Don't catch me if you can


授業をサボりました  




「ここは試験範囲に入るから──」

 ちゃんと復習しとけよー。
 そう言って数学の先生が黒板に書いた数式にグルグルと大袈裟に丸を付ける。この先生はこうやって試験に出すところを分かりやすく提示してくれるから楽だよね。なんて声が聞こえて、確かにそうだったなと過去の試験を思い出して心の中で頷いた。

 授業を終えて一気に騒がしくなる中、教室を出る。カレンダーも七月に入ればそれなりに暑さも本気を出してくるけれど、箱学は立地的にそこまで茹だるほどではない。今日は委員会の当番日でもないし、クラスの仲のいい友人は最近出来たと言う彼と学食に行くと言っていたので、私はゆっくりと一人でいつものベンチに座って昼食を食べることにした。

 サンドイッチを齧りながら、反対側の手のいつもなら文庫本が収まる位置に数学の教科書を持ってぺらりと捲る。一応ね、試験前だし。極端に勉強が苦手と言うわけではないけれど、何もしなくても出来るほどの頭は持ち合わせて居ないのでそれなりの努力はしているつもりだ。もう一ページ捲ると、ついさっき授業で試験に出ると言われた公式が載っている。そう言えばこの問題当てられて解いてたの、東堂くんだったな。
 ちゃんと予習をしていたのか特に焦るわけでもなく、スラスラと数式を書いていた彼の姿が脳裏に蘇る。部活の練習大変そうなのにしっかり勉強もしてて偉いよね。あれかな、強豪校だからこそちゃんとしないといけないのかもしれない。隣の席だった頃、合宿や大会で授業を公欠した彼にノートを貸した際にそんなことを言っていた気がする。あれ、でも真波くんはそんな感じないけどな。それに新開くんだってあまり得意じゃないとか──

 そこまで考えて、それ以上考えるのを止めた。ウサ吉の小屋の前での会話を聞いてから気が付けば一ヶ月。あれから新開くんとは殆ど話していない。クラスが違えば元々大した接点のなかった私たちが会うことは滅多にないし、東堂くんと席が離れて窓際に移ったお陰で廊下から話しかけられることも無い。東堂くんからは何か言いたげな視線を感じることもあったけれど、夏が近付いて来てインターハイに出る彼らの部活がより一層忙しくなっていたのも接点を減らしたい私にとっては好都合だった。約束していた推理小説の入荷リストは御園さんに頼んだし、ウサ吉の世話とお菓子作りは受験勉強が忙しくてと言うそれらしい理由をつけて伝えれば新開くんも納得してくれたのか、それ以降特に何かを言われることはない。きっと少し経てば私の存在は新開くんの中で、一時期少し仲の良かった同級生の認識になるだろう。そう、それでいいんだ。

「だめだ、全然頭に入らない」

 そんな事ばかり考えて、一向にページが進まない教科書を閉じて目を瞑る。この時期でも校舎裏の木の影にあるベンチは心地よくて、意識がふわふわとしてくる。予鈴が鳴るまでもう少し。それまで──

  


 
「あれー、志帆さんがいる」

 サボりですかぁ?
 そんな間延びした声がカラカラと何かを引く音に沈んでいた意識が浮上する。サボり?昼休憩だからサボりじゃ……まさか。ハッとして腕時計を見ると既に午後からの授業が始まって十五分ほど経過している。あぁ、やってしまった。週の初めから無断でサボることになるとは。

「珍しいですね、もうお昼休み終わってますよ?」
「みたいだね……」
「志帆さんが居眠りして寝過ごしてるのってなんか不思議な感じしますね」
「いつも寝てるのは真波くんの方だもんね」

 そう言えば、ですよねーといつものようにへらりと笑って私の横に座る真波くん。少しずれて座れる場所を広くしてあげれば、教室に戻ろうとしない私にいいんですか?と首を傾げてくる。確か五限目は古典だったかな。試験範囲は終わってるし、あの先生はそんなに詮索してくる人でもないから保健室行ってましたってことにすれば大丈夫だろう。

「まぁ、たまにはいいかな。真波くんはまた山登ってたの?」

 真っ白な自転車を伴っているその姿を見れば聞かなくてもわかるんだけど、彼と会った時の常套句としてつい聞いてしまう。

「はい。天気良いし、インハイまであと一ヶ月かって思うと無性に登りたくなったんですよね〜」

 真波くんの答えは予想していたものなのに、インハイと言うフレーズに思わず言葉が詰まる。見に行くって約束したんだよね……。一度した手前、新開くんと会いたくないので行くのやめますと言うのも真波くんに悪いし、そんな私の私情は抜きにして目の前にいる彼の走りは見てみたいと思った。仕方ない、今度御園さんに事情を話してこっそり応援出来そうな場所を教えてもらおう。

 そう一人で結論付けて、持っていたランチバッグからお菓子の箱を取り出して真波くんへ差し出した。

「わぁ、また新しいやつだ」
「食べようと思ってたんだけど寝ちゃってたから。嫌いじゃなかったら一緒に食べよ」
「ありがとうございまーす」

 クッキーを一枚取って口へ放り込むのを見届けて、私も一枚食べてみる。うん、程よくサクサクしていて美味しい。もう一枚食べようかなと手を伸ばしたところで、視線を感じて顔を上げれば真波くんがこちらを見ていて目が合った。

「口に合わなかった?」
「あ、いやそーいうんじゃないです。美味しかったけど、最近志帆さんの作ったやつ食べてないなって」

 最後にオレが貰ったのもクッキーでしたよね。
 そう言った真波くんの言葉に驚いた。渡すのを約束しているわけでもなくて、作った時に見かけたら渡しているだけなのに意外と覚えてくれてるんだな。その事実に嬉しくなると同時に、それを作った次の日にあの会話を聞いたんだったと思い出した。

「志帆さん、新開さんとなんかありました?」
「え……」

 まさか真波くんの口から指摘されるとは思っていなくて、あからさまに肩が跳ねてしまう。これではなにかありましたと言っているようなものだ。

「……なんで?」
「この前部室でクラスの子に貰ったお菓子食べてたら新開さんがチラチラこっち見てきたんで、志帆さんのじゃないですよって言ったらすごいホッとした顔してたんですよねー」
「そうなんだ……」
「その後も、最近お菓子貰ったか?とか聞かれたりして。だからなんかあったのかと思ったんですけど」
「あー……」

 どうやら私の知らないところで後輩に迷惑が掛かってしまっていたらしい。ごめんねと謝ると、オレあんまそー言うの気にしないんで!と笑われた。やっぱり真波くんはいろんな意味ですごい子だと思う。

「昨日も新開さん、なんかボーっとしてて東堂さんに呆れられてました」
「え、それは」

 まさか部活に支障が?と思ったけれど、どうやらタイムとかが落ちていると言うようなことでは無いようで安心した。自惚れるわけではないけれど、私なんかのせいで全国大会常連校のレギュラーの調子を落とすわけにはいかないのだ。そうホッとしたのも束の間、また次の真波くんの爆弾発言に私の心はざわつき始めることになる。

「志帆さんって新開さんのこと好きなんですか?」
「……どうしてそう思うの?」
「んー、なんとなく?でも新開さんの方は、」
「真波くん」

 遮るように呼んだ名前は思った以上に大きく、言った自分でも驚くものだった。そしてそれは当然言われた側の真波くんもそうだったようで、大きな目を丸くして私を見ている。
 その先に続く言葉がなにかは私でも分かっていた。それでもそれを遮ったのは、その事実を真波くんの口から言わせたくなかったのか、聞きたくなかったのか、言葉に出して認めてしまいたくなかったのか。きっとその全部なんだろう。
ここ数ヶ月の新開くんとのやりとりで、彼の言葉や態度にただの同級生以上の感情が含まれているのはなんとなく理解出来ていた。そしていつの間にか私にも同じような感情が生まれていたことも。その上で私は全部見なかったフリをして逃げたのだ。だから。

「この話はここでおしまい。ね?」

 いつの間にか無くなっていたお菓子の空き箱に蓋をして言えば、それ以上突っ込む気はなかったらしく、はぁい、と彼らしい返事が返ってきた。それに安心して時計を見ればそろそろ五限が終わる時間になっている。流石に最後の授業は出ないと。そう思ってベンチから立ち上がると同時に、あ!と真波くんが声を上げるので何事かと視線を彼に向ける。年下で言動もふわふわしているから忘れがちだけど、真波くんの身長は意外と高い。だからこうやって見下ろす側になるのは新鮮なんだけど、なにやら少し不満げな表情の彼は一体どうしたと言うんだろう。意図が読めずにいる私は、大人しく真波くんの次の言葉を待つことにしてもう一度ベンチへ腰を下ろす。

「でもオレは志帆さんのお菓子食べたい!元々新開さんの方が後なんだから、そのせいでオレまで食べられなくなるのはやですよ〜」

 思いがけない彼の意思表示に今度は私が目を丸くする番だった。さっき作った内容を覚えてくれていたことが分かっただけでも嬉しかったのに、まさか望まれるとは。クラスの子にも貰っていたと言っていたから、別に私じゃなくてもとは思うけど、それでも食べたいと言ってくれるのは素直に嬉しくて。

「ね、ダメですか?」

 その上こんなことを言われてしまえば私に頷く以外の選択肢はない。

「そうだね、今度また作ってくるよ」
「やった!」

 オレ前作ってもらったあれがいい!
 手を挙げて言う真波くんは小動物のようで本当に可愛くて、さっきまでザワついていた気持ちがすーっと晴れていくような気がする。多分この感じ、きっとあれに近いんだ。アニマルセラピー。ふわふわの彼の髪の毛を優しく撫でてありがとうと言えば、真波くんは不思議そうに首を傾げた。


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