比翼連理


Raining cats and dogs  






 日本に居た頃は雨が多いと言うイメージが強かったけれど、実際に住んでみたら実は意外とそうでもない。一日中降っていることは稀だし、小雨や霧雨が多いからそれくらいでは傘をささない人も多いくらいだ。確かに曇りの日は多いけれど、大雨に限って言えば日本の方が多いんじゃないかとすら思う。
 だけど今日の私はその、滅多に無い一年を通しても稀な天気にたった今遭遇したところだった。

 Raining cats and dogs.

 英語圏で土砂降りを表すその表現は地元で学生をしていた頃に英語の先生が教えてくれたけれど、それがなんで猫と犬なのか正式な由来は曖昧らしい。北欧神話によるものだとか、猫や犬が喧嘩をするほどうるさい雨の例えだとか諸説ある中で、大学帰りの私が実際に遭遇した感想としては後者を推したいな。まぁ今日の雨は喧嘩と言っても子猫と子犬の可愛いそれではなく、生死をかけた一大バトルくらいの激しさがあった気がするけれど。

 あまりの激しい雨にそんな妄想で現実逃避でもしないとやってられないと思いつつ、なんとか辿り着いた我が家。頭から爪先まで濡れていないところを探す方が大変な程の私は、そっと開けた玄関扉の先に見慣れたスニーカーが並んでいないことに安堵の溜め息を吐いた。

「よかった、セーフ……」
「なにがセーフだって?」
「っ……」

 思わず零れた独り言に来るはずのない返答が聞こえ、心臓だけでなく身体全体が比喩ではなく跳ね上がりそうになった。その声が誰かなんて振り向かなくても分かっている。と言うより今のこの状態で振り向きたくない、と言うのが本音だけれどそうも言ってはいられない。ギギギ、と油の切れたブリキの人形よろしくぎこちない動作で振り向けばそこには想像通りの人物が立っていた。その端正な顔に満面の笑顔を添えて。

「……豹馬、おかえり。今日は遅くなるって……」
「おう、ただいま。ナマエもおかえり」
「ただ、いま」
「因みに遅くなる理由だった広報用の撮影はサクッと終わらせた」

 おかえり。
 後ろから現れた豹馬に思わずそう言ったけれど、よく見れば豹馬の服装は今朝見送った時の物ではないし、手元には使ったであろう濡れた傘とは別に握られたもう一本の傘とタオル。きっと帰宅後に雨が降り出したのに気付いて迎えに出てくれてたんだろうな。結果的にはすれ違いになってしまったけれど、自分も練習で疲れているはずなのに気遣ってくれるその優しさが嬉しくてその胸に飛び込みたくなった。
 ――今の私がこんな状態でこんな状況でなければ。

「豹馬、あのね」
「はいはい、先にシャワーな。夏とは言え日本とは気温が違うんだから風邪引く」
「わっ……」

 一先ずお礼をと言ったところで、私の頭に持っていたタオルを押し付けてシャワールームの方へ肩を押す豹馬に思わず拍子抜けしてしまう。絶対怒られると思ったのに、これはもしかして本当にセーフなのでは?そう思ってシャワールームに入る前、タオルの間からそっと盗み見た私は一瞬でその希望を打ち砕かれる。シャワールームの傍の廊下を背にして、腕組みして立っている豹馬。立っているだけで絵になる彼は、私の方を一瞥すると先程のようににっこり笑ってこう言った。

「前に言った言葉、まさか忘れてるわけねーよな?」

 しっかり温まったらリビング集合な。
 そう告げられて、静かにシャワールームのドアを閉める私。セーフだなんてとんでもない。アウト、しかもだいぶマズいやつ。一発レッドを突き付けられた選手ってこんな気分なんだろうか。そんな現実逃避をしながら浴びるシャワーは熱めのお湯のはずなのに、さっきの雨なんて比較にならないほどの冷たい水を背筋に浴びているようだった。



 ▽



「こんなに降るなんて聞いてない……!」

 思い出すのは高三の夏休み。受験のための夏期講習を終えて少しした所でポツポツと降り始めた雨は今では大きな雨粒となって降り注いでいる。
 天気予報は晴れだった。傘どころか曇のマークすら朝ごはんを食べながら見た天気予報には見当たらなかったはずなのに。視界が白むほどの豪雨に誰に言う訳でもない恨み言がつい漏れる。雨宿りも考えたけれど、近くに丁度よさそうな場所は無いし、どこかお店に入るには濡れすぎた。ちょうど夏場なこともあって幸い濡れても寒くはないだろうと思って走っていたけれど、制服は水を吸って重い上に張り付くし、靴の中は水が入って足を着く度にぐちゃぐちゃと気持ちが悪い。そうしてようやく家が見えた頃には制服のままでプールに飛び込んだ後のようなずぶ濡れ具合になっていた。

「ナマエ?」

 家まであと少しと言うところで名前を呼ばれて振り向くと、そこに居たのは幼馴染みで彼氏の豹馬だった。私の姿を見るなりその目を丸くしたかと思うと、手に持っていたタオルと傘を押し付けてくる。

「え、豹馬どうしてここに?」
「ナマエがまだ帰ってねーっておばさんに言われて。連絡しても返ってこないって言うから探してた」

 そう言われて慌てて鞄からスマホを取り出すと、そこには心配した母親と豹馬からのメッセージと着信の嵐。急いで母親に『連絡できてなくてごめん。いま豹馬と会ったからこれから帰るね』とメッセージを送って、その間傘を代わりに持ってくれていた豹馬にもお礼を伝える。

「ごめんね、部活の後で疲れてたのに」
「そんなんはどうでもいい。てか今すぐこれ着て」
「え?」
「お前もうちょっと自分の格好気にしてくんね、マジで」

 足を止めた豹馬がそう言うが早いか羽織っていたパーカーを渡される。そこで気付いた自分の姿。学校の指定のシャツは白く、雨で濡れたそれは肌にはりついて思いっきり透けてしまっていた。

「ご、ごめん!見苦しいものを……」
「別に見苦しくはねーけど目のやり場に困るっつーか。それにナマエのそんな姿他のやつに見せたくないんだって。わかる?」
「あ、う……はい……」
「わかったならとりあえず帰ろうぜ。夏って言ってもこんだけ濡れたら風邪引く」

 だいぶ冷えてんじゃん。
 そう言って繋がれた手。傘から出た手は濡れている。既に濡れ鼠の私とは違って豹馬が濡れるのはダメだと言わなきゃいけないはずなのに、繋がれた手から伝わるぬくもりが名残惜しくて言い出せない。こうしていつも豹馬の優しさに甘えてしまう私はずるいなと思った。

「豹馬、ありがとう」
「はいはい、悪いと思うなら次からはちゃんと連絡しろよ」

 次にそんな格好してたら襲うから。 
 
  



「ん、ちゃんとあったまったな」

 身体に鉛をつけているんじゃないかと思うほど重い足取りでシャワールームを後にした私は、ソファの上で豹馬と向かい合うようにして膝の上へと抱き上げられている。体温を確かめられるように頬を包む中性的な顔立ちに反して大きくしっかりした両手はひんやりしていて、シャワーで火照った頬には気持ちが良かった。

「で、だ。まず先に聞いとくけど、あんなずぶ濡れで帰ってきた正当な理由はあんの?」

 ひんやりとした手の感触にうつつを抜かしている暇もなく、頬を挟まれたまま視線を合わされてそんなことを聞かれる。ここで変に適当なことを言う方が後で大変なことになるのはわかっているので、私は「ないです」と素直に答えた。

「因みに俺が昔言ったことは覚えてるんだよな?それともあんな昔の口約束忘れた?」
「覚えてる、」

 あんな言葉、忘れられるわけがない。
 だから今まで少しの雨でも傘をさすようにしてきたし、天気予報もなるべくチェックするようにしていたのに。ただ今日が本当にタイミングが悪かっただけで……。なんて言い訳を心の中でしつつも、選択肢を間違えた私が悪いので何も言えず豹馬を見つめることしか出来ない私。そんな状態で口を開いたのはやっぱり豹馬の方だった。

「そ。じゃあ――」

 襲われても文句言えないよな?
 そう言ってさっきまで頬に置かれていた片方の手が腰を意味ありげに撫で上げる。

「あぁそれとも俺の機嫌取るって意味で、たまにはナマエが頑張ってみるとか?」

 どーする?
 耳元で囁かれてフッと息を吹き込まれるとぞわりと背筋が粟立った。私はどうするのが正解なんだろう。必死に思考を巡らせてみるのに、豹馬が耳を食んだり肌に触れるか触れないかの距離で触れることに気を取られて全然答えがまとまらない。それなのに、こんな状況でもじんわりと身体の奥で熱を孕んだ芽が疼き始めるのに気付いてしまったせいで、元々無かった余裕は簡単に消え去った。
 もういっそ豹馬の言う通り、このままこの熱に浮かされて理性を飛ばしちゃえば楽になれるのかな。
 緩い刺激にふわふわして、全くと言っていいほど使い物にならない頭にそんな思考が過ぎった時だった。

「なんてな」

 そんな言葉と共に私の思考回路を奪っていた豹馬の手が離れ、代わりに頭を抱えこむように抱き締められる。それこそ本当に予想外な展開に訳がわからず、押し付けられた胸の中で豹馬の名前を呼ぶと、頭上で聞こえる「悪かった」の言葉。なんで豹馬が謝るんだろう。

「ずぶ濡れのナマエ見て、俺の言葉忘れてんの?とか、ここまで走ってる間にどんだけの男の目に映ってんのかわかってんの?って思ったらちょっと苛めたくなった」
「ううん、私の方こそ心配かけてごめん……」
「まぁでも早く帰って俺が帰るまでに夕飯作ってくれようとしてたんだろうし、連絡も俺が練習遅くなるって聞いてたから遠慮したんだろ」
「なん、で……」

 言わなかったのに簡単に言い当てられて思わず小さく零れた疑問。それを拾い上げた豹馬はおかしそうに笑って、もう一度豹馬と視線を合わせるように私の顎を掬った。

「なんでって?ナマエのことならなんでもわかるに決まってんだろ」 
 
 そう自信たっぷりに告げる豹馬に視界が滲む。理由はなんにせよ、約束を守れなかったのは私なのに。こうして抱き締めてくれる彼の優しさに私はいつも救われて、助けられて、甘えている。

「豹馬、ごめんね」
「まぁ心配したのはホントだからな。ここら辺は割と治安いい方って言われてるけど、日本ほどじゃねーんだから気を付けろよ。今度破ったら一生俺の送り迎えでしか出掛けられないようにするから」

 そう言ってピンッと優しく弾かれる額。豹馬なら本当にやりかねないな、と思わず苦笑する。それは彼に多大なる負担を課すことに同義で、そんなこと絶対にさせられない。こっちに来たばかりでそれこそ迷惑をたくさん掛けているのに、これ以上の迷惑を掛けるとなるとサッカーをしている豹馬の邪魔にしかならなくて、それだけはなんとしても避けたかった。
 
「……今度こそちゃんと気をつけます」
「はいはい、わかったなら――」

 その言葉と共にぐるりと回る視界。私の目の前にはソファを背にした豹馬の姿。暗色系のソファに散らばる赤は綺麗で映えるな、と思っていればするりと腰元に豹馬の手が滑る。

「続き、シよーぜ。さっきあのまま流されてもいいかなって思ってただろ?」

 そんな顔してたもんな。
 ニヤリと口角を上げる豹馬にもう私が言えることはなにもない。豹馬は私よりも私のことをわかってるんじゃないかと、そんな気さえしてくる。そして彼の言葉と愛撫にゆるゆると再び熱を持ち始めた身体。その熱に抗うことなく私の方からキスをひとつ落とすと、同意と受け取ったらしい豹馬から返ってくる深いキス。

「あぁ、さっき言ってた機嫌取りとかは考えなくていいからな」
「ん……」
「ふは、かーわい」

 俺も好き。 
 その甘い言葉を受けてサラサラと溶けていく理性と共に、帰ってから作るはずだったご飯も、明日の授業のためにしなければならない予習も今だけは全て消え去っていく。ゆっくりと、けれど的確に与えられる快感に私はもう豹馬のことしか考えられない。
 だけどいいや。それでいい。それが、いい――







「ナマエ、もう大丈夫なの?」
「う、うん……ごめんね、ノートもありがとう」
「いいのよ、気にしないで。お大事に」

  
 結局、機嫌取りをする意味ではなくとも豹馬の言葉通り「頑張る」ことになった私は翌日、留学中で最初で最後の欠席をする羽目になり、雨に濡れて体調不良と言う理由を信じて連絡をくれたコースメイト達に申し訳なさでいっぱいになるのだった。
   
 
 

 


prev / next


- ナノ -