喧嘩別れした天パのいる町へ人事異動でUターンした社畜の話 | ナノ

シンクロニシティ


『……はぁ?店持ちたいだぁ?』

 大事なものが、目の前で音を立てて割れてしまったかのような。そんな表情をしていた。

『いやいや、無理だろ。お前、クレーム処理とか出来んの?』

 キラリと一筋、溶けだした氷に滴る雫よりも冷たい。だがそれは段々と、怒りが込もり熱を帯びてゆく。

『いつも俺の後ろに隠れてるだけのくせに』

食いしばるように言葉を捻り出す姿は、いつも安心し切った穏やかな視線を向けてくる彼女からはあまりにもかけ離れていた。

『銀さんなんか……ッ――――――!』



 便器の水洗レバーに手を伸ばし、大と表示されている手前へ引く。ジャーと水の音と共に流され便器の奥へ吸い込まれていくモノに連れられて、仕舞っていた記憶までも引き摺り出されている気がする。

(……ミスったなこりゃあ)

 初対面の女にゲロってる声を聞かれた、ということではない。初動を間違えた、という話だ。
 胃の中が空っぽになったところで俺が厠のドアを開けると、ちょうど店の入り口の格子戸をスライドする音が聞こえた。壁に隠れてチラリと店内の様子を覗き見るとボックス席にはあの女の姿はなく、こちらを振り返る婆さんと目が合った。

「……銀時」

 刺さる視線に思わず目を逸らしてしまう。後頭部を掻きながら、重い足をゆっくりと店内に運ぶ。

「アンタはもうちょっと器用な男だと思ってたんだけどねぇ」
「……いやぁ、うん」

 婆さんのいるボックス席には座らず、カウンター席の真ん中に座った。目が合わないように体を店の出口の方へ向けると、回転椅子がキキキ、と軋む。左肘でテーブルの上に頬杖を付くと、手のひらにしっとりと汗を感じて嫌になる。

「ったく、何しに店に来たんだい。せっかく人払いしてやったってのに」
「あぁ……そうだったのぉ?」
「これならキャサリンとたまに紹介してやったほうが、よっぽど有意義な時間になっただろうよ」

 ババアに見えていないことを良いことに、ぴくぴくと痙攣が止まらない口角を遠慮なく歪める。

「まぁ……うん、そうだね」
「このヘタレが」

 そこまでなんとか堰き止めていたものが、プツンと切れる音がした。

「……いや、いやいや。いやいやいや。あの、俺だってさ?色々考えてたわけよ?昨日あまりにもババアが『明日来んなよ』ってしつけぇから。あ、これは『押すなよ、絶対押すなよ?』は押すのが正解、っていうセオリーなんだと思ったよ?しかも最近になって急にあいつの私物引っ張り出して来てたし。あ、そういうことなんだって思ったよ?でもさぁ、昨日の今日って…急すぎんじゃん。何の心の準備もしてないじゃん。絶対前々からここに来るの決まってたわけじゃん。もうちょっと猶予くれても良くね?」

 いつかはこういう日が来る、とは漠然と思っていた。あいつと連絡を取り合っていることは知っていたから。一度ババア宛の小包が、留守だからといって二階に住んでいる俺に届けられたことがある。テキトーに理由をつけて断ったが、差出人はミョウジナマエ。住所は地球ではなかった。
 さすがに俺も、二人が音信不通だなんて事にはなっていないとは思っていた。しかし実際に自分が蚊帳の外にいることを実感すると、どうにもチリチリと心を削られる。それはまるで、乾いた唇にコンビニのおにぎりの海苔がくっ付いて、皮がベリっと持ってかれるような。そんな地味だけど痛烈な痛み。それが嫌だから、海苔のない塩むすびだとか炒飯おにぎりだとか、いっその事おにぎりをやめておはぎを選んでしまうという手もある。そうやって取捨選択して、意図的に記憶に蓋をするのは簡単だった。
 だからといって、やっぱり全くの『無』に返すことなんて不可能だ。海苔付きのおにぎりなんて、慣れ親しみ過ぎて根底に染み付いている。日常の節々で、やはり存在を思い知らされる瞬間というものがあるのだ。この間の新八との会話がいい例だろう……裏隣のアパートの話だ。些細な日常会話の中に、どうしてもナマエという存在を無しに語れない記憶が出て来てしまう。

「それで、緊張して飲みすぎたってのかい?」
「……う、うん……ソウデスね」
「歯切れの悪い男だね。いつもの口八丁はどこいっちまったんだい」

 もちろん酒の肴になるような良い思い出もある。しかし、やはり第一に頭を過ぎるのはアイツからの強い拒絶の言葉。最後に交わした一連の会話なのだ。肴にするには些か味が濃すぎる。

「……最後あんなに怒鳴り散らしちまったのに、今更どのツラ下げて会えってんだよ」
「アンタら、揃いも揃って似たようなこと言って……銀時、」

 開いてんだか閉じてんだかわかりゃあしない目で、刃物の様に鋭利な視線を真っ直ぐ突き刺してくる。

「人の過去やら、男女の仲に口挟むのは野暮かと思って、静観しちゃあいたがねぇ。これは過去の話じゃないよ、“今”の話だ」
「男女だあ?そんなんじゃねえだろ俺とあいつは。あいつは、アレだろ。今で言うキャサリン……いや違うか、たま?……いや、神楽ポジションだろ」
「もしそうなら、今すぐ神楽をウチで引き取ることになるんだけどねぇ」
「…………」

 何も言えなかった。俺はあいつのことを家族、ましてや親目線でなど見たことはない。その点が決定的に神楽とは異なる点だ。

「まぁ、何も深掘りしようってわけじゃないさ。ただね、銀時。あの子、綺麗になってたろう?」
「…………」
「黙り込んでんじゃないよ、まったく。青臭いガキみたいな反応して気持ち悪いったらありゃあしない」

 煩いと悪態をつくことも、違うと否定することも出来ないのは、それが事実だから。かといって肯定の言葉を口にするなんて事出来るわけがない。

―――本物だ―――、そう思うと、上手く取り繕うことができなくなった。戸を開けた瞬間、頑なに振り向こうとしないその華奢な後姿がピクリと強張ると、背中まで伸びた髪を揺らした。
 婆さんに投げる声が上擦りながら、どうせ目は合わないだろうという確信のもと、その女をマジマジと見た。下を向いていても分かる、懐かしい顔。しかし伸びた髪が以前よりも大人びた印象を纏わせ、知らない女の様にも見えてしまう。それは手の届かなかった期間の分だけ、知り合いから他人への振れ幅が大きくなったからかもしれない。

 正真正銘のガキだったのはナマエの方だっていうのに。初めて会ったのはまだ今の神楽ほどの歳の頃、あいつは俺よりも先にこのかぶき町にいた。



 ――――――しんしんと降り積もる雪が、道に散らした赤い花を上塗りしてくれたあの日。命辛々たどり着いた墓場で出会った婆さん。ひょんな事から、そいつの所有している店の二階に転がり込むことになった折、こう言われた。

『うちに住むってんなら、紹介しとかないといけない娘がいるんだよ――――――、』
 
 そして後日、暖簾の掛かっていない夕方のスナックの店内でそいつに会った。

「ミョウジナマエ……です……」

 尻すぼみの張りのない声でそう名乗ったのは、肩程までの長さの髪を後ろで一つに束ねた、まだ顔に若干のあどけなさが残る少女だった。
 一向に婆さんの背中から出てこようとせず、婆さんの着物の袂を掴み、顔を覗かせるようにしてこちらの様子を伺う。

「何隠れてんだいナマエ」
「……お登勢さん、」
「大丈夫だから、出ておいで」
「…………」

 不安そうに眉を顰めながら渋々、と言った様子で一歩前に出て来た。口は一文字に固く閉じ、その端は下降気味に歪んでいる。その表情はまるで猫に追いやられたネズミ。……蛇に睨まれた蛙?

「別に取って食いやしねぇよ」
「…………」
「ナマエ、こいつはウチの二階に住むことになった銀時ってんだよ」
「……え、」
「そーそー。坂田銀時だ。なに?嬢ちゃん、新参者は受け付けねぇ〜みてぇなそういうタチ?悪ぃな、急に転がり込んじまって」

 いや、散歩中の大型犬に出くわした犬が苦手なガキだ。それが一番しっくりくる。向けられているのは嫌悪というより、ただ漠然とした恐怖心だった。

「さ、紹介も済んだことだし仕込みを始めるかね。ナマエ、あんたは奥行って家の台所でエビの下処理してきておくれ。冷蔵庫に入ってるから」
「わかりました」

 店内奥の通路に消えていく彼女の背を見送った所で、婆さんが一本のタバコに火をつけた。

「すまないね。あの子、ちょっと訳ありでね」

 一口すうっと煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。それを皮切りに、ポツリと言葉を漏らし始める。

「あんたと似たようなもんだ。裏隣にボロい木造アパートがあるだろ。そこの大家が拾ってきたのさ」

 夜明け前、人のいない裏通り。そこに一人で倒れていたのたという。

「あたしが身なり整えるのに世話焼いたんだ。でも目覚ましたあの子は『逃げて来た』ってこと以外何も教えてくれなくてねぇ」
「ふーん」

 年端のいかない少女が一人で逃げて来た。それだけでいくつかの嫌な想像がつく。婆さんからもそれ以上は聞くなという圧を感じるし、そもそも聞くつもりもない。

「にしても、随分ビビられてんだけど。あれじゃあ顔に『男が怖いです〜』って書いて歩いてるようなもんじゃねえか」
「私もそこが心配でねぇ。あのままじゃあ、この辺で働き口探すのも厳しいだろう」

 まだこの街に来て日は浅いが、刀を差したゴロツキがいたり、気性の荒かったり目があっただけで喧嘩吹っ掛けてくる奴もいるのは事実だ。それを住みやすいと感じる奴も勿論いるだろうが、さっきの態度からして彼女が大腕を振って歩けるとはとても思えない。

「だから見ての通り、仕込みの手伝いやらしてんだよ。ウチはほとんど男しか飲みに来ないが、開店前なら客はいない」
「随分甘やかしてんな。それじゃあ一向に治るもんも治らねぇんじゃねえの?」

 見たところまだガキだから良いものの、大人になったらどうするのか。大人に守ってもらえる間は良いとして、今後自分の身を守れるのか。

「本人もそうは思っちゃいるだろうさ。だがね、そもそも“誰にでも”ってわけじゃないんだよ。これが厄介でね、裏の大家もジジイだが随分懐いてるんだ。あの子に『どういうヤツが怖いのか』って聞いてもみたんだけどねぇ。本人も曖昧らしくて、結局分からず仕舞いさ」

 そして何より、敵を前にして弱点を見せるだけでは飽き足らず、己自身がその弱みを見極められていないのが一番の問題だ。

「お登勢さん、エビの皮剥き終わりました」

 店の奥からひょこっと顔を覗かせるのは、先ほど俺へ向けてきたものとは大違いの柔和な笑みを浮かべた少女。

「あぁ、ありがとうねぇ」

 その笑顔こそが本来の彼女なのだろう。一目でわかるとおり、婆さんのことは信頼しているようだから。
 俺はカタリ、と音を立ててカウンター席から立ち上がり彼女のいる方へ歩いていく。近付いてくることに気づいた途端、ぴくりと肩を震わせて硬直した。
 先程の『無差別に男が怖いというわけでもない』という婆さんの話を参考にするならば、俺のことは大なり小なり怖いと思っているはず。しかしそれが初対面だからなのか、それとも年齢的な要因なのか、身長、体格。はたまた全部なのか。全く何も分かっちゃいないということなのだろう。

「なぁ、お前。ナマエ、つったな」
「……はい、」
「彼を知り、己を知れば、百戦殆うからず」
「……へ?」

 これは情報戦の重要性を説いてきたヅラの受け売りだ。作戦を無視して敵情視察を怠ったまま乱戦にもつれ込んだことがあった時、ブチ切れされた。『勝ったからよかったものの、そんな脳筋な戦い方で仲間を危険に晒すな』と。

「敵の事も自分の事も何もわからねぇ奴が、戦に勝てるわけねぇってこった」

 キョトン、とした表情でこちらを見上げてくる。その目からは恐怖が薄まり、今は疑問の色が濃く出ている。近付いて話しかけたからといって、逃げたり腰を抜かしたりするわけではない。
 やはり、恐怖心を感じる条件を本人が理解していないというのは危険だと思う。初対面の相手にはある程度、無意識に身構える癖があるんじゃないだろうか。しかしそれは逆に、敵に弱点を知らせているようなもの。正直、その盾を崩して油断させることも簡単に思えてしまう。

「要するに、だ。お前はまず自分の弱点を知るべきなんだよ」
「……弱点?」
「そ。どういう時に男が怖いと思うのか」
「…………」

 チラリと婆さんの方を確認するかのように一瞥を投げる。しかし何か言うことも慌てる様子もなく、すぐにこちらに視線を戻した。婆さんが自分の事情を話したと言うことを察したのだろう。

「それと同時に、男なんてしょうもないし大したことないって事を知るべきだ」
「……ど、どうやって?」

 何かを思い出すかのように、視線を床に落とした。そして胸の前で両手の拳をぎゅっと握りしめる。自分の身を守るような仕草に、不安な様子が伺える。
 可能性の道筋があるのなら、ただ悲観するのではなく抗うべきだ。ちと荒療治科もしれねぇが、男に慣れた方が良い。全く戦おうともせず殻に閉じこもってたら、いつか殻ごと砕き殺されるだろう。

「俺の後ろから見てれば良いんだよ。さっき婆さんの背中に隠れてたみてぇにな。一人も二人も変わりやしねぇ。だから、――――――



――――――婆さんを守るついでに、お前のことも守ってやる。

 俺はあの時ナマエに、確かにそう言った。

「銀時」

 低くしゃがれた声に意識を引き戻される。

「あんたはいつも、嫌な役回りを踏んじまう男だね」

 その声の主は紫煙を燻らせながら、斜め上の何もない空中に視線をやる。

「……悪かったね」
「……んだよ、気色悪い」
「男女間のことなんて、当人達にしかわからないこともある。あの日、アンタらがどんな会話をしたのかまでは知らない」
「………」
「でもねぇ、あたしゃあの日のおかげで安心して送り出すことができたんた。もうあの子は大丈夫だってね。怒鳴り声に言い返せるようにまでなったんだから」

 ババアの口ぶりからしても、俺達が喧嘩した夜の事は知っていたのだろう。そりゃあそうだ。絶対に外まで響いていた自信がある。内容まで聞こえていなかったとしても声の主が俺だという事はわかったはずだ。『うるせえ!』とクレームを入れに来てもおかしくないレベルだったのだから。
 しかし怒鳴り込んでくるどころか、その後日も、今の今まで何も聞いて来なかった。

「男が苦手だったあの子が、あんなにも強くなれたのは、間違いなくアンタのおかげなのさ。感謝してるよ」
「……別に誰のためでもねぇよ。思ったことを言ったまでだ」

 こぽり、こぽり。一度溢れ出した記憶の波が止まらない。

「あたしはねぇ、あの時のナマエには店を持つなんて無理だと思ってたのさ」

 俺の知らないところで計画……いや、伝えられたのは結果だけ。アイツは何の相談もなく、江戸からいなくなる事を決めた。“もう俺がいなくても大丈夫”、それはナマエにとっても俺にとっても喜ばしい事のはずなのに。

「どうせアンタも似たようなこと思ってたんだろ。それを代弁してくれたんじゃないかと思ってんのさ」

 大粒の涙を瞳から零し、怒気に混じった苦しそうな表情が忘れられない。その頬の雫をぬぐってやることはもう決して叶わない。

「でもねぇ、あたし等が思ってた以上にあの子は逞しくなってた。周りが必要以上に過保護になってた、それだけの話さね」

 それは紛れもなく過去に起きた現実で、今更その事実を変える事など出来ない。俺のせいで、記憶の中のナマエはずっと泣いたままなのだ。

「この件に関しては、銀時。アンタから折れてやらないと終わらないと思うけどね」
「……それさぁ、どうせアイツにも同じようなこと言ってんだろ?」
「あんただって、あたしから見りゃあまだまだ若いんだ。せっかく手ェ届くところに戻って来たんだから。砕けてみてもイイじゃないか」
「ねぇ砕ける前提なの?当たる工程はどこ行ったの?」
「何にせよ、ボサっとしてたら掻っ攫われちまうよ?……もうあの子を守るのは、あんただけの特権じゃないんだから」
「……俺に関係ねえだろその話」

 言われなくてもわかっている。今のアイツはもう、―――俺以外の男でも大丈夫なのだ。

「おや、そうかい。じゃああの子に男が出来たって言っても、気にしやしないんだね?」
「……っ!」

 ガタッと音を立てて、勢いよく椅子から立ち上がった。

(しまった……)

 目の前のババアは皺だらけの顔を更にしわくちゃにして、笑いを堪えるかのように喉の奥をくつくつと鳴らした。

「ちゃんと掴んでおかないと、本当に他の奴のもんになっちまうよ?アンタが特定の女も作らずにプラプラしてたのだって、」
「婆さん」

 それ以上言うのはやめろ。そんな意思を込めて言葉を遮った。

「もう俺には守らせちゃくれねぇよ。たぶんな」

 資格がどうのこうの言うつもりはないが、もう俺じゃない方が良いだろう。『守ってやる』なんて大口を叩いたのは紛れもなく自分なのに、今のこのザマは何だ。声を掛けられないどころか、正面から目を合わせることすら出来なかったのだから。
 どうでも良い奴であれば、「久しぶり〜」と軽い再会で済ませることができる。その相手にもし過去に自分が何かやらかしていたとしても「えーっと、どちら様でしたっけ?あーそうだそうだ、えっと…多串くんか〜元気してたぁ?」なんてスッとボケることも容易いはずなのに。
 
「そういえば、」

 わざとらしく間を開けて話す婆さんの方を見るのが嫌で、頬杖をついて顔をそらす。

「今夜、“すまいる”で客紹介してもらうって言ってたねぇ」

 その言葉に、思わずじろりと流し目で睨みつける。だが知らぬ存ぜぬ、何食わぬ顔をして婆さんは流し台で手を洗い始めた。

「さぁ、もう営業の時間だ。さっさと出てっておくれ」

 あんたの言う通り、男女間のことなんて当人達にしかわからないこともある。どろどろとした、黒く、純愛とは程遠い何か。それを思い出した今、アイツと会っても碌なことにならない。婆さんはその事をわかっていないのだ。

(2024.3.25)




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