「今日も居ない、か……」
あれだけ照りつけていた日差しも落ち着き、朝晩の風が冷たさを帯びて季節が変わるのを肌で感じ始めてきた日の昼休憩。私はベンチに座ってボーッと空を眺めている。
中庭から少し離れたあまり人の通らない場所にあるこのベンチは一人で本を読むのに丁度よく、入学して少し経った頃に見つけてからは天気の良い日はよくここを訪れていた。そんな場所に来訪者が増えたのは半年ほど前のこと。入学したての真波くんがサボりの場所としてここを見つけて以来、少ないとは言えない回数を彼とここで過ごしていた。山を登った後で寝ている彼の横で本を読んだり、食べているお菓子に興味を示した彼にお裾分けしたり、ふわふわして掴みどころの無い真波くんは気まぐれなネコでも相手にしているような感覚だったと思う。最初こそこの場所で会うだけだった彼も、何度か会う内に学校の別の場所で会えば必ずと言っていいほど声を掛けてくれたし、可愛らしい後輩に懐かれた私はそれが擽ったくもあり嬉しくもあった。
そんな真波くんと夏休みが明けてからは一度も話をしていない。同じ学校だから姿を見ないわけでは無かったけれど、以前のように声を掛けてくれることは無かった。私から声を掛ければいいと思いつつも、真波くんの状態を聞いている私は遠くから見つめることしか出来ていない。
真波くんからあのふわふわしたオーラと笑顔を奪ってしまったのは夏のインターハイの結果らしい。王者の敗北、しかも最終ゴールを競って負けたと言う事実は一年生の彼には重すぎるのだと隼人くんたちは言っていた。一緒に出場した彼らは何度も真波くんに言葉を掛けたけどダメらしい。後は真波くん自身で答えに気付くしかないんだと、同じクライマーとして特に気に掛けていた尽八くんは言っていた。最近では真波くんの幼馴染みの女の子も、彼が立ち直れるように助力しているらしいことも聞いている。
私には幼馴染みとか同じ部活とか言う立派な肩書きはないし、本気で何かに打ち込んだ経験があるわけではないので何か気の利いた言葉を掛けることは出来ない。だからそっと見守るしかない、と言ったら隼人くんに『真波はおめさんの作るお菓子が好きだからな。今度また作ってやったらいいさ』と返された。そんなことでいいなら、と彼の好きな栗のお菓子を作ってこのベンチに通っていた。
「約束してるわけじゃないしね」
今日が金曜日だから月曜日から数えて今日で五日目。仲がいい方だとは言え、学校で会った時に話すくらいでそう言えば連絡先も知らないと思い出したのはお菓子を作り始めた時。隼人くんに聞けば教えてくれるんだろうけど、それはなんか違う気がして会えた時でいいと思った。流石に授業をサボってずっとここにいる訳にもいかないから昼休憩以外にここに来ていてもわからないし、最近は倒れるまで練習しているとも聞いたから昼休憩もそうなのかもしれない。会える確証なんてないこの行動に意味があるのかは分からないけれど、これは彼に何もしてあげることの出来ない私の一種の自己満足のようなものだった。
「来週は何にしようかな」
モンブラン、パイ、栗きんとん。
今週作ったものを考えながら、来週のことを考える。今週の感じだと本当にいつ会えるか分からないし日持ちするものにした方がいいかな。用済みになったマロンパイでも食べながら次のレシピでも探そうと携帯を取り出した時。
「志帆さん……?」
聞こえた声に自分でも驚くくらいの勢いで顔を上げる。そこには一週間待ち侘びていた彼の姿があった。本当にやつれた顔してるな。インターハイ前までの真波くんの顔を思い出してその差に胸が痛む。
「真波くん。久しぶり」
驚いた表情で立っている彼に声を掛けて隣へ座るように促した。いつもなら私が言わなくても座るのに、今日は少し悩んだ後緩慢な動作でベンチの端に腰を下ろす。
「山からの帰り?」
彼が引いていた愛車を見て尋ねれば、はい、と小さく聞こえる返事。そっか、と短く返して私はここに来ていた目的を果たすため、先程食べようかと思ってそのままになっていたマロンパイを鞄から取り出した。
「これあげる」
真波くん栗好きって言ってたよね。
そう言って差し出せば、真波くんはまた少し驚いたように目を丸くして私の手元に視線を落とす。そのまま動かない彼に、いらなかったら捨てていいよと付け加えると迷いのある動作ではあったけれど袋を受け取ってくれた。
「ありがとうございます」
「ううん、大したものじゃないから」
パイを一口食べた真波くんが美味しいと呟いた声が聞こえて安堵する。
「そう言えば、新開さんと付き合い始めたんですよね。おめでとうございます」
パイを半分くらい食べたところで真波くんが思い出したようにそんなことを言ってきた。その通りではあるんだけど、今の真波くんの状態を知っている上でそんな浮ついた話をするのはどうなのかと言葉に詰まっていると真波くんが不思議そうに首を傾げる。
「違うんですか?」
「……違わないよ」
付き合っている事実を否定するわけにもいかないし、とゆるゆる首を横に振る。その言葉に満足したのかは知らないけれど、真波くんはぱくりとパイにまた齧り付いた。もぐもぐと咀嚼した後に飲み込んで、ごくりと喉が動く。
「いいなぁ新開さん」
ふと真波くんがそんなことを呟いてぐぐっと背伸びをした。その様子はやっぱりネコのようだなと思って見つめていれば、彼の手の中に握られた袋が潰されてくしゃりと音を立てたのがやけに大きく響いて、今日初めて真波くんと目が合った。
「ねぇ、志帆さん。オレのことも愛してくれる?」
同じ青でも隼人くんのものとは違う瞳に吸い込まれそうな感覚になる。「愛してくれる?」と彼は言ったけれど、その今にも泣きそうな表情から紡がれたその言葉は迷子の子が助けを求めているみたいに聞こえた。だから私はそっと彼の頭に手を伸ばす。
「うん、いいよ。いつでも」
そう言って撫でればその手は払われることなく、そのかわりに真波くんはくしゃりと泣きそうなまま笑って直ぐに顔を下に向けた。
「わぁ、志帆さん堂々と浮気宣言?新開さんに言わなきゃ」
「んー、真波くんだし大丈夫じゃないかな」
「嘘だぁ。新開さん絶対独占欲強いタイプですもん」
「……そう?」
「気付いてないの?」
「どうだろうね」
そんな会話をしながらも私の手は真波くんの髪を撫でている。ここで再会した時よりは幾分か和らいでいる雰囲気にほっとしたのも束の間、昼休憩終了を告げるチャイムが鳴り響いた。残念ながら今日はここまでらしい。名残惜しい気はしたけれど、そっと彼の頭から手を離す。
「寒くなってきたから風邪引かないようにね」
あまり無理はしないでね。怪我しないでね。本当は色々言いたいことはあったけど、部外者の私が言うことではないと飲み込んで出た言葉はそんな在り来りなものだった。じゃあね、と教室へ足を向けた瞬間に手を引かれて名前を呼ばれる。
「また会える?」
「私はここに居るよ」
私の返事に満足してくれたらしい真波くんはへらりと笑って駆け出した。
彼の本当の笑顔が再び見れるまでもう少し──
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