Be sure to catch you


逃げられたので追いかけました  




 昼まで晴れていた空を見上げると、いつの間にか灰色に染まっていた。これはこの後一雨来るかもしれない。そういえば前の大雨の日はずぶ濡れの速水さんを見つけて寮まで送り届けたんだよな。二人っきりであんなに長く話したのはあれが最初で……ってあれ。もしかしてあの時だけだっけ。メールをしたり、ウサ吉を一緒に眺めたりもしたけどそれもそんなに長い時間じゃなかった。

 やばいな、思い出したら無性に話したくなっちまう。もう最後に話してからから一ヶ月以上経つけど、彼女の声は鮮明に思い出せる。人を忘れる時は声からって言うのが本当ならオレは彼女のことを忘れられる気がしなかった。声だけじゃなくて、あの少し警戒心を孕んだ視線も、困ったように笑う表情も全部が脳裏に焼き付いて離れない。いっそ忘れちまえれば楽なのかもしれないのにな。

 なんて、ローラー後の休憩を利用して感傷に浸っていればガラリと近くにあったドアが開く音がした。

「今日の練習は早目に切り上げるように!」

 響いた声に振り返れば、険しい顔をした尽八と寿一が立っている。インハイまでもうそんなに日数がないのに珍しいな。気になったオレは残り少なくなったパワーバーを咀嚼して、その包装をゴミ箱に捨てるついでに二人へその理由を尋ねることにした。


「中止?なにかあった?」
「うむ。どうやらこの後、雷雨の予報になっているらしくてな。雨ならまだしも雷は危険という判断だ」
「なるほどね」

 どうやら一雨どころでは無かったらしい。通り雨と雷程度なら室内メニュー中心にしてやり過ごすことも出来るけど、この感じだときっと夜まで降り続くんだろう。それなら仕方ないか、と思ってトレーニングルームとかにいる別の部員に知らせてこようかと一歩踏み出そうとした瞬間だった。

「あ、いたいた新開!」

 視線を向けなくてもわかるその声に、隠すことない溜め息を吐いて振り返る。

「今井、なに?今日は今から雷雨で練習中止だって──」
「それどころじゃないんだって!」

 いや、練習が中止になる以上のことはなかなかないだろうよ。ついそんなツッコミを入れたくなる気持ちを抑えつつ、話の先を促せば、今井はその興奮した様子のままとんでもないことを口走った。

「オレのクラスのやつが速水に告白するって!」

 その一言にオレの周りの時が止まる。
 寿一はオレの速水さんに対する気持ちを知らないからあまり表情を変えていないけど、尽八は眉間に皺を寄せている。ご自慢の美形が台無しだぜ。なんていつもなら出てくる軽口を言う余裕は今のオレにはない。そんなオレの気持ちを知ってか知らずか、今井は更にその先に言葉を続けていく。

「目立つやつではないんだけど人が良いっていう感じのやつでさ!図書室で何度か速水と話してたらしいんだよ!んで、それを聞いたオレはお前に知らせないわけにはいかないと思って走ってきたってわけよ!!てか、速水も目立つ感じではないけど意外と好きってやつ多いらしいんだよ」

 まぁオレも友達として気に入ってるんだけどさ!あ、あくまでも友達としてだから安心してくれよな。
 まだ今井はなにか話しているが、最後の方はもう殆ど聞こえていなかった。速水さんのことを好きなのはなにもオレだけじゃないなんて、少し考えてみればわかることだった。積極的なわけではないが、なんだかんだで面倒見のいい彼女の本質を知ってしまえば惹かれる理由としては十分だろう。そう言えば靖友も図書室で速水さんの世話になったと言っていたし、オレが知らないだけで彼女を頼りにしているやつらは多いのかもしれない。

 今すぐ走り出してしまいそうな足をなけなしの理性で床へと縫い付ける。今はまだ部活中で、オレはこれから他の部員に部活の中止を伝えにいけなきゃいけないんだ。最高学年でインハイレギュラーも決まっているオレが完全な私情で部活を抜け出すわけにはいかないよな。落ち着かせるために一度深呼吸して、パワーバーを取り出そうとポケットへ手を突っ込む。でもそこに目当ての感触はなくて、それがさっき窓際で食べていたのが最後だったのだと示していた。

「隼人」

 不意に尽八に名前を呼ばれてドキリとする。大丈夫だぜ、尽八。別に飛び出そうなんて思っちゃいないって。現に今からトレーニングルームに行って他のやつらに伝えて──

「真波がまだ来ていなくてな。メールを見ているかどうかも怪しいから、探して今日の練習は中止だと伝えてやってきてくれ。あいつは自宅生だから早い方がいいだろう」

 続く言葉に足元へ落ちかけていた視線が勢いよく上がる。その先には先ほどまでとは違う、涼しい顔をした副部長が立っていた。

「尽八、おめさん……」
「ほら、早く行ってこい。真波に伝えたらお前ももうそのまま寮に戻っていいからな」

 あまり遅くはなるなよ。
 そう言い残して尽八と寿一はそれぞれ他の場所への伝達へと向かっていく。そんな二人に、え?と最初は理解の追いついていなかった今井も何かを察知したのか、場所は校舎裏だぜ!と親指を上げてウインクを寄越してきた。全く、最高のチームメイトだな、おめさんたちは。今回ばかりは今井にも感謝して部室を飛び出した。
 
 彼女に思いを伝えるならインハイが終わったあとで。
 そう決めたのはオレ自身だ。一度は反故にした約束にもう一度チャンスを与えてくれた寿一、自転車に乗れなくなったオレをここまで支えてくれた尽八と靖友に報いるためにも何よりも優先するのはインターハイだと言う気持ちは今でも変わらない。でもそれまでに──

 そこまで考えたところで辿り着いた校舎裏に人影を見つけた。一人は速水さんで、でもその相手が今井の言っていたやつじゃないということは、もうその話には片がついたんだろう。たぶんオレの都合の良い方に。でも問題は速水さんと居る一緒に居る相手だ。なんとなくここに居るような予感はしていたけど、心の底ではそうじゃなければいいと思っていた姿がそこにある。

「大丈夫、ちゃんと好きだから」
「うん、オレも」

 ──でもそれまでに速水さんに彼氏が出来ていたら?
 頭の隅に浮かんで来る度に考えないようにしていた問いが目の前で突き付けられた瞬間だった。

 そう離れていない場所でのやりとりなのに、まるでテレビドラマを見ているような感覚に陥る。彼女が告白されて不安に思った彼氏に安心させるような言葉をかけてお互いの気持ちを再確認する二人。シーンの説明としてはきっとこんな感じだろうな。あぁそうか、それならつい先日おめさんに言われた言葉と表情の説明がつくよ。

「……そっか、おめさんたちやっぱり付き合ってたんだな」

 オレがいきなり掛けた声に速水さんの肩が分かりやすく跳ねた。視線の先にオレを捉えて、震えるような声で名前を呼ぶ彼女。一ヶ月以上ぶりに彼女の声で呼ばれた名前にぞくりとした快感が身体を走る。その昂りを悟られないように視線を真波へとずらして尽八からの言葉を伝えた。

「真波。今日はこれから雨と雷が激しくなるって予報が出てるから部活は中止、早く帰った方がいいよ。自宅生だろ、おめさん」
「えと、はい。ありがとうございます……?」

 不思議そうにお礼を言ってくる真波の横では速水さんがその視線を空に向けている。久しぶりに手の届く距離に彼女が居る。本来ならば嬉しいだけのこの対面も、隣に並ぶ真波と先程のセリフがそれを許さなかった。仕方ない。オレより先に想いを伝えたやつが居て、それを速水さんが受け入れた。それがたまたま部活の後輩だっただけの、別段珍しくもなんともないその辺にいくらでも転がっているような恋模様。この二人が仲良いことなんて知っていたし、付き合っていると言われても驚くと言うよりは納得したと言う気持ちの方が大きいくらいだ。
 
 ただ、それを目の当たりにして直ぐに受け入れられるかと言われると別問題なだけで。その瞬間、空を見ていた速水さんの視線がオレを向いた。反射的に逸らせばよかったのに、そう出来なかった彼女と暫く見つめ合う形になる。速水さんのその目に浮かぶ色は警戒心ではなく恐怖。その目をずっとみていると、そのままオレだけを見てくれるなら畏怖の対象でもいいかなんて危険な思考さえ浮かんできた。

「志帆さん?」

 そんな思考は真波の一言で現実に引き戻されて、それと同時に速水さんが弾かれたように走り出す。

「追いかけなくていいんです?」
「……それはおめさんの役目だろう?」

 残されたオレに真波が呑気にそんなことを言うものだから流石に苦笑が漏れた。それは彼氏としてどうなんだ。尽八じゃなくても小言を言いたくなるよと思っていると、うーん、と少し考えたような仕草を見せた真波は真っ直ぐにオレを見た。

「新開さんに任せます」

 その真意がどこにあるかは分からないけど、当たって砕けて来いってことか?それはまた大した自信だな。でも折角の機会を見送るほどオレも出来た人間じゃない。最後の悪あがきを許して貰えると言うのなら。

「その言葉、後悔しても知らないからな」

 殆ど強がりに近いそんな言葉を残して地面を蹴る。相手は運動習慣のない女の子。本気で走ればまだ十分に追いつけるだろう。

「あ!もし泣かせたら東堂さんと福富さんと荒北さんに言いつけますからね〜」

 背中越しに聞こえた声に振り返ると、真波はへらりと笑って手を振っていた。その内容は結構シャレにならないぞ。女の子を追いかけた上に泣かせたってなればオレの味方になってくれるやつは居ないだろうな。全く、とんだルーキーだよ本当に。


prev / next


- ナノ -