Hello, My Loves

 覇気が収まっていく。アリアンスは力んでいた体から力が抜けていくように倒れ込んだ。そして、瞼を開ける。その眼はぼんやりとしたが、光を灯していた。
「夢から覚めたか?」
 硬い潜水艦の床に衝突するはずだった頭をローは支えた。アリアンスはローを見上げる。
「おかしいことを言うね。私は今から夢を見る」
 ポートガス・D・アリアンスは夢を語ったことはない。未だ嘗て、一度も。
「心は邪魔なんだ。だから、手放した。生きるために心があってはいけなかった」
 アリアンスは淡々と口にする。
「でも、私は心がほしい。でも、心は汚くて、雁字搦めで、でも、「もらったものは」全部覚えていて」
 アリアンスに非はあっただろうか。心を失わせて、愛を与えて、与えられた愛を理解しない子どもを憐んで、そして、その子どもは賢いがゆえに理解していた。覚えておかなければいけないことだ、と。ロシナンテがよく言っていたことをアリアンスは守っていた。
「全部覚えているけれど、苦しいんだ」
 アリアンスは嘘を言わない。忘れていれば幸せだったものを、アリアンスは己の賢さゆえに愚かにも己の首を絞めている。
「私、昔、ローに酷いこと言ったよね。名前のないあの子のこと」
 ローも覚えている。ローの妹を名乗り、アリアンスが殺した少女。その少女を殺した際に、アリアンスはローの責任について言及した。ただ、今はそんなことを気にしていない。その少女のことを引き摺っていないといえば嘘になる。
 ただ、記憶は薄れていく。鮮明なのは生者の存在。それはローの認めなくはないことだった。ただ、それは真実だ。
 ロシナンテの記憶もいつかは失われていく。ただ、ドフラミンゴがこの世界で高笑いをしているうちは、ロシナンテの記憶は薄れることはない。人の命の価値を明確に区別する怨敵。
 ただ、アリアンスは覚えている。
「私なんてただの人殺しのくせに」
 べちゃりと水音がした。ローは内出血とその顔色の悪さに目がいっていたが、美しかった手指はボロボロで指から血が流れ出ていた。
「そして、これからも人殺しだ」
 真っ赤に染まった手をそのままに、アリアンスは続ける。
「ずっと言っているだろう。お前はそのままでいい」
 何度も繰り返した言葉は変わらない。
 ローはあの時思ったのだ。フランベルジュの悪魔を初めて見たとき、心がないのに関わらず、それに苦しんでいた。もう、あの頃にはすでに代償を支払っていた。ローが憎むのは、ドフラミンゴのように人の命を虫けらのように扱う連中であり、心がないことを嘆きながら手を汚していた仲間ではない。
 ローの中でのアリアンスは何一つ変わっていないのに関わらず、アリアンスは目をパチパチとさせて、そして、緩やかな笑みを浮かべて尋ねた。
「私は重いよ。それでも良いのかい? ロー」
「ああ、構わねぇ」
 ローは静かに告げた。
 そんなことは承知の上だった。運命と才能に振り回され、古い時代と新しい時代を知っている。世界に、天に愛されて苦しむ冷徹な王の器。今まで通りの方が遥かに楽だ。心がなければ苦しむこともないのだから。ただ、今まで心亡き王として生きた代償として、これからアリアンスは苦しみ続けることになる。
 心がない方が幸せなのだろうか。その問いの答えをローは既に出している。
 たとえ、苦しい思いをしたとしても、悲しくて悔しくて涙を流したとしても、ドンキホーテ海賊団での冷酷に狡猾に過ごした日々よりも、ロシナンテとの旅を送っていた感情的な自分の方がローは好きだった。自由の海に出て、能天気な仲間たちに振り回される日々が楽しかった。
「コラさん、ロシナンテはお前に心を与えられなかったが、俺を生かすことによって、望みが叶った」
 それはロシナンテの意志。きっとロシナンテが生きていれば、欠片とて悲しい顔をせずにあの笑顔を浮かべて喜んでくれたこと。アリアンスの心は、ロシナンテがアリアンスに与えたかったもの。たとえアリアンスの苦しみに巻き込まれたとしても、ローは構わなかった。むしろ、ようやくロシナンテに恩が返すことができる。復讐では遂げられない価値がある。ロシナンテが心から喜んでくれるであろうことがローの目の前にあるのだ。
 その手を取らない理由はない。
「世間が狭いのか、私たちが世界の中心いたのか」
 アリアンスは笑った。あの北の海の島でアリアンスを拾ったことがDの運命だとすれば、Dの運命も悪くはない。
「お前が世界の中心に、分岐点に居合わせたのは間違いねぇ」
 海賊王に会い、海賊王の息子を取り上げ、その後は世界の中心にいた。ローはそれを拾った。最高のカードを手に入れ、ただのキングだったカードは赤く色づき、緩やかにハートの形を描き始めた。スペードのエースには敵わないが、決して弱くはないカード。ハートの海賊団にとってのコラソン。ローにとっての最高のカード。
 ローがコラソンになることはない。ローのコラソンは目の前に在る。
「ジョーカーを倒すための同盟は、元々の私のあるべき姿で今後も変わることはない」
 それは、白衣のアリアンスとフランベルジュの悪魔の共通のなすべきこと。ローとアリアンスの目指す場所は変わらない。
 ただその旅路の歩み方が変わるだけ。
「ただ、ロシナンテが死ぬと分かっていて見送ったことを、私は間違っていないと思っているけれど、「私」は後悔している」
「分かっていたのか」
 アリアンスは頷いた。アリアンスの本質は見聞色の覇気とそれで得た大量の情報を整理した上で収束させる神がかった頭脳だ。アリアンスはドフラミンゴと面識はないが、ドフラミンゴを追いかけていた海軍中将とは仲が良かった。その情報とロシナンテの情報でアリアンスは確率的に情報を収束させ、未来を弾き出した。
「ほら、心なき王でなくてはやっていけないだろう。世界に必要な死を私は許容しなくてはいけなかった。運命に抗うには、私は弱すぎた」
 やつれた顔に全てを諦めたかのように笑みを浮かべる。当時のアリアンスは、たとえ未来がわかっていたとしても、未来を変えることができない。その冷めた笑みがアリアンスらしくなかった。ローの知るアリアンスは、もっと純粋で天真爛漫で、本来ならこのような才能など持たない方が幸せに生きることができた。たとえその歩みの中で理解できなくなろうとも、愛されて育ったことがわかる我儘で、本来ならば誰よりも人に愛されて、誰より人を愛した。その笑顔は人を幸せにして、そして、本来ならばアリアンス自身が幸せになれるはずだった。
 ただ、ローが凄惨なフレバンスで一人生き残ってしまったように、世界はアリアンスにその生き方を運命を課した。王という言葉に、冷徹という言葉に程遠いアリアンスに、それを強いた。無垢な笑顔そのままに生きることを許さなかった。
「ロー、たくさん、ありがとう」
 アリアンスにしては酷く拙い言葉だった。その目に揺らぎを湛えたまま笑う。ただ、どんなに長い言葉よりも、アリアンスのその心は伝わる。マリンフォードに来る前よりもずっと。
「ドフラミンゴの心も私の心も救えなかったロシナンテは、最後に君の心を救うことができて。君はロシナンテに救われたと思っているだろうけれど」
 ローの中にはロシナンテに救われたことしかなかった。ロシナンテに関しては、ただそれだけ。
「ロシナンテだって君に救われた。君を救うことで、きっとロシナンテは救えない無力感から脱して死ぬことができた」
 心は繋がった。ロシナンテが繋げられなかった心をローが繋げた。ロシナンテが救った命をアリアンスも救った。糸よりも太く、実体を持たない繋がり。
「ロー、君がいたから、ロシナンテが君に出会えたから、私はロシナンテを見送った私を、たとえ後悔はしていても赦すことができる」
 アリアンスの中ではきっと美しい終わりなのだろう。ただ、それでもローの中ではあの日は美しい物語では終わらない。ローの物語の終焉に向けて手に入れたカードがアリアンスであり、ローはそのカードをまだ切ってはいない。
「だが、殺したのは」
 もし、ジョーカーがアリアンスのように心がなければ、ただの子悪党であればローも何も思わない。ローの師であり、ローを受け入れた人間であり、恩人を、ローを殺そうとした人間であり、どこまでも海賊らしい悪のカリスマ。
「ジョーカー」
 そして、フランベルジュの悪魔の敵。アリアンスの言葉には何の感情も籠っていない。しかし、それでも構わなかった。アリアンスが復讐を望まなくとも、アリアンスはフランベルジュの悪魔だ。目的は一致する。
「私は海軍の情報を中心に集める。今までも集めてきたけれど、本格的に」
 ジョーカーの糸は至る所に張り巡らせられている。当然、海軍内部にも。逆にいえば、海軍内部を探ることで糸の出先や糸の張り巡らせ方からジョーカーの意図は探ることができる。蜘蛛のような糸は双刃の剣だ。
「俺は闇社会を当たる」
 何のためになどとは言わなくても良い。二人は同盟関係だ。世界は変わる。まずは海軍が変わる。そうなれば世界は動かざるを得ない。
 嘗て世界を憎悪した二人は自由を手にして、世界に張り巡らされた闇の糸を断ち切るために動き出す。コラソンとハートの海賊団。その強固な繋がりの下で二人は戦う。
 そのためには準備が必要だ。しかし、目下必要なものは目の前にある。
「点滴打つぞ。栄養失調にはなっていなかったとしても、脱水症状にはなっている」
 空腹で吐く物もなくただ唾を吐き続けていた。落ち着いたならばすぐに治療だ。対処は早ければ早いほうが良い。
「ああ、まだ何か口に入れたらそのまま吐きそうだ。そうしてよ」
 力を入れているがアリアンスは立ち上がれないようだった。砲弾を投げていた人間が情けない、と思いながらローは溜息を吐き、仕方なくしゃがみ込み、背を向けた。ありがとう、と小さな声がローの耳元をくすぐった。
「重ぇよ」
 男にしては柔らく、女にしては硬い肢体。ローの首に力なく垂れ下がる手は女にしては骨張っていて男にしては柔らかく滑らかで、細く長い。どこにでもあるような髪と眼の色彩。ローは女にも男にもそれほど興味はなく、人間の容姿にも拘らない方である。それでも、アリアンスは人に愛されるために生まれたかのような容姿をしているかのように思えた。
「言っただろう」
 ローの耳元でくすくすと笑い声が聞こえた。



 十六回の鐘が鳴る。死した人々を弔い、時代の終わりと始まりを告げる鐘が鳴る。その姿は麦わら帽子と共に世界を駆け巡る。
 崩壊したマリンフォードにある元海軍本部。そこに座るのはセンゴク「元」元帥。
「アリアンスを覚えているか?」
 センゴクの隣に座るのは監査局長。
 監査局長は当然です、と答えた。今や最悪の世代と呼ばれている嘗ての子どもは、あの日、このマリンフォードにやってきたという。
「北の海で、あの子が指揮権を奪い、自ら撤退戦の指揮を執ったことがあった」
 アリアンスに軍略を伝授したのは智将センゴク。そのセンゴクをも驚くほどにアリアンスは軍略との相性がよかった。当時から卓越した身体能力を持っていたため、アリアンスの才能の偏りについて気がついていたのはそれを伝授したセンゴク本人。アリアンスの才能は指揮能力や指導力、つまりは支配者としての能力が傑出している。
 ガープは最後までアリアンスよりも優れていたが、センゴクは違う。伝授した軍略についてはアリアンスの才能に畏れを抱いた。
 ただ、その才能を腐らせるわけにはいかない。故に、センゴクはアリアンスをただの軍医にはしなかった。ガープに言えば猛反対されただろうが、ガープは秘匿された階級などには興味を持たないため、隠し通せることをセンゴクは理解していた。
「報告書と伝聞でしか知らないが、華麗だった」
 中将権限で指揮権を奪ったアリアンスは、誰一人死なせることなく撤退させた。そして、形勢を立て直して最終的に攻めへと転じ、その元凶を叩いた。
「私も歳をとった。その結果がこれだ」
 世界の中心、猛者の集う中で多くの人の命を救った若き海兵。そして、それを繋いで戦いを終わらせた赤髪。海賊王の伝説の時代は終わり、新たな扉が開いた。センゴクも何もしなかったわけではない。ただ、あの時、人の命を救ったのは若き海兵。
「アリアンスは、肩書きや立場がわからないわけではありませんが、あくまでも要素の一つとしか見ません。そういう時代がくるということです。その最たるものが麦わらでしょう」
 次々と味方を増やしていった麦わら。ガープの孫。革命軍ドラゴンの息子。そして、アリアンスの書類上の甥。新しい時代の象徴。
 ガープも全くその気がないわけではなかったが、海軍と海賊は明確に分けていた。所詮己と同様に過去の時代の人間なのだ。
 しかし、時代を越えた人間はいる。
「監査局長、お前もそうだろう」
「なんのことでしょう」
 監査局長はカラカラと笑う。
「私は海賊にも革命軍にも、海軍の情報を渡したことは一度もありませんよ」
 それは海賊や革命軍に協力者がいるということを指し示していた。それがわからないセンゴクではない。いけしゃあしゃあと宣う監査局長に溜息を吐く。センゴクとて、アリアンスの動向は見ていたので、監査局長とアリアンスが繋がっていることなど気がついている。
「結局、ガープの系譜が正しいということか」
 センゴクは皮肉にも仏と呼ばれた己の最後の仕事が非道な戦いだったこと、それについて何も思わないわけではない。ただ、人身売買の黙認など、己が仏とは呼べない所業をおこなってきたことを自覚していた。だから、相応の終わり方であると思っていた。ただ、ガープの系譜は違う。弟を守って死んだエース、兄を助けるために走った麦わら、戦争の終わりを叫んだ若き海兵。
 ガープは気がついていないが、いくらセンゴクがアリアンスと長く過ごそうとも、アリアンスの面倒を見ようとも、アリアンスはセンゴクに対して明確に一線を引いていた。まるで己に染まらないとでもいうように。
 Dは数奇な運命を辿る。



 何ヶ月が経過しただろうか。機を見てハートの海賊団は動き始めた。殺すことが目的ではない戦いは困難を極めた。アリアンスは上手く賞金首を分断するのに奔走し、強敵と戦うのはローだけだった。そうして得ることのできた心臓百個を海軍本部の桟橋に置いてやれば、案の定、海兵たちは狼狽えた。しかし、背後からやってきた海兵は違った。
「アリアンスちゃん」
 やや年配の海兵たちが桟橋にやってきた。揃いも揃って海軍将校だ。威圧感はあるが敵意はない。特に意味もない笑顔を浮かべながら、近づいてくる。アリアンスもパッと顔を上げ、剃を使って将校たちの前に現れた。
 心臓百個の時点で穏便も何もないのだが、なるべく何事もなく済ませようとしたローの目論見は失敗に終わる。ローの中ではアリアンスを下船させるかどうか迷ったが、ここはアリアンスにとっては実家のようなもの。下船させないのもどうかとも思い、唯一の同行者に指定した。
「あ、丁度よかった。久しぶり。ガープいる?」
 他のクルーの下船を許さなくて正解だった、とローは思った。億越えの賞金首は挨拶も碌にしない。
「大人になっても変わらないな、お前」
「こっちに帰ってくるなら連絡くらいよこせよ。みんなで集まったのに」
 海兵たちは大きくなった、などと呑気に言いながらまるで子どもを相手にするかのように柔らかな髪を撫でる。アリアンスは屈託のない笑顔を浮かべてそれに応える。
 ローはアリアンスが今でも愛されていることを知った。それまでは、本当に一部の特殊な海兵のみだと思っていた。当然だ。正義を背負う彼らが海賊に気を許すことなどないのだ。
「いや、普通に海賊だからさ。それに、帰省しにきたわけじゃなくて、一応私はお付きの人だから。メインはロー。私のキャプテン」
 そうだったな、などと呑気に笑う彼らにローは僅かばかり苛立ちを覚えた。彼らにとって、ハートの海賊団はいつでも潰すことができるようなものだと思われていると感じたからだ。
「お前さあ、誰かの下にちゃんと付けるのか? ちゃんと海賊やれているのか? 大丈夫なのか?」
 しかし、すぐに怒りは氷塊する。本当に愛されているのだ。この王の器は。自由奔放な性格を含めて全てを受け入れられて、愛されてきた。そして、それは今も同じこと。
 海兵が小柄とはいえ、二メートル近いアリアンスの頭を撫でる。たとえ海賊になったとしても、彼らにとっては「可愛いアリアンス」なのだ。
「大丈夫。お利口さんにしているよ」
「してねぇだろ」
 いけしゃあしゃあと、という言葉が役に似合うその言い方に、思わず言葉が飛び出す。海兵の話に首を突っ込むつもりはなかったが、流石のローも黙っていられなかったのだ。ハートの海賊団一のトラブルメーカー。お利口さんなんて言葉と程遠いクルー。
「トラファルガー・ロー、その不健康な顔はアリアンスちゃんのせいか? 悪いな」
「違ぇよ」
 微妙に失礼なところがアリアンスのせいなのか、このせいでアリアンスが失礼なのかローにはわからないが、どうでもよかった。アリアンスどころか、面識も何もないローに対しても海兵たちは友好的だ。それはローに理由はない。ただ、ローがアリアンスの船長だったから。それだけ、アリアンスは愛されている。
「それは良かった。海軍総出でどうしようもなかった性格だ」
 その言葉に、流石のローも一体何をしていたんだと問いたくなったが、出会った頃のアリアンスのまさに理不尽の権化のような性格を忘れたわけではない。アリアンスもローも良くも悪くも大人になった。今も切れ味の良いナイフを振り回す四歳児というところは変わらないが。
 そこで堂々と歩いてくる一人の海軍将校がいた。
「ガープ」
 ローとて知らないわけではない。海軍の伝説。アリアンスを救い、養父となった男。顔くらいならば知っている。そして、アリアンスに並外れた戦闘技術と無鉄砲な手法を与えた人物。
 海兵たちが道を開けていく。開かれた視界に残されたのはアリアンスとローだけだった。
 ガープはアリアンスに近づくと、無抵抗のアリアンスの胸倉を掴みそのまま片手で持ち上げた。小さく悲鳴を上げる海兵もいたが、ほとんどが溜息を吐いている。ローはそれだけで子ども時代のアリアンスとガープの関係を察してしまった。
「何故、貴様も海兵をやめた。センゴクから、わしから、まだ何かを奪うつもりか」
「私がこの手で救った命を殺したのがセンゴクでしょ。見殺しにしたのはガープ」
 穏やかなアリアンスとは思えないような感情のある強い口調だった。アリアンスを知っているローは驚かなかったが、ガープは狼狽えてアリアンスを地面に下ろした。
「でも、私も姉様との約束を守れなかった」
 アリアンスはガープを睨み上げる。
「トラファルガー・ロー、貴様」
 ローはまさか己に怒りの矛先が向けられるとは思っていなかったため、顔には出さないものの驚いた。ローは責められる所以はない。可愛がっていた養子を海賊にしたと思われているとしたら冤罪だ、とローは思った。
「暑苦しいのに巻き込むな。船に勝手に乗ってきたのはこいつだ。俺は関係ねぇし、俺はてめぇに話すことなどないが、こいつはある」
 ローは諍いを起こしたくはなかったため、淡々とそう言った。
 ローはアリアンスに海賊になるように誘ったことはない。ただ、認めただけである。そして、アリアンスは変わった。
「私を殺す機会なんて、いくらでもあった。たとえ、私が殺されないように振る舞っていたとしても、私は弱かった」
 周囲がどよめく。アリアンスが海軍で育てられなければなかった経緯を知っている者はごく僅からしい。感情的なアリアンスの声。
 飄々と振る舞うアリアンスにはなかったもの。
「私が取り上げたあの子のこと、見殺しにした。それだけは自分自身を恨んでいるし、ガープのことも恨んでいる」
 ガープが目を見開く。「あの子」が誰を指していることかのかは、ガープ以外ではローしかわからないらしい。アリアンスが取り上げた、まさかその年齢が四歳などとは誰も思わないだろう。
 ポートガス・D・エースを取り上げたアリアンス。エースの出生に関わった人間で唯一存命なのはアリアンスだけだ。
 周囲がわずかに騒ついているのは、「見殺し」という言葉だろう、とローは思った。アリアンスはセンゴクとガープに育てられたと言っていたが、多くの時を過ごしたセンゴクよりもガープを慕っていたことにローラ勘づいていた。海軍の英雄でありながら、中将に留まる。そして、アリアンスが好む性格。「見殺し」などという言葉の似合わない海兵なのだろう。
 それだけ、海軍が見殺しにしてきた無辜の民が多いということだが。
 フレバンスやオハラのように。
 ただ、同時にアリアンスは海軍に生かされた。そして、それだけではない。今のアリアンスはそれを理解している。
「でも、生きていたから、みんなに会えた。たくさんの人に愛してもらえた。ありがとう、ガープ」
 ガープは度肝を抜かれたかのような顔をしていた。ローは、場違いながらアリアンスが何年前かに自ら言っていた「私、多分行儀は良いけど礼儀はないから」という要らない自己申告を思い出していた。
「私は、ガープよりも長生きするから、安心してよ」
 アリアンスははっきりとそう言い切った。
 アリアンスが唯一エースに勝てることはそれくらいしかない、とアリアンス自身が言っていたことをローは思い出した。生き延びて生き延びて、笑顔で海を旅して、死に際を看取るくらいしか、エースには勝てないさ、と。
 ガープは目を見開いた。ローは知らなかったが、アリアンスは知っていたのだろう。ローは知らなかった。ただ、己の救った宿敵の若き息子の死を、この老兵が悔いていることをローは悟った。
「どの口が言うか、海賊が」
「あの子も私もルフィも海賊で、義兄様は革命軍。どう考えても、ぜーんぶガープのせいだよ」
 売り文句に買い文句。まるで子どものようなやりとり。ローはセンゴクのことは知らないが、このガープの影響をアリアンスが色濃く受けたことは理解した。
「アリアンス」
 ガープがおそらく彼にしては真面目な声でアリアンスの名を呼ぶ。アリアンスを目をパチパチさせてガープを見上げた。
「お主は聞けなかったかもしれん。あやつの人生にお主はいなかった。ただ、あやつは、死ぬのが惜しいと最期に言った。あやつとお主は似ておる。そのあやつが己を救わんと集まる人を見てそう言いよった。そんな人生を送った」
 ローは見ていた。たった一人の命が戦争を起こした。それだけ憎まれていたのか。ローは白ひげ海賊団を見ている。ゆえに知っている。
 ポートガス・D・エースの死は、時代の終わりだけを意味していたのではない。彼の短い人生はそれだけ人に愛される人生だった、と。
「アリアンス、あやつの人生を哀れむな」
「知ってるよ、ガープ」
 アリアンスにしては酷く低い声だった。天性の穏やかな低い声ではなく、地を這うような低い声。
「私は知っている」
 そう言いながらアリアンスはガープを睨み上げる。ガープはアリアンスから目を逸らし、再び口を開いた。
「センゴクには会わないのか?」
 アリアンスの育ての親はセンゴク。海に出ていることが多いらしいガープよりもここにいる可能性は高い。しかし、アリアンスはガープを呼んだ。当然、アリアンスはガープが海軍本部に戻ってきていることくらい知っていたこともあるだろうが。
「ガープ相手に正気を保っていられるのがやっとだから」
 覇気はない。アリアンスは武装色と見聞色に関しては比類なき精度を持っているが、覇王色に関しては抑えることしかできない。覇王色の覇気は全く漏れ出していないが、それは抑え込んでいるからなのだろう。
「私は怒っているんだ」
 怒りという感情から程遠いアリアンス。
「ガープはいいけど、センゴクは許さない。口も聞いてやらない。姉様を追い詰めて殺して、あの子のことも殺したんだ。そして、私には何も言わなかった」
 口を尖らせて顔を逸らす。不自然に幼い行動。それが演技ではないことはローは気が付いていた。むしろ、普段の年相応の姿こそ演技であり、本来のアリアンスは酷く幼い。
 甘え上手で我儘で素直な性格。それが本来のアリアンスの性格なのだろう。ベポに懐くことも、ベポが慕う理由もローは今ならわかる。生来の性格は二人とも似ているのだ。ただ、他のことがあまりにも違いすぎた。
「センゴクにも立場がある」
「私の心と姉様の命と愛されたあの子の命、センゴクの立場に釣り合うはずがないだろう」
 ローはアリアンスがセンゴクではなく、ガープを呼び出した理由をガープの表情から悟った。
「だから、あやつは地位を捨てた」
 歯を食いしばって、悔しさを辛さを全て噛み砕いて、それでもその全てを噛み砕き切れていない男がいた。
「それでも、許せないものは許せない。私は怒っている」
 アリアンスの怒気。荒い声。それに目を見開いたのはローだけではなく、海兵たちも同じだった。ローはアリアンスが怒っているたころを見たことがなかった。どんなにローに怒鳴られようとも、笑いながら火に油を注ぎのらりくらりと躱すのがアリアンスだ。それは昔も今も変わることはなかった。
「人の命と地位、どちらが大切だと思っているんだ。あの戦争で何を得た? 誰が救われた?」
 白衣を靡かせアリアンスは荒々しく続ける。
「私に許してほしいなら、私を殺せとセンゴクに言って。その手で、私を海賊王の息子を取り上げた人間だと公にして公開処刑して、それを育てたのは自分たち海兵で、結局裏切られて海賊になったところまて言ってくれたら許すよ」
 周囲が騒めく。ポートガス・D・アリアンス。海賊王の息子と同じ姓を持つ海軍の伝説の養子。訳ありであることくらいは、海兵たちもわかっていただろう。しかし、おそらくセンゴクとガープは沈黙を貫いていた。
 海兵たちの中には、海賊王に身内を殺された者もいるのだろう。ガープは海兵たちを睨みつけると、響めきは静寂に変わった。
「わしより長生きするんじゃなかったのか」
「だから、そんなことは起こり得ない。私はセンゴクを許さない。当然、サカズキも。そして、私は捕まることはない」
 白衣のアリアンス。大太刀を使うハートの海賊団の賞金首。ただ、そこにいたのは王の器。本物のフランベルジュを光の速さで抜き、ガープの喉元に突きつける。ゆらめく炎のような刀身。
 火拳と呼ばれたエースと同じ炎。
「あの頃とは違う。もう、私は世界に負けない」
 嘗て世界に、目の前の男に屈した小さな子どもはもういない。目の前の男の選択の先にあった新しい時代の一人。
 空気が張り詰める中、アリアンスは静かにフランベルジュを下ろして、鞘に収めた。
「ただ、あの日、私はあの子を抱えて餓死するはずだった。私たちを助けたガープは間違いだけど、私はガープの間違いに救われた」
 それだけを言って踵を返す。アリアンス、と強く名前を呼ぶガープの声。アリアンスは微笑む。そして、白衣を靡かせ振り返る。
「ガープの間違いが私が好きだ」
 ローもアリアンスと同じようにガープに目をやると、そこには今にも泣き出しそうな「父親」の姿があった。
「じゃあね、ガープ」
 アリアンスは早足で立ち去ろうとする。ローは溜息を吐いた。自分が言えた口ではないが、もっと素直になれば良いのに、と。
「ロー、心があると、生きるのが難しい」
 痛みを湛えた顔で笑う。濡れることなく乾いた目尻。理性が飛びかけた時ですら、その目尻は乾燥していた。
______幼い頃の自分や、麦わら屋のように泣くことができれば。
 泣くことのできない王の系譜をローは知らない。もし、会うことがあれば、それに最初に気がつくのは赤髪の海賊。アリアンスの中からロジャーとエースを見出すことのできる男。
「センゴクは許せない。でも、センゴクは私を……」
 世界はアリアンスを愛している。数奇な運命はアリアンスを生かし続ける。それはローも同じである。
「私もローも、世界に嫌われているね」
 ただ、世界はアリアンスにもローにも厳しかった。これは、ただそれだけの話だった。
「私は断頭台で笑うんだろうな」
 アリアンスは笑う。泣くことのできない王の器は笑うことしかできない。
「海軍はいつも間違っている。断頭台にのせるべき人間を間違える。ああ、私が死ぬということは、それには必ず意味がある。爪痕は残る。明確に」
 ゴール・D・ロジャー。ポートガス・D・エース。その死の爪痕は確りと残り、新たな時代が幕を開ける。その死には世界としては価値があり、ただ死とは尊い命が失われることと同義である。
 ポートガス・D・エースの死を確かにアリアンスは悲しんだ。しかし、アリアンスは王の器。
「そうはならねぇ」
 ローは噛み付くように言った。
 アリアンスは世界と己の命を天秤にかけて、世界に傾けば即座に自身を切り捨てることのできる人間だ。王の命は羽根よりも軽い。他人の命を躊躇いなく奪える公平な王の器が、己の命を失うことに躊躇うはずがない。
「たとえ、お前の死が世界にどれだけ意味があったとしても、俺の中でお前の命に勝るわかではないからな」
 アリアンスは目を見開いた。ローの言葉を疑うことはできないはずだ。アリアンスはローの本心を見透かす。だから、言葉にする必要などなかった。
 そんな世界でも、口にするということは、人の心を確実に動かす。エースの小さな声がアリアンスの心を取り戻すトリガーを引いたかのように。
「おい、アリアンス」
 アリアンスの体の重心が傾く。珍しい光景に驚きつつも、咄嗟にその腕を掴む。男にしても女にしても細いが、外科医の自分が触ってもどちらでもないようなアリアンスの腕。アリアンスが目を丸くして、重心を整えるとローは溜息を吐いて、手を離そうとした。
「腕、離さないで」
 ゆらゆらと揺れている眼がローの方を向く。誰よりも頼りになって誰よりも手のかかるローの仲間。
「船見えたら離すからな」
 こんな光景は他の仲間に見せるものではない。アリアンスの脆さを知るのは自分だけでいい。ベポたちやラッコですら知らなくても良いことだ、とローはそう思っていた。
「それならいいよ」
 心を満たすような笑顔を湛えてアリアンスは答える。
「ああ、そうだな」
 何もこの手を掴み取ることができたのは、何もローだけの力だとは彼も思っていない。凍てついた王の器の心を溶かしていったのはローだけではない。ローはそれほど自身の人格を過信していないし、仲間たちを信頼している。アリアンスの在り方を認めてきたのはローだけではないのだ。
 ポーラタング号では仲間が待っている。ローとアリアンスが戻れば、ハートの海賊団は全員揃う。
 スペードのエースが解き放った心を支えるのはハートの海賊団。



 時は淡々と過ぎていく。ローもアリアンスもなすべきことをなしながら、日々を過ごしていく。頂上戦争以降、アリアンスの睡眠時間は増え、昔ほど時間はなかったが、全くないわけではない。むしろ、情報共有のために話をする時間は増えた。
「ねぇ、もしもの話をしてもいいかい?」
 ありもしない話など、冷徹なアリアンスらしくない、とローは思った。ロー自身も好きではない。何も得るものもない話だからだ。ローはそんなことを考えながら、ソファーを見やる。
 ソファーで丸くなり、そのありきたりな色の眼を眠そうに閉じかけている姿は平凡そのものだ。
「珍しいな」
 ローですら、そのような話は好まないのだ。ただ、アリアンスが零した心にローは興味を持つ。
「もしも、エースが生まれたときに悪魔の実が、ローがいてくれたら、ルージュは死ななかったかもしれないと思って」
 消え入りそうな声はアリアンスらしくない。何かに縋るようにアリアンスは言葉を紡いだ。ローは医学書を閉じて立ち上がり、アリアンスに近づいた。
「もし俺がお前だったら、あの日、ヴェルゴに頼ってコラさんを殺されるようなヘマはしなかっただろうな」
 心に刺さった棘。ローにとっては当たり前のものでも、アリアンスにとっては捨てていたもの。アリアンスはその付き合い方に慣れていない。ローとて慣れたからといって、棘が刺さっていることには変わりはないが、淡々と思っていることを述べ、アリアンスの髪を軽く触った。この頃には、ロー自身認めたくはないが、アリアンスの甘え上手に絆されている自覚はしていた。
 十にも満たない間に命を失った妹に十分にしてやれなかったこと。
 アリアンスは目を閉じたまま、柔らかな笑みを浮かべた。
「ロシナンテはどちらにしろ、殺されていたよ。ドフラミンゴには敵わない」
「二十ヶ月も子どもを腹に入れておいて無事なはずがないだろう」
 アリアンスの言葉に間髪を容れずにローはそう返した。お互いにそれを言ったところで救われるわけではなく、言われずともわかっていることである。
「不毛だな」
「そうだ。本当に馬鹿馬鹿しい話だね」
 ローが切り捨てると、アリアンスは目を瞑ったまま笑った。
 もしもの世界など存在しない。二人に叩きつけられたのは事実だけ。ある医者は最初の患者、自分自身を治すことに成功し、ある医者は恩人である最初の患者を死なせた。ある子どもは判断を間違えて恩人の死の原因を作り、ある子どもは判断を間違えずに生き延びた。その事実は変わることなどないのだ。

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