明白であり確かなこと、そう言ってから少しの間があいた気がした。

「……異界の人間だろうが現世の死神だろうが、貴女を前にしたらボクはただの男でしかない。貴女もひとりの女」

 ふ、と再び目許を綻ばせた喜助は、緩やかに眦を垂らす。

「なので、どんなにゆかさんが貴女自身の存在に異を唱えても、手離す気はありませんよ」

 薄い唇から流れる固い決意。
 紅糸で繋がられたような意志を訊いて、浮き足立っていた覚悟がすとんと着地した。多くを語らない彼がようやくの本心を雄弁に語っているようで、それを真摯に受け止めた。

 魂は滅ぶ、生がある限り。いつかは消える。だがその時が訪れても、あなたがいれば。きっとその恐怖すら喰べてしまうのだろう。
 出逢い方がどうであっても、
 終わり方がどうなろうとも、
 あなたと居さえすれば、霧は晴れるから。

「私も……離れたくないです」

 もう遠ざけることも疑うこともない。今はこの想いが涯てまで続くように、在り続けるように、強く永く願うだけ。とは言えいくら善良を持ち合わせていても心変わりはする。自分がそうであったように。それでも、その中でも、変わらないものはあると信じていたい。

「ただ、どうか気が変わらないでほしいな、なんて……。浦原さんをまた遠くに感じてしまうのは、苦しいので……」
「何言うんスか、遠く別世界へ行ったのはあなたなのに」
「いえそうではなくて、浦原さんの人柄の話です」
「まーた詩人みたいなこと言って」
「そんな違います、ただ私は、……浦原さんが」
「──あ。駄目っスよ、ストップ」

 奇しくも過去と同じように遮った声は、あの時よりも柔らかく響いた。

「必ずあなたを幸せにしますから」

 唐突な、誓約にも似たそれに息さえも奪われていく。

「ボクが、必ず」

 低音で零した喜助は、唇に指先を添えてそっとなぞった。
 こうして眼を見交わすと、これまで蓄積された感情が一気に昇りつめていく。募り募ったものが膨張して爆ぜてしまいそうなくらい。瞬間、時はまるで振り子が止まったように、そして逆行した。同じく溢れる寸前だった、あの別れ間際まで。『浦原さんが』そこで途絶えた情愛の欠片。とん、と背中を押されるように、同じ声を乗せようとしている。けれどあの時に酷く感じていた、強く焦がれた苦しみは綺麗になくなっていた。
『私、浦原さんが、──』あの時を心重ね、いま。

「……き、好き」

 喜助がなにかを告げるより先に、息吐く声量で紡いでいた。
 驚いたように目を丸めた喜助は眉根を寄せる。

「……不意打ちは、無しでしょう……」
「私、ずっと伝えたかった」

 溢れ続けた想いはどうすれば貴方に全て届けられるのだろう。

「浦原さんが、好きだって」

 このたった二文字を。これまでの、これからの想いを──。

「ずっと、ずっと、言いたかったんです」

 至近の唇から浅い吐息が漏れた。

「……もう一度、聞かせて下さい」

 そう呟いたあなたの酷く震えた願いを、包み込むくらい溶かしたくて。

「好きです」
「もう一回、言って」
「好き、浦原さん」
「もっと、」
「……すき」

 乞われるがままに紡いだ、彼が満足するまで何度も。告げる度に蘇っていく。最後の日に感じた、手放した幸福が全身に。不思議と恥じらいはない。それ以上に伝えられた悦びが大き過ぎて。今はもっと紡いでいたい、枯れてなくなるまで。

「すき」
「………」
「喜助さん、大好き」

 返答の代わりに背中へ回された腕。ぐっと力を込められる。それは軋む音を上げそうなほど、秒追うごとに強まった。男の人の、喜助の匂いが充満するくらい、胸元へ顔を埋める格好に。昔は馨らなかった煙草の苦味が鼻腔を刺激する。この香しい悦びを逃すまいと、味わいながらゆっくりと瞬きを重ねた。暫く想いのままを本能に任せれば、幽かな声が降る。

「ですから不意打ちは……向こうで覚てきたんスかそれ」

 はあ、と喜助は溜息を落としても抱く腕は緩めない。

「……いや、読心術のプロが何言ってるんですか……」
「ボクにも人並みの驚喜くらいありますよ」
「私は私の思うように言っているだけで……あ、でも」

 ──それは、幸福を追い続けていた頃に委ねられた選択。

「やっと、いま自由に言えたかもしれないです」

 足掻いてはもがいて選び損ねたこともあったけれど、もう逃げ惑うことはないのだろう。
 胸板に添えていた手を作務衣へずらし、そっと握った。

「自由、ですか」
「はい。以前、かけられた言葉があって。ずっと私は自由な選択をしたんだと思い込んでいました。……でも違った」

 喜助はきつく抱きしめたまま。首肯くことなく黙って耳を傾ける。

「浦原さんの側でこうやって幸せを感じていることが、自由に生きることなんだって」

 埋めていた顔をひょこっと上げて喜助を見据えた。
 この世界に迷い込んでから。不安で圧し潰されそうだったけど、それも慣れると楽しいと思えた。気づいたらあなたと間接的に繋がっていて。それだけで満足だった。出逢ってしまってからはもっと知りたいと欲を覚えた。次第に、今はこれだけの幸せがあれば十分だと言い聞かせていた。けれど離れてみたら、あなたを求め続ける慾深い女になっていて。
 いつしか最後には、至福を抱きしめながら傍にいたいと願うようになった。だから、自ら慾望の連鎖を断ち切って。全てを消し、始まりへ戻した結果、結局何も変わらずにあなただけを求め続けていた。張り裂けた胸を縫い繋げるように、甘い甘い記憶へ縋っていた。

 ──それをなかったことになんて、もうしない。

 一体どれが双方にとっての幸せで、何をしたら正解だったのか。
 そうやって論じ続けた幸福の自由は、今この瞬間に在って。

「えっとなので……自由に生きていくには、浦原さんとの幸せが必要かなーって思いまして……」

 一人で持論を展開したように口走ってしまい語尾が萎む。

「でしたらあなたがいないとボクの理論も成り立たない。これで同じ幸せをわかち合えますかね」

 柔らかな声色で告げられ。同じように眦を垂らして微笑み返した。

「……はい、幸せも哀しみもわかち合うことができて、隔たりなんて何もなかったです」
「良かった。そうやってあなたには隣で笑っていて欲しい」

 まったりと喜助が安堵の表情を浮かべた直後、突然何かに閃いたような顔をして抱いていた腕を緩めた。傾げながらこちらの顔を覗く。

「あー……でもちょっといいっスか」
「……? ええ、はい」

 空いた隙間に少しだけ距離を取った。なんだろうと喜助の顔を窺う。

「そのかけられた言葉って、尸魂界から帰る間際のアレっスか。五番隊での」
「ああ、よく憶えてますね。以前、平子さんにかけていただいた言葉で」
「あーそうっスか」
「それがどうかしまし」
「なるほど、人の腕に抱かれながら他の男の言葉を思い浮かべてた訳っスねぇ」
「えっあ、いや、そんな事は全然考えてなくて、言葉は確かに平子さんなんですけど、あ……」

 喜助は悪戯っぽく口端を吊り上げたかと思うと、「へぇ、二度も名前を言いますかぁ」と冷ややかに言い連ねた。これはまずいと不穏を察知して、黒目を右往左往と対処に迷った。

「言いましたよね? ……あんまり素直すぎるのも時に罪だって」

 思わぬ低音に「ちっ違うんです、私が言いたいのは──」と荒げた途端、喜助はふっ、と吹き出した。思い違いの齟齬を正せず、困り果てたまま喜助を見る。

「はは、すみません。少々お遊びが過ぎました」
「お、遊び……!?」
「まあ彼にも思い当たる節があったようですし、ボクとしてもそれには感謝していますから」
「平子さんとなにか話してたんですか?」
「……おや、名を呼ぶのは三度目っスかねぇ」
「あ。ごめんなさい、ほんとに悪気はなくて」
「本当に……あなただけですよ、こんなに引っ掻き回すのは」
「す、すみません……?」
「ゆかさんがアタシへの想いを囁いてくれたら良しとします」

 耳元で、と。喜助がそんな事を言うものだから図らずもくすくすと溢れ出た。余裕綽々に俯瞰して構えている彼が、そう思うととても微笑ましかった。そうしてこっそりと手を添える。お望みのように耳打ちで応えた。内緒話でもするように、身体中に犇めく情愛を、ひそひそと。

「わたし、喜助さんがだいすきなんですよ、他の誰よりも」
「……アラ、すっかり恥じらわなくなりましたか」
「ええー。だって言ったら許すって」
「まあ、こちらの想いの方がまさってますけどね」
「……ここで勝ち負けってありますか……」
「流石に想いの程度は測れませんが」

 にやりと彼は勝ち誇った笑みで近づいて。猫のように、すり、と頬を合わせた。甘美な頬擦り。この髭の感触があなたらしくて心地よくて、好きだ。なんて思っていると、耳元近くで囁かれた。

「だって僕はなによりあなたが愛しいですもん、」

 擦り合わせた頬に唇が触れて、小さく吸われた音が鳴る。

「この情を愛と云うのであれば、その上位概念かと」

 そう鼓膜を震わせて、喜助が縋り寄った。
 彼は得意げに甘ったるい口づけを落としていく。自分もそれに応えるべく小さく喰むと、どちらからともなく互いを貪った。暫く堪能したあと、ん……、と空気を吸って離す。

「……それは、愛って云うんですよ」

 ああ、と頷いた喜助は鼓膜へ直接届けるように唇を寄せてから、愛してる、とささめいた。その全てを聴き漏らすまいと瞳を閉じて、丁寧に紡がれた五文字を確と掬い上げる。
 そして、私もです、と目蓋を上げれば、三日月のように目を細める彼がいた。それは屈託のない、まるで、百余年前の彼が戻ってきたように柔らかく眩ゆい。

 こうして其々の慈愛を天秤に測るように論じ合い──。
 もし、幸せが視えたならどんな形だろう。
 もし、幸せが漂うならどんな馨りだろう。
 互いに溢れんばかりの恋慕を投げ合いながら、心で幸を描いてみれば。それは姿無く、どんな香気かも知れないけれど、確かに感じる。あなたがいるすぐ傍で、悠久を越えて在り続けると。
 蒲公英が伸びゆく方へ陽は当たるのだから。
 ああきっとこの瞬間が最果てだ。
 導かれた答えを確信したように微笑むと、二人でコツンとおでこをあてがって、くすりと声を上げた。

 そう此処が、あなたと私の幸福論の果て。



『幸福論の果てに』 第一幕 完
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