『時間というものはそれぞれの人間によってそれぞれの速さで走るものである』
シェイクスピアが残したその言葉に今ほど同意したくなったことは無いだろう。多くの生徒がさっさと終わればいいと思っているであろう夏期講習の間中、私はこのまま授業が終わらなければいいのにと考えていた。だけど私がそんなことを祈ったところで何かが変わるわけでもなく、夏休みに入る前は長くて嫌だなと憂鬱に思っていた一日掛かりの講習はあっという間に終わりを告げる。それどころかいつもは授業を延長しがちな先生も、今日は初日だからとチャイムが鳴る前に切り上げていた。あの先生に対して授業を延長して欲しいと願ったのは学年通しても私くらいなんじゃないかな。まぁそう言う私もそんなこと思ったのは三年間で初めてだけど。
開放感に満ち溢れる教室内と反比例するように緊張感が高まっていく。廊下の方に視線をやれば鞄を持って帰宅しようとしている他のクラスの生徒が見えて、約束の放課後が来てしまったと言う現実を突き付けられた。
「志帆ちゃん、途中まで一緒に帰るー?」
「あ、ごめん。今日はちょっと寄るところあって」
「おっけー、じゃあまた明日!」
「うん、また明日」
自宅が同じ方向のクラスの子が帰ろうとするのを見送っていると、他の生徒も次々に教室を後にする。自宅に帰っている子も多いし、明日もまた朝から講習だからわざわざ残る理由もないんだろう。私もそろそろ行かないと。緊張する気持ちを落ち着かせるように静かに一度深呼吸して席を立とうとした時、机に影が出来た。
「……東堂くん」
目の前に居たのは東堂くんだった。
そう言えば席が離れてから殆ど話してなかったな。その後からまた新開くんを避け始めて、なんとなく東堂くんとも気まずくなったまま気付けば夏休みに入っていた。インハイ当日に御園さんと話してるのを見たりはしたけど、私たちは挨拶くらいで会話らしい会話はしていなかったし。
「……」
何も言わずに立っている東堂くんは何を考えているんだろうか。新開くんと同じ部の彼はどこまで知っているんだろう。これまでのこと、これからのこと、何も知らないのか、全部知っているのか。隣に居た時はあれ程騒がしいと思っていたのに、いざこうやって黙られるとそれはそれで対応に困る。自他ともに認める美形が見せる無表情は、何を考えているか分からなくて怖いのだ。
「おつかれさま。私、ちょっと行く所があるから」
沈黙に耐えきれず動いたのは私で、先程クラスメイトに言ったものと同じような言葉を掛けて今度こそ席を立つ。そして数歩、教室のドアに進んだところで名前を呼ばれて足を止めた。
「また今度ランチをしよう」
なんだそれは。
あんなに重い雰囲気を作っておいて、出てきた突拍子もない言葉に思わず、え、と言葉が漏れた。
「あぁ、二人でじゃないぞ。速水さんとオレと聖と」
そこまで言ったところで東堂くんはその後に何か続けるのを躊躇うように言葉を切った。
「それだと私が邪魔になるよ」
「そんなことは、」
「あぁ、東堂くんが私と御園さんの邪魔に」
「ならんな!!」
私が全部言い切る前に食い気味の反応を見せる東堂くんに思わず小さく吹き出してしまう。すると東堂くんはどこか満足したように優しく微笑んだ。
「少しは緊張が解れたか?」
「!」
「いやなに、今朝からどうも難しそうな顔をしていたからな」
「……東堂くんは、全部知ってるの?」
私の問いかけに東堂くんはどちらともつかない表情で笑った。
「オレはただ、クラスメイトが緊張で酷い顔をしていたのが気になって声を掛けただけだよ。さぁほら、行く所があるんだろう?」
きっとこれ以上聞いたところで東堂くんの答えは変わらないだろう。でも今の私にとってはそれで十分だった。彼の言う通り、講習後よりも緊張は多少和らいでいるのが実感出来ていたから。それに、先程東堂くんがなにを躊躇したのかは大体予想がついていた。だから私は彼にこう返して教室を出る。
「東堂くん、ありがとう。ランチのこと考えとくね。二人でじゃなくて、私と御園さんと東堂くんと──」
▽
「夏休みに授業ってこんなにも疲れるんだな」
「そうだね」
ウサ吉の小屋の前、私と新開くんはそんなとりとめのない話をしながら美味しそうにニンジンを齧るウサ吉を眺めている。
「授業中もずっとさ、ペダル回したいなって思っちまうんだよ」
「うん」
「高校の部活としてはもう引退なのはわかってるんだけどさ」
「うん」
新開くんの言葉に短く相槌を打つ。その間も私たちの視線はずっとウサ吉に向いたまま。
「ホントはもっと早く連絡するべきだった」
「……ううん」
「スプリントリザルトも取ってくるはずだったんだけど」
「三日目、取ってた」
「はは、おめさんホントに三日間来てくれてたんだな」
でもあれは殆ど靖友のおかげだから。
そう言って苦笑した新開くん。そう言えば荒北くんがリタイアしたのはその前だったっけ。私はその場面を直接見れたわけではないから、きっとそこには結果だけでは分からないことがたくさんあるんだろう。そこに掛けられる言葉を持ち合わせてなくて、私たちの間に少し沈黙が流れる。聞こえるのはヒグラシの声とパリパリとウサ吉がニンジンを齧る音だけだ。
「なぁ、速水さん。オレが自転車乗ってる時になんて呼ばれてるかって知ってるんだよな?」
そんな沈黙を破ったのは新開くん。
「……箱根の直線鬼ってやつ?」
「そう、それ。本音を言うとあんまり知られたくなかった」
「鬼だぜ?表情も変わっちまってるらしいからさ、あれ見た子にあの時の新開くんってちょっと怖いよねって言われてるの聞いたこともあるし」
だからおめさんにもそう思われたらって思うとさ。
自嘲するようにどこか不安そうな表情で笑う新開くんを見て、そんなことを言う勝手な子に腹が立った。勝手に持ち上げて、勝手に怖がって。だってそれは真摯に自転車競技をしている彼に対して失礼なことだと思うから。この前まで表面上だけで苦手なタイプだと決めつけて避けていた私が言えたことではないけれど、それでも実際に新開くんのあの姿を見たところでそれを怖いとは不思議と思えなかった。
「怖くなかったよ。それに、鬼が味方なんて心強いと思うけど」
「……なんだ、真波の言ってたこと本当なんだな」
本心を伝えれば、少し驚いた表情をした新開くんがふはっと息を吐き出して笑う。なんでここに真波くん?
「オレのあだ名教えたの尽八だろ?それを聞いた時に、なんで言ったんだって焦ってたら一緒に居たって言う真波が『志帆さん、山神と鬼が味方にいたらうちの学校は最強だねって言ってましたよ〜』って言っててさ」
新開くんの説明に、あぁそんなこと言ったような気もする、とぼんやりとした記憶を思い出す。そうだ、確か真波くんとお菓子を食べてる時に東堂くんが真波を探しに来て、私が山神って言うあだ名を知らなかったところから派生してそんな話になったんだ。言われる まで私でも覚えていなかったようなことを、新開くんはとても大事な思い出を話すように教えてくれる。それはなんだか少し恥ずかしかった。
「それ聞いた時に、なんかわからないけどすごい嬉しくなって」
そこまで言ったところで、新開くんはそれまでウサ吉に向けていた視線を私に向ける。その深い蒼色をした双眸にじっと見つめられるのは真波くんとのことを勘違いされた時以来だけど、あの時感じた射すくめられるような怖さはなくて、ただその綺麗な色に吸い込まれてしまいそうな感覚を覚えた。
「速水さんのことが好きだ。オレと付き合ってくれないか?」
その瞬間、それまで聞こえていた周りの音が遠くなった。ここに来た時点で覚悟はしていたけれど、実際に言われた言葉の重みに思考が痺れるような感覚に陥りそうになる。リップクリームを塗り直してきた筈の唇が乾いて上手く動かない。それでも、ちゃんと気持ちを伝えてくれた新開くんに私も返さなければ、と手をぎゅっと握りしめた。
「……私ね、前も言ったけど新開くんが苦手だったの」
緊張のせいで震えそうになりながらもなんとか紡いでいく私の言葉を新開くんは静かに待っている。
「だけど少しずつ話すようになって、優しいところや、美味しそうにお菓子を食べてくれるところや、自転車に乗ってる時の表情や、あとは少し強引なところも、いろんなところを知っていくうちに気付いたら苦手な気持ちはなくなってて、それよりももっと一緒に居たい、新開くんを知りたいって思うようになってて……あの、えっと……だから、私も好き……です」
最後の方は自分で話しながらもいろいろな感情が溢れてきてたどたどしい言葉だったけれど、なんとか伝えられたことに安堵していれば、目の前の新開くんはくしゃりと嬉しそうに破顔して「ありがとな」と言って私を抱き寄せた。彼のふわふわした髪が頬にあたってくすぐったい。そして私の頭を抱き寄せたままの状態で、新開くんは大きく息を吐き出した。
「よかった、断られたらどうしようかと思って今日一日気が気じゃなかった……」
「……新開くんはこういうこと慣れてると思ってたよ」
「そんなことないさ。それに速水さんは知らないだろうけど、オレはここで初めて会った時より前におめさんのこと知ってたんだよ」
「え、うそ……」
「ホント。春休み前にここでウサ吉眺めてるおめさんの横顔に一目惚れして、どうやって声掛けようかと思ってたら尽八の隣の席でさ。これで仲良くなれると思ったら避けられるし真波とはやたら仲良いし」
「う……」
なんかさりげなく一目惚れとか言うとんでもないワードが聞こえた気がしたけれど、それに突っ込む前に新開くんが今までの経緯を列挙していくので思わず言葉に詰まった。そんな私を見た新開くんは、まぁでも、と楽しそうに笑う。
「いろいろあったけど、おめさんを無事捕まえれてよかったよ」
春休みから始まった箱根の直線鬼との鬼ごっこ。
結果はどうやら逃げてる内に鬼にまんまと絆されてしまった私の負けらしい。でもそれも悪くはないのかな、なんて思いながら彼の肩に頭を預けたところで思い出す。そうだ、忘れるところだった。
「あのね、新開くん。今度ランチに行かない?私と御園さんと東堂くんと──四人で」
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