「気持ちはありがたいけど、ごめんなさい」
慣れない場面に遭遇し、どう返すのが正解なのか分からないままに口から出てきたのは結局在り来りな言葉。そんな私の返答に何度か図書室で話したことのある隣のクラスの彼は、だよな、と眉尻を下げて笑った。
「突然ごめんな。速水がそう言うのはわかってたんだけど、オレも自分の気持ちに踏ん切りつけたくてさ」
「……そっか」
「これでやっと受験勉強にも集中出来そうだわ。あ、また図書室行った時は変わらずオススメの本とか教えてくれると助かるんだけど」
どう?
私に気負わせないためか努めて明るくおどけて見せる彼に、せめてものお返しにと頷けば目の前の彼は嬉しそうに破顔する。そしてもう一度時間取らせて悪かったなと謝罪の言葉を紡ぐ彼に首を横に振り、その場を立ち去る彼の背中を見送った。
今日のような経験が過去に一度も無いわけではないけれど、だからと言って緊張しない訳ではない。その独特の雰囲気から解放された私はゆっくりと息を吐き出した。
「志帆さん」
「っ!真波、くん……」
そんな時、急に後ろから声を掛けられて思わず肩が跳ねる。勢いよく振り返った私の視線の先には少し険しい顔をした真波くんが立っていた。
「ごめんね、覗き見したわけじゃなかったんだけど」
「あ、ううん。私こそなんか変なとこ見せちゃってごめん。部活行くのに遅れちゃうよね、はいこれ約束してたやつ」
真波くんに声を掛けられたことで当初の目的を思い出して、慌てて持っていたランチバッグから小さな袋を取り出して彼に渡す。中身はクッキーで、この前また食べたいと言ってくれた真波くんに渡すため、放課後の部活前にいつものベンチで待ち合わせしているのに向かう途中で先程の同級生に声を掛けられたのだった。
「わーい、ありがとうございます」
「いつも大して代わり映えしないものだけど……」
「ううん、これ食べやすくて好き」
何がいいかと聞いたらクッキーと即答されたので作ってきたけど、前もそうだったと思い出して一応ココアを混ぜたり少しバリエーションは増やしてみた。あとは余り口の中の水分を奪ってしまわないようにしっとり目に作ってみたけれど、それが彼にとって重要なのかは分からないから私の自己満足の範囲に収まっている。でも早速一枚取りだして笑顔で食べてくれている様子を見ると、そんな些細なことは気にしないでいいかとも思えた。
「そう言えば志帆さん、さっきの告白断ったんですねー」
「え、あぁ……うん」
いつの間にかベンチに座って二枚目のクッキーに手を伸ばす真波くんは、思い出したようにそんなことを聞いてくる。
「オレ、志帆さんが断ったの聞いた時によかったーって思ったんだ」
もぐもぐと食べながら立ったままの私を見上げて真波くんが笑う。よかった?真波くんの発言が唐突なのはいつものことだけど、私が告白を断ることで彼になにかメリットになりそうなことはあっただろうか。そう悩む私の気持ちを知ってか知らずかそのまま真波くんは言葉を続ける。
「ほら、彼氏が出来たら志帆さんからこうやってお菓子貰えなくなっちゃうのかなって」
なるほど、そう言うことか。
私たちの関係に恋愛的な感情は含まれてはいないけど、それは私たちが思っているだけで傍から見たら男と女が二人きりで会っていると言う状況しかわからない。そして付き合う人によってはそれを良しと思わない人も居るだろう。
それにしても、真波くんって意外とそんなところまで考えてるんだ。あんまりそう言うの気にしないタイプだと思ってたんだけど。
「お前は甘えすぎなんだ、速水さんに彼氏が出来たらどうするんだって東堂さんに言われたんですよね〜。オレそんなこと考えてなかったから聞いた時びっくりして。お菓子を貰えるのもだけど、こうやって一緒に話す時間も好きなんだ。だから志帆さんがオレの知らない誰かと付き合って、それが出来なくなるのは嫌だなって」
そう思ってたからさっきの場面見てちょっと焦っちゃった。
珍しく困ったように笑う真波くんにいろいろな感情が押し寄せてきて言葉が出ない。数ヶ月前に偶然出会ったことで始まった彼との、ただの先輩後輩と言うには少し近くて友人と言うには烏滸がましいこの距離感。連絡先も知らずに約束らしい約束も殆ど無いその酷く曖昧なこの関係が心地いいと思っていたのは私だけじゃなかったんだと、じわりと視界が歪む。
「だから志帆さん、彼氏にするならオレとこうしてても怒らない人にしてよ」
「……うん、そう、そうだね」
「え、志帆さんなんで?待って、ごめん、嫌だった?」
我慢できずに目から零れるものを見た真波くんがわたわたと慌てて謝った。違う、そうじゃないんだよと伝えたくて必死に首を横に振る。あぁ、もう。こういう時に上手く動かない口も、止まらない涙ももどかしい。
「うれしくて」
ただ一言、なんとか絞り出したように音になった言葉。子どものように酷く拙いそれは、それでも真意を伝えられたようで真波くんは安心したように息を吐いて、いつものようにへらりと笑った。
「よかった、オレ志帆さんに嫌われたら生きてる気がしない」
「大丈夫、ちゃんと好きだから」
「うん、オレも」
このやり取りに恋人のような甘い要素は含まれてないけれど、そんなものは私たちの間には必要ない。今まで曖昧だった彼との関係はこの先もきっと変わらず名前は付かないままだろうし、でもたぶんそれでいいんだと思う。
そんな風にどこか安心して、そう言えば部活の時間は大丈夫?なんて今更なことを聞こうとした時だった。
「……そっか、おめさんたちやっぱり付き合ってたんだな」
急な第三者の声に、先程真波くんに声を掛けられた時以上に身体が跳ねた。聞き覚えのある、ここ一ヶ月ほど聞かないようにしていた声。それでも忘れることは出来なかったその低めの声の持ち主は──
「新開、くん」
「真波。今日はこれから雨と雷が激しくなるって予報が出てるから部活は中止、早く帰った方がいいよ。自宅生だろ、おめさん」
「えと、はい。ありがとうございます……?」
名前を呼んだことで一度私の方に向いた視線はすぐに真波くんの方へ移動して、淡々と部活の連絡を伝えている。その言葉に空を見上げればいつの間にか暗い雲に覆われていて、新開くんの言葉通り今にも雨が降り出しそうだった。
そして空から視線を戻した瞬間、何故か新開くんの視線は私の方へ向いていてお互いに見つめ合う形になってしまう。直ぐに逸らせばよかったのに、その深い蒼を見てしまえば射すくめられるように身体が動かない。この場から立ち去りたいのに足が動かない。目の前の新開くんは私の見たことのない表情をしている。恐い、怖い、こわい──
「志帆さん?」
真波くんに名前を呼んでもらったことで金縛りが解けたように全身の感覚が戻ってきた。そしてそのままの勢いで、私は弾かれるようにその場を走り出す。どうしてそうしたかは分からないけれど、あれ以上あの場に居たらダメだと思ったから。
▽
勢いに任せて走り出したものの運動習慣のない私に持久力なんてあるはずも無く、すぐに身体は限界を訴えてきた。酸欠で回らない頭をなんとか巡らせて行き着いたのは調理室。鍵、返してなくてよかった。ポケットに入れていたそれでドアを開けると、見知った場所に辿り着いて気が緩んだのと足もいい加減限界だったのとでその場にへなへなと座り込んでしまった。
あぁ、何も言わずに走ってきて真波くんに悪いことしたな。今度会ったら謝らないと。新開くんには、どうしたらいいんだろう。逃げてごめんなさい?逃げた理由を聞かれたら私はちゃんと答えを返せるんだろうか。あれ、そう言えば新開くんは私と真波くんが付き合ってるって勘違いしてた気がする。そこは真波くんのためにも訂正しないと……。疲労でクラクラする思考は散らかってまとまりがない。少し落ち着いたら寮に戻ろう。考えるのはそれからだ。
「おめさん、意外と足速いんだな」
「うそ、なんで……」
ドアの入口から聞こえた声と見えた姿の理由を導き出すには私の心身は疲れ切っていた。
『そう言えばな、オレは山神で隼人は──』
そのせいか不意に脳内に東堂くんの声が蘇る。
そうだ、その渾名を聞いた時には彼に似ても似つかないイメージだったからすっかり忘れていた。
「箱根の、直線鬼……」
いつもの優しい新開くんとは違う、目の前にいる彼にはその名前が良く似合う。一歩ずつ近付いてくる新開くんをぼーっと眺めながら、どこか他人事のようにそう思った。
prev /
next