放課後の調理室。
床に座り込んだ私の背中には調理台。
そして目の前には今までに見たことないような表情をした新開くん。
「今度は逃げないでくれよ?」
新開くんはそう言うけれど、逃げようにも私の顔の両サイドには彼の手があってそんなこと出来ないのをわかってて言うんだからずるいと思う。まぁそもそもここまで来るのに私の足は限界を迎えているので、逃げ出したとしてもきっとすぐに捕まるんだろうけど。それにしてもこの体勢はなんと言うか。
「……近い」
思わず思っていたことが溢れ出る。だっていま私と新開くんの顔の距離は腕の長さ分しか離れてない。これでなにも思わない方が無理だろう。それにこの至近距離ではさっきから煩い鼓動の音が彼にも伝わりそうで嫌なのだ。その原因が全力疾走後だからと言うだけではないのが分かっているから尚更に。
「逃げられたら困るからさ」
「……逃げてもまた追いかけて来そうだけど」
「ん、まぁそうだな」
先程までのどことなく怒りを孕んだような表情はなりを潜めて微笑んではいるものの、そこに含まれる威圧感は変わっていない。きっとあの場所で会った時点で私がこうなることは決まってたんだろう。新開くんから距離を置こうと言う私の計画は、どうやら一ヶ月ちょっとの今日で終止符らしい。じっと顔を見られているのに耐えきれなくなった私は視線を床に落としながら、小さく息を吐く。そして意を決してもう一度新開くんへと向き直った。
「逃げない。約束するから少し、離れて」
そう言った私の言葉に、新開くんはわかったとあっさりその距離を離す。その様子に半分くらいは断られるかと思っていた私は少し拍子抜けした。でもこれでやっと落ち着いて呼吸が出来る。そして体を起こした彼がどうするのかと思って見ていると、私の隣に並ぶようにして座り込んだ。調理台を背にして並んで床に座る私と新開くんの間には約一人分のスペース。電気もついていない調理室での非日常なこの状況下でなにを話せばいいのかわからず、私は無意識の内に抱えた膝に頭を埋めていた。
「真波とはいつから付き合ってるんだ?」
気まずい沈黙の中、腕時計の秒針の音だけがやけに大きく響いていた私の耳に届く言葉に思い出す。あぁ、そうだ。さっきの場面を見て新開くんは勘違いしてるんだった。真波くんのためにも訂正しとかないと。のそりと緩慢な動作で顔の向きだけ変えた私が口を開こうとした時、先に新開くんが言葉を重ねた。
「おめさんたち仲良かったもんな。オレの推理としては一ヶ月前くらいかなって思うんだけど」
「……なんでそう思うの」
訂正の言葉より先に私の口をついて出たのはそんな問い掛け。それに対して新開くんは特に逡巡することなく言い放った。
「だってそれくらいからだろ、おめさんがオレのこと避け始めたの」
……やっぱり避けてたのはバレてたんだ。
まぁあからさまだったし隠す気もなかったからその事実に驚きはしないけど、本人に面と向かって言われてしまうとやはり申し訳なさは感じてしまう。でもこの感じだと、私が真波くんと付き合い始めて気まずいから新開くんを避けてたって思われてるのかな。ということは今からそれを否定したら本当の理由も言わなきゃいけなくなるんだろうか。でもとりあえず間違っていることは伝えなければ。
「私、真波くんと付き合ってないよ」
それまでより少し大きな声でちゃんと伝わるように紡いだ言葉。それを受けた新開くんは、え?と一転して間の抜けた表情に変わる。その顔からはついさっき私の眼前に迫ってきていた時のような威圧感は微塵も感じられず、毒気を抜かれるって表現はこういう時に使うんだろうなと変に感心した。
「でもさっきおめさんたち好きだって」
「あー……確かに言った、けどそれは恋愛感情としての言葉じゃないから」
「嘘だろ……」
「ほんとだよ」
もう一度新開くんの言葉を否定する言葉を重ねれば、彼は片手で顔を覆って、その反対の手を私に向けると、ちょっと待ってくれ、と小さく呻く。そしてたっぷり数十秒ほと経ってから、一度その癖のある前髪をぐしゃりと握り潰した後にバツの悪そうな顔で、ごめん、と一言呟いた。
「……勘違いした」
「ううん、よく考えたら勘違いされてもおかしくない状況だったし。こっちこそごめんね」
「いや、その、なんて言うか、勝手に勘違いしてあんなに怖がらせちまった」
「私、」
「言ったろ、おめさんは結構顔に出るんだって」
だから、悪かった。
もう一度そう繰り返す彼の顔に言葉が詰まる。それまで避けてたのも、勘違いさせたのも私なのに、なんで新開くんがそんなにすまなそうな顔で笑うの。抱えていた膝を離して、ゆっくりと新開くんに向き直って座り直す。ちゃんと、言わないと。今なら言える気がするし、今を逃すともう言えない気がした。スカートの上に置いた手が震えそうになるのを少し力を込めることで抑えて、息を吸う。
「なにも言わずに避けて、ごめんなさい。そんなことされて気分悪かったよね。本当にごめん」
謝る私に新開くんは少し困ったような笑みを浮かべて、おそるおそると言ったように、理由聞いてもいいかい?と言った。気になるのは当たり前だよね。でもたぶん、私がここで首を横に振ればたぶんそれ以上追求されることは無いんだろう。きっと新開くんはそう言う人だ。だからこそ私はちゃんと伝えなければいけない。
「新開くんはさ、すごい人だから」
突然そんなことを言われた新開くんは不思議そうな顔をした。もちろんこれで全部じゃない。
「強豪自転車部のレギュラーで、人当たりがよくて、イケメンで、いつもどこか余裕がある感じで……なんて言うか住む世界が違う人だなって」
理由として挙げたのは全部私が彼に対して思っていたことだった。同級生だけど彼は表舞台に立つ人で、どちらかと言えば目立つのが好きではない私なんかとは全然違うタイプの人。最初に私が彼に苦手意識を持ったのは、無意識の内に予防線を張っていたのかもしれない。だって知ってしまえばきっとその眩しさに惹かれてしまうから。私が彼なんかと釣り合うはずがないのに。
それでも今年の春から徐々に新開くんと話す機会が増える度、気付けばやっぱり惹かれている自分が居た。その時にはもう彼の気持ちもなんとなくわかってしまっていたから、少しだけ怖くなった。太陽に近付きすぎたイカロスが最後どうなったのか知っていたから。だけど一度近付いたその距離を自分から捨てる勇気もなくて、ウサ吉小屋の前で彼女達の話が聞こえた時には、離れる口実が見つかって少し安心している自分が居たのも事実だった。今ならまだ引き返せる、太陽に焼かれてしまう前に──と。
そうして約一ヶ月逃げ回った結果として新開くんに大きな勘違いをさせた挙句、あんな辛そうな顔をさせてしまったのだけど。さっき彼のことをずるいと思っておきながら、なんてことは無い、本当にずるいのは私の方だった。
「私ほんと自分勝手で」
「オレ、速水さんが思ってるほど出来た人間じゃないよ」
もう一度頭を下げようとしたのを遮るように新開くんが口を開く。そうかな、そんなことないと思うけど。そんな思いは言葉に出す前にどうやら伝わってしまったらしい。
「その証拠に真波にすっげぇ妬いてたんだ」
「……」
「あいつはオレなんかよりずっと速水さんと仲良いだろ。よく二人で話してたり、お菓子貰ったり、今日のだって傍から見ればおめさんたちのあれは完全に恋人のやりとりだ。それがすごく羨ましくて、妬ましくて、気付けば逃げたおめさんを追い掛けてた」
ほら、後輩相手にも余裕なんて全然ないだろ?
自嘲するように薄笑いを浮かべる彼に私はなんて返せばいいんだろう。返答に困っている私を無視した次の発言はそんな悩みがどうでもよくなるくらい衝撃的なものだった。
「だからここに来た時は、どうにかしておめさんの気持ちを真波からオレに向かせられないかなって考えしか無かったよ」
まぁ勘違いだったんだけどな、と続ける新開くんは自分の言ってることの意味を分かっているんだろうか。確かに新開くんの私に対して友人以上の感情を持ってくれているのは気付いていたけれど、なんだこれは。ともすれば数時間前、同級生から貰ったものよりも鮮烈な言葉に思わず顔に熱が集まるのがわかる。待って、本当に、どうしてこうなった。
「他にもさ、」
「待って、わかった。わかった、から……」
まだ続けようとする新開くんだったけど、これ以上なにか話されても私の頭が追いつきそうになかったので慌てて制す。熱くなった顔を隠すように、ここへ来た当初のように調理台へ背を向けて抱えた膝に顔を埋めた。私と新開くんの距離は人一人分の距離しかないけれど、願わくば気付かれませんように。そのためにも一刻も早く顔の熱には引いて欲しいし、また煩くなった心臓には落ち着いて欲しかった。
「速水さん」
そう思っていると、不意に新開くんが私の名前を呼ぶ。この状況で顔を上げるなんて出来なくて、顔を伏せたままの状態で、なに?と返した。
「ちょっとこっち向いて」
無理です。
そう言えればどれだけよかったか。伏せてる間にも新開くんからの視線を感じて、そのなんとも言えない居心地の悪さに耐えきれなくなった私はゆっくりと、ほんの少しだけ顔を上げて横を向く。
「……え?」
そんな私の視界に映ったのは銃のようにした指を私に向けている新開くんの姿。なに、これ?
その意味がわからずに向けられた指先と新開くんの顔を交互に見る私を、彼はどこか満足そうに笑ってこう告げた。
「インハイが終わったらおめさんに伝えたいことがあるんだ」
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