キスがしたい
俺は今、すごくキスがしたい。
キスがしたくなる呪いにでも掛かってるんじゃないかってくらい、キスがしたい。そう思い始めたのは、映画のキスシーンを見て、キスは一人じゃ出来ないと気づいた時だ。セックスもそうだが、性処理は一人で出来る。でもキスは無理だろ。セックスもしてみたいが、何よりキスがしたい。キスから得られるものが何なのかを知りたい。洋画観てると絶対一度はキスする。実はすげぇ気持ちいいんじゃないか?
そんなことを考えながら自販機でジュースを買い、それを飲みながらぼんやり考えていると、そこにフラフラと同期の女子二人が通り掛かる。硝子は寮に向かって行き、残った彼女はこちらにやって来た。
「あれ、悟くん一人?」
「傑は別任務」
「そうなんだ」
彼女は自販機でカフェオレを買うと、それを開けて飲む。その血色の良いぷっくりとした柔らかそうな唇に釘付けになり、今すぐにでも齧り付きたくなる衝動に駆られる。特別、彼女とキスがしたいわけじゃないが、出来るならしたい。
「悟くん、考え事?」
「……オマエ、キスしたことある?」
「………………ない、けど」
かなり間があった。何の間なんだよと眉を顰めると、彼女は呆気に取られたように俺の顔をジッと見つめた後、何を考えているのか分からない、とでもいうように首を傾げていた。
「……なぁ、キスさせてくれない?」
こういうのは直接言った方がいい。変な奴だと思われるのは今更だ。だったら可能性に賭けて、頼めばさせてくれるかもしれない。そう考えて素直に頼むと、彼女は当惑して、軽くパニックになっているのか、目を泳がせている。
「ん?え、えぇ?ごめん、今、どういう話?」
「俺がキスしたくなったって話」
俺の言葉に彼女の頬が紅潮し、軽く唇を噛み、指を擦り合わせてモジモジして落ち着きがなくなった。
「そ、それって、私としたいってこと?」
「いや、誰でもいいんだけど」
「あ……そう」
急に冷静になって肩の力が抜けた彼女は、ふと息を吐く。それに選択ミスしたな、と感じた。きっと「オマエに<Lスしたくなった」と言った方が良かったんだろうが、もう遅いな。
「ダメ?」
「理由による」
「キスってどんな感じか、気になるから」
「つまり、ただの好奇心?」
「そう。キスで妊娠するわけでもないし、いいでしょ」
「うーん、クズの思想」
呆れたように肩を落とす彼女に、俺に好意でもあるのか。あるならキスさせてくれるだろうと考てていると、彼女は再び息を吐いて、言葉を続ける。
「キスって相手のことを想ってなければ、何の意味もないと思う」
「キスしたことないって言ってたろ、オマエ」
「そ、そうだけど……キスは愛情表現じゃない?そこに何の想いもなければ、良く感じることはないと思うんだけど」
「やってみなきゃ分かんないじゃん」
空き缶を術式で潰すと、彼女に一歩近づき、見下げる。再び目が泳ぎ始める彼女の頬に触れ、顔を上げさせる。頬を紅潮させ、俺から視線を逸らしては、緊張するように軽く下唇を噛んだ。
「ほ、本当にするの?」
「する」
「ぅ……」
覚悟を決めたように、彼女は目を瞑った。これって、いいってことだよな。俺はそっと彼女の血色の良い唇に親指を滑らせる。頬もそうだが、唇は異様に柔らかい。そこに唇を寄せ、俺は触れ合うだけのキスをする。
ただ、身体の一部が触れただけ。それが唇だというだけで特別に思うのは不思議だ。しかし、特別気持ち良いというわけでもない。
ちゅ、と唇に吸い付くと、彼女の身体はびくりと跳ね、開いた唇の隙間に舌を入れると、彼女は息を洩らす。
「は、ぁ……」
ファーストキスは、甘いカフェオレ味。
ぬらりと熱い舌を絡めると、彼女は俺の服の袖をギュッと握る。そっと目を開くと、見たことないくらい頬を紅潮させた彼女がおり、必死なのか、身体が少し震えている。唇を交差し、舌を絡ませながらも頬を指で撫でると、また身体が跳ねた。
あぁ、分かった。キスをしたくなる理由。やっぱり気持ちが良いんだな。性処理をする時のような快楽ではないが、支配欲が満たされ、身体が熱くなるような心地良さがある。
「ん、ぁ……」
やっと唇を離すと、彼女はヘロヘロと蕩けた表情で俺を見つめてくる。それが堪らなく気持ちいい。彼女の甘い吐息とその表情が可愛いと感じ、熱を持った頬を再び指で撫でると、その手に擦り寄るように首を動かし、ふと心を落ち着けるように小さく息を吐いた。
「……満足、した?」
「うん」
「そう……良かった」
彼女は力が抜けた俺の手から抜け出すと、ポケットから取り出したハンカチで口元を拭くと、それを裏返して、俺の口も拭いてきた。
「それじゃあね」
彼女は寮の方へと向かって行き、その小さな背が見えなくなると同時に、自身の鼓動が速くなっていることに気がついた。
***
「なぁ、キスしよ」
悟くんの好奇心から始まったあのキス。それから度々、彼はキスを迫ってくるようになった。
何を考えているかも分からない表情で、キスすることが当たり前だというように、ただ私の頬に触れ、満足するまでキスをする。
嬉しかった、優越感があった、満足だった、幸せだった。だって私は、悟くんが好きだから。だから、あの時も受け入れたんだ。彼に特別な感情がなくても、たまたまそこに居合わせただけだったとしても、私は彼のファーストキスの相手に選ばれて、私もファーストキスの相手が彼で満足だった。だからこそ、今は不安で仕方がない。
「今朝したでしょ?」
「何かしたくなったから。何、ダメなの?」
「……いいよ」
「ん、」
誰もいない教室で、彼は私の頬に触れてキスをする。深くて甘い、まだ何かを確認するようなキス。そういえば今朝は、ただ触れるだけのキスをしたんだっけ。そう思いながら彼に身を預けていると、頭がぼんやりするような、心地良い快楽に身体が熱くなる。
悟くんは満足したのか、唇が離れた。私は終わってしまったと目を開くと、まだ目と鼻の先に彼がいて視線が合った。つい恥ずかしくなって目を逸らすが、彼はジッと私の瞳を覗き込んでくる為、居心地が悪い。
「……な、に?」
「何でもない」
パッと私の頬から手を放して、前屈みになっていた体を起こすと、彼はん、と口を尖らせる。私が口を拭くのを待ってるんだと理解し、ハンカチを取り出して、彼の口を拭いてやると、何事もなかったかのように去って行った。
私は口元を拭きながら、私がキスを拒んだら、彼は他の人にキスを迫るんだろうかと不安になる。
いつも笑ったり怒ったり、ふざけたりと表情豊かではあるけれど、真面目なこともある。大抵は真面目に呪術のことを考えているから、参考に聞こうかなと思って訊ねると、キスのことを考えていたりする。この一件以来、悟くんが何を考えているのか、分からなくなってしまった。
数日後。数日間の遠征に出ていた悟くんは帰って来て早々、夜に寮部屋へやって来ては、開口一番「キスさせて」といつも通りの言葉を吐いた。でも、今はしたくない。理由は単純、昨日飲んだ珈琲で舌を火傷してしまったから。
「今日は、ちょっと……」
「何で?嫌になったの?」
「そ、そうじゃないんだけど、舌を火傷しちゃって」
「は?火傷?」
「珈琲で、舌を火傷しちゃって」
「んじゃ、舌入れないから」
「それなら、いいけど……」
そう言うと彼は堂々と部屋の中へと入って来ては、どかりとベッドに腰掛けた。私は部屋でするのは初めてだし、ベッドでキスをするのもな、と緊張しながら隣に座る。すると彼はそんな私の気持ちなどお構いなしに顔を覗き込んできては、ちゅ、と唇に吸いついてくる。私は好きだけど、これじゃあ気持ち良くないでしょ、と私はむず痒くなりながら、彼にキスをされる。何だか一方的で犬に舐められてるみたい、と感じるようになってしまった。
唇が離れて目を開けた時、悟くんと視線がぶつかる。
「何で、そんなにキスしたいの?」
「……キス、気持ちいいでしょ。嫌なの?」
「気持ちいいけど……」
私が拒むようなことを言うと、嫌なのかどうかを確認して来る辺り、私の意思を尊重してくれているのか、律儀だ。でも私達のこの関係は、エッチはしていないけれど、セフレのようで複雑だ。
「私がキスしたくないって言ったら、悟くんは他の人とキスするの?」
「は?するわけないだろ」
「そ、なの?」
「オマエが言ったんでしょ。何も想わなきゃ、気持ち良くないって」
それって、私を好きでいてくれてるってこと?とそれを口にしようとするが、彼は再びキスをしてくる。そして耐えられなかったのか、唇を舐めてきた為、ついそれに反応して口を開くと、舌が入り込んでくる。触れ合った舌先がヒリヒリする。つい身体が反応し、避ける動きをすると、彼はすぐ唇を離す。
「硝子に治してもらお」
「やだよ、キスする為に火傷を治してなんて……」
「久々に会えたのに……」
そう言って彼は私を抱きしめた。キスはしているのに、これほど密着したのは初めてだった。唇や手以外に彼の体温を全身で感じ、彼の匂いに包まれ、ドクドクと鼓動がいつもより速くなる。それと同時に、彼も同じくらい鼓動が速いことに気づく。あぁ、どうしよう……
「好き、悟くん」
「……うん」
そう小さく返事をすると、抱きしめる腕の力を強めた。彼の行動が全てを物語っている。あぁ、私は想われている。
「……本当は、セックスもしたい」
「今日は、ちょっと……その、シャワーも浴びてないし……」
「明日ならいいの?」
「う、うん……」
「……じゃあ、また明日」
彼はそっと離れると、私の頬を手で包み込み、優しく触れるだけのキスをして上機嫌に部屋を出て行った。
あぁ、本当に私はチョロい女なのかも。
***
キスがしたい。
そう彼女とのキスを思い出すとそわそわして、つい唇に触れてしまう。口寂しいとはこの事を言うのかと思いながら、キスであれだけ可愛いのに、セックスしたらどんな表情をするのか、と想像してしまう。
「何か考え事?」
傑と任務に向かう為、補助監督の運転する車に乗っては、ぼんやりと彼女のことを考えていると、隣にいた傑が話し掛けてきた。
「今日、セックスすんの」
「……は?」
「だから今日、涼華とセックスする約束したの」
いいっしょ、と自慢すると、傑は呆気にとられたように、目を丸くしている。
「待て。付き合ってたのか?」
「そうだけど。じゃないとセックスしないだろ」
「いつから?」
「あー……二週間前くらいから?毎日キスしてる」
「知らなかったな。というか、そんなアンニュイな感じで、涼華のこと考えてたのか」
「キスで気持ちいいのに、セックスしたら、どんだけだよって考えてた」
「……君の頭の中は分からないな」
いや、オマエの方が分からねぇわ。と思いながら、窓の外の景色を見る。
あぁ、早く帰って、彼女と──
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