したりせず、別れの挨拶を告げた。
遠回りになるからいいと言っているのに、歌川はボーダーの任務で帰りが遅くなった日なんかは、必ずなまえを自宅まで送り届ける。さすがはジェントルマン歌川だ。なまえは内心彼を小馬鹿にしながら鍵を開け、家の中へと入った。

いつも静かで誰もいない菊地原家だが、今日はキッチンから炊飯器の音と野菜を切る音が聞こえる。どうやら、なまえの母親が帰ってきているらしい。
自室へ向かう途中、キッチンの前を通ると、それに気がついたなまえの母親は包丁を置き、「おかえり、なまえ」と声をかける。なまえは仕方なく、その足を止めた。



「……ただいま。家にいるの、珍しいね。」

「長期休暇を頂いてね。暫くはこっちにいることにしたの。父さんももう暫くしたら帰ってくると思うわ。今日は皆で一緒に夕飯を食べましょうね。」

「……うん。」



ふーん、あの人も帰ってくるんだ。家族全員揃って食事するのなんて、一体いつぶりだろう。そんなことを考えながら、なまえは自室へと足を向けた。





菊地原に転生した女の子17






「あれ、なまえだ!なんで、ここにいるの?」



放課後の学習室。数名の生徒しかいないこの教室で、珍しい人物を発見した佐鳥は、驚きの表情を浮かべながら彼女のもとへと駆け寄った。
彼女ーーなまえは、スマホを弄っていた手を止めると、気怠げな様子で佐鳥に目を向ける。その顔は何を馬鹿なことを言ってるんだ、と言いたげであった。



「なんでって…。追試の人はここの教室に集まるように言われてたじゃん。やっぱり、佐鳥ってアホなの?」

「ヒドッ!……って、え!?なまえ、赤点だったの?珍しいね。今回のテストってそんなに難しかったんだ?」

「さあ。問題見てないからわかんない。」

「……んん?見てないって、まさかテストを白紙のまま出した、とか?」

「うん。」

「うわぁ…。」



青褪めた顔の佐鳥が「それ知ったら、歌川めちゃくちゃ怒りそうだね」と呟けば、「もう散々怒られた後だよ」となまえは平然とした様子で返した。歌川にはテスト返却後、すぐに受験生の自覚はあるのかと長々叱られたらしい。
その話を聞いた佐鳥も、耳が痛いと唸り声を上げた。どうやら彼は赤点常連犯のようで、担任にこのままじゃ本気で受験やばいぞと言われているのだという。やっぱりアホだったか、となまえは冷たい視線を彼に向けた。

暫くして先生がやってくると、なまえ達のもとに追試のテストが配られた。これを解き終えた者から帰れるようだ。テストの内容は基本重視で優しめに作られていたため、なまえは難なく答案用紙の空欄を埋めていった。
そして、白目を剥いている佐鳥を気にかけることなく、解き終えた答案用紙を先生へと提出する。



「………よし、全問正解だ。次からは真面目にテストを受けろよ。」

「はーい。」



返却された赤丸しかない答案用紙には目も向けず、間延びした返事をするなまえに、先生は呆れ顔で溜息をついた。

菊地原なまえという女子生徒は態度こそ難ありだが、学力テストでは常に20位以内に入っている成績優秀者だ。ボーダーに所属しているため、遅刻や欠席することも多々あるが、授業は真面目に受けているようだし、志望している進学校もA判定が出ていて、他の生徒よりも幾分か余裕を感じられていた。
だからこそ、今回このような追試試験を受けるなんて一体何があったのかと心配していたのだが…。

先生は呑気に帰りの支度をするなまえを目にし、なんだ大丈夫そうじゃないかと密かに安堵する。そして、彼女よりも、その隣で死にそうな顔をしているもう一人のボーダー隊員の方がよっぽど心配だ、とまた深い溜息をこぼすのだった。





「……なんだ。待ってたの?」



先に帰っていいよって言ったのに、となまえは唇を尖らせる。誰もいない昇降口でぼんやりと外を眺めていた歌川は、なまえが来たことに気がつくと「お疲れ」と彼女に労りの言葉をかけた。
「別に疲れてないけどね」なまえは上履きから外靴へ履き換えながらそう返し、さっさと校舎から出ようと歩き出す。歌川もその隣に並んだ。



「追試はどうだったんだ?」

「あんな簡単なテスト、満点以外ありえないよ。」

「なら最初からやってくれ。」

「……。」



歌川のその冷ややかな声に、なまえは思わず眉を顰める。散々説教されたばかりなのだ。内申に響いたらどうするだの、受験生の自覚を持てだのと、お前は私の親か担任かと突っ込みたくなる内容で。
自分は推薦でもう合格してるからって生意気じゃない?と言えば、説教はさらに長引いた。全て彼女の自業自得ではあるのだが。

基本何を言われてもケロッとしているなまえも、今回ばかりは流石に懲りたのか、「わかってるよ」と苦々しげな表情で言った。



「今回はちょっとやる気が起きなかっただけだから。大丈夫、もう白紙で提出なんかしないよ。」

「それなら良いが、」

「……。」

「……お前、何かあっただろ?」



尋ねるような口調。しかし、歌川はそれを確信しているような顔で、隣りを歩く彼女に視線を向けた。
どうにも3日ほど前からなまえの様子がおかしい。それは彼女と親しい者しか気づけないような微々たる変化ではあるけれど、常に一緒にいる歌川には当然それがわかってしまった。

何も言わず歩き続けるなまえに、「悩みがあるなら相談に乗るぞ」ともう一声かければ、彼女は溜息をこぼし、「別に何も」と素っ気なく答える。元より素直に答えてくれるような奴じゃないことは承知だが、自分にくらい甘えてくれてもいいのにな、と歌川は内心愚痴をこぼした。


「今日は家まで送らなくてもいいから」と拒むなまえには従わず、歌川は彼女を家の前まで送り届けようとした。
追試試験が早く終わったとはいえ、この時期は日が短く、既に辺りは暗くなり始めている。女子学生が一人で帰るのは危険だ、と歌川は譲らなかった。こうなったら梃子でも動かない男だ。なまえは不満げな顔をしつつも「勝手にすれば」と半ば投げやりに言った。



「じゃあな、また明日。」

「……うん。」



なまえの家に着いても、歌川はなまえが家の中へと入るのを見届けるまでは帰ろうとしない。これはいつものことであった。ジェントルマンな彼はなかなか心配性なのだ。だから、なまえはさっさと家に入ろうと、鞄の中から鍵を取り出す。
そこで、なまえは何かに反応したようにピタッと動きを止めた。不思議に思った歌川が彼女の名を呼ぼうとしたそのとき、



「あら、今帰り?」

「!」



突然聞こえてきた第三者の声。後ろを振り返れば、なまえと同じ猫目をした女性が、買い物カゴを片手に此方へと向かってくるところだった。
女性が「おかえり」と言えば、なまえは少し間をあけてから「…ただいま」と返す。随分と素っ気ない態度だが、慣れているのだろう。女性はなまえの傍に立つ歌川へと視線をうつした。

「こちらの方は?」という女性の問いかけに、なまえは何か答えようと口を開いたが、その前に歌川が喋りだした。



「初めまして。なまえさんのお母様ですよね。娘さんとお付き合いさせていただいております、歌川遼と申します。ご挨拶が遅れてしまい、すみません。」

「え?彼氏?」

「ちょっと、歌川…!」



年上と話すのに慣れている歌川は、なまえの母親相手にも動じることなく、自己紹介をし始めた。それに対し眉を顰めたなまえが非難めいた声で彼の名を呼ぶが、「あなたは少し黙ってなさい」と母親に叱責され、心ならずも口を閉ざす。

そのまま歌川は自分となまえがクラスメートで、ボーダー内でも同じ部隊であることを説明したり、いつ出会っていつ付き合い始めたのかという母親の質問にまで律儀に答え続けた。
どうやら、彼は奥様のハートを掴むのもうまいらしい。礼儀正しく、愛想も良い好青年な歌川を、なまえの母親はいたく気に入ったようで「娘にこんな素敵な彼氏がいるなんて!」と感動したように言った。



「あらやだ、もうこんな時間…!長く引き止めちゃってごめんなさいね。」

「いえ、お会い出来て良かったです。」

「うふふ。私も旦那も仕事で家を空けていることが多いのだけど、ここ暫くは休暇をもらったから家にいるの。だから、今度良かったら夕飯食べに来て頂戴。腕によりをかけて作るわ。」

「本当ですか?ありがとうございます。楽しみにしていますね。」



そう言って歌川は爽やかな笑みを浮かべると、母親となまえに別れの挨拶を告げて、自分の家へと帰って行った。

歌川が去った後、母親はニコニコしながら「できた子ね、歌川くんって」と隣りに立つ娘に話しかけた。しかし、なまえはムスッとした顔のまま何も言わない。目すらも合わせない。
さっさと家の中へ入ろうと、持っていた鍵で玄関を開ける。そんななまえに母親は眉尻を下げ、少し困ったような笑みを浮かべながら、静かに尋ねた。



「あなたが三門市から出ていきたくないって言ったの、もしかして歌川くんがいるから?」

「………そうだって言ったら、引っ越すのやめてくれるわけ?」

「………。」



黙り込んだ母親を一瞥してから、なまえは何も言わず、そのまま家の中へと入っていった。

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