いつか自分を好きになれたなら


 街に出れば毎年お決まりの極彩色に輝くイルミネーションと大きなクリスマスツリーが目に留まる。そして陽気なメロディーから始まるクリスマスソングが鼓膜を震わせる。
 十二月二十三日。クリスマスイヴを翌日に控え、一段と華やぐ街並みに人知れず溜息をもらした。例年、この季節になるとやれクリスマスケーキだ、チキンだ、プレゼントだとはしゃぎ回る菜々子達も今年ばかりは大人しい。待ちに待っていただろう冬休みを迎え、気分転換に買い物にでも出かけるかと思いきや部屋に閉じこもったまま出ても来ない。
 両手に抱えたのは、一応準備したクリスマス用の食材や三人分のプレゼントだ。いつもなら荷物持ちを買って出てくれる存在も今年はおらず、ああ、こんなに重たかったっけな、なんて胸の奥にちりつく痛みを覚えた。

 明日、十二月二十四日。夏油君は、高専相手に戦争をしかける。呪霊操術を術式とする夏油君らしくそれは百鬼夜行と呼ばれ、二級呪術師である私へも新宿への召集命令が下された。
 戦わなければならないのだろうか。彼本人でなくとも、彼が操る呪霊と。彼のおかげで嫌いだった自分の術式を利用されなくても済むようになったのに。
 愛用している呪具は、座敷の引き出しの中へしまってある。本来私の部屋だった二階の一室は、今や美々子、菜々子の部屋になっているから私物を置く事は出来なくなっていた。
 帰りの電車に揺られながらスマートフォンを手に取った。通知には、なんの連絡も入っていない。頭の中にかかった靄は消えないまま、ちりつく痛みだけを胸に残して姿を消してしまった彼を思い浮かべ、メッセージアプリを起動させた。

 ど、こ、に、い、る、の――ゆっくり打ち込んで直ぐに消す。

 何か伝えたい。連絡を取りたい。多分、帰って来てと言いたいのだ、私は。彼が帰ってきたところで、あの日の続きなんてまともに出来る気もしないのに。
 自然と指が動いていた。四文字打ち込んで、送る勇気もなくアプリを閉じる。電車は、ちょうどよく最寄り駅に到着した。アナウンスと同時にホームへ降りて、重い荷物を抱え一人帰路についた。



 乙骨憂太。特級過呪怨霊、折本里香に憑りつかれた僅か十六歳の少年の名だ。
 日本にたった三人しかいなかった特級呪術師の中に突如として入って来た四人目の規格外は、思っていた以上にひ弱で人のよさそうな顔をしていた。

 苗字名前の家から離れ、教団の私有地に身を置く事とした夏油は、沈む夕日を眺めながら明日の事を考えていた。思えば、あの日、五条を誘った事が全ての始まりであった。意を決して名前へプロポーズして、思いがけずしくじって、逃げるように飛び出して、溺れるように酒を煽った。記憶が完全に飛んでいたわけではない。理性だって手放してはいなかった。けれど、いつものように冷静でいられたかといえば答えは否だ。
 五条は、あの日内緒話をするように乙骨の解呪への手伝いを申し入れた。勿論、手当は弾むし、年若い有能な呪術師の将来のため、お前にしか頼めないんだ――なんて都合の良い口車に乗ってしまったものだと今更ながら自分を恥じる。
 美々子と菜々子には心配しないよう連絡を取った。名前には送る勇気がなかった。あの子達の事だからきっと名前に文面を見せるだとうと確信していたというのもある。
 立てた膝で頬杖をついた。考えるのは、明日見えるであろう特級過呪怨霊の事だ。聞けば、折本里香は、乙骨憂太の幼馴染が事故で亡くなり呪霊と化したのだという。人間の姿を失って尚、愛した存在と共にいたかったのか、考えいや待て、と口に蓋をした。呪ったのは、乙骨憂太側であったかな。

「なんにせよ」

 羨ましい話だ。年甲斐もなく嫉妬してしまうよ、乙骨憂太。
 あの日、渡せなかった指輪の入った箱は今も夏油の懐にある。もう不要となったかもしれないソレを手持無沙汰に指先で捏ねて、彼は諦めるように瞳を伏せた。
 名前からの着信に、出ていればよかったかな、なんて自分も随分と女々しいものだ。



 十二月二十四日。冬の曇り空から顔を覗かせる太陽が傾こうとしている。

「こんな形でクリスマスの新宿に来たくなかったんだけどー」
「菜々子、言い方」
「……なんで二人ともいるのかなぁ?」

 大規模な帳の降ろされた交差点、呪具を握り締めたまま背後の二人を振り返る。いつも通りの制服姿、寒空の元見るには寒々しいミニスカートから生足をさらけ出した女子中学生が二人。不貞腐れた様子でスマートフォンを操作する菜々子と、人形の首に巻かれた縄を握り締め姉妹を嗜める美々子。二人揃って私の質問に答える気は一切なく、暗い空を見渡してたった一人を捜している。
 本当は、この子達をこの地へ連れて来るつもりはなかった。そもそも今日、招集に応じるかもギリギリまで悩んでいたのだ。高専への入学を決めているとは言え、まだ等級すらついていない子供を連れて来るつもりは一切なかった。

「今からでも遅くないから家に帰らない?」
「いや」
「なんのためにここまでついて来たと思ってんの」
「だよね……」

 誰に似たのか見た目に反して頑固な面のあるこの子達は、私がいくら説得しようと意志を変える事はないだろう。
 痛む額を押さえ、夜蛾学長の言葉に耳を傾ける。前方には、第一陣として五条君の姿も見えた。彼の後ろ姿を見ていると先日の言葉を思い出す。
 後悔なんて――

「美々子、菜々子。帰る気がないならそれでいいけど、絶対私の後ろから出ちゃダメだからね」
「子供扱いすんなし」
「私達、来年には十六になるんだから」

 一瞬、周囲がざわついて一時沈黙が訪れる。空気が一変した。前方からは呪霊の大群が押し寄せて、大小様々、おぞましい姿をした異形が大きく口を開けている。
 私より年若い呪術師、年老いた呪術師、皆が対象呪霊目掛けて走り出す。目前には一体の呪霊が迫り、鋭い爪をこちらへ向けて伸ばした。咄嗟に地面を蹴り、その場を離れる。コンクリートが抉れ、穴が開く。二人の無事を確認しようと口を動かした瞬間走った痛みに、舞い上がった破片が頬を裂いたのだと気がついた。
 煙の向こうにあの子達がいるかは分からない。幸いにも呪霊の意識は私に向いていて、ぐるりと見渡す限り周囲に他の呪霊の姿もない。呪具を構えた。呪力を刃にのせて、柄を固く握りしめる。

 こんな大掛かりな実戦なんて何時ぶりだろう。嗚呼、私、やっぱり彼に守られていたんだな。

 突き刺した呪霊の身体が灰のように消えていく。階級はせいぜい準一級程だろうか。それなのに既に呼吸は荒く、全身を疲労感が襲う。
 動け。動け。あの子達を捜さないと。呪具を一旦鞘へと戻し、振り返る。煙は晴れた。周囲には怒号や悲鳴、破壊音が響いているけれど二人は無事だと信じて走り出そうとした時だ。
 真横からのストレート。呪力ののった一撃が私の左腕目掛けて繰り出された。咄嗟に呪具を盾に使ったおかげで直撃は避けられた。しかし、重い一撃は完全に油断していた私の身体を吹き飛ばすには充分だった。壁に衝突し、ガラスが割れ、降り注ぐ。痛い。全身が吃驚して呼吸を忘れたかのようだ。それでも腕を支えにその場を立ち上がる。ガラスを踏みしめながら元の位置へ戻ると、そこには見た事のない呪術師が立っていた。

「ごめんなさいね。まさかモロに入るなんて思わなかったモンだから」

 身長は多分、夏油君よりも高い。帳の闇の中でも映える金髪の髪をヘアバンドで後ろへ流した上半身裸の男性だ。人差し指を頬に押しあてて腰をくねらせる姿に面食らう。

「貴女の事は知ってるわ。傑ちゃんやあの子達から話は聞いてたから」
「え、あの、夏油君や美々子達とはどう言ったご関係で……?」
「あら、ヤッダ! そんな心配しなくてもいいのよォ! んもう、心配性ね」
「……話が微妙に噛み合ってない気がする」

 あまりの事に毒気を抜かれたと言うのが正しいのか。もはや呪具を構える事すら忘れてしまった。

「話通りのお人よしって感じね」
「え?」

 男性が地面を蹴った瞬間までは覚えている。ただ、今度は反応出来なかった。あまりにも早い一撃だったのだ。術式は使っていない。呪力ののった一撃でもなかった。ただの突き。それでも体格の良い男性の拳は、私の体勢を崩すには充分過ぎた。
 腹部に激痛が走り、またしても呼吸を忘れた。カハ、唾を吐くように口を大きく開けて身を屈める。無防備になった胸倉を掴まれ地面に叩きつけられた。脳が揺れて視界がぶれる。今にも吐きそうだ。

「安心して。殺す気はないのよ。ただ傑ちゃんに頼まれたから」
「は、あ……?」
「貴女がもしここに現れたのなら多少乱暴しても構わないから眠らせておいてくれですって。あ、菜々子達もね。あっちで寝てるから安心なさい」
「っ、あの子達に手ぇ上げたの!?」
「ンマ、怒るトコそこなわけ」

 男性は驚いたように何度か瞬きを繰り返すと、やがて呆れたように息を吐いた。私は、胸倉を掴む手から僅かに力が抜ける瞬間を見逃さなかった。自由な足で男性の側頭部へ向けて蹴りを繰り出す。無理な体勢で動いたものだから関節がひどく痛む。
 男性は、弾かれたように私から離れると楽しそうに口笛を吹いた。胸を隠すように貼られたハートマークを見せつけるように胸を張る姿は、どこか満足気にも見える。

「ンフ。ほーんと傑ちゃんの言った通りね」
「夏油君は、どこですか」
「聞くと思ったわ。でもね、私からは教えてあげない」
「っ、あなたねぇ!」
「どうせ私達は時間稼ぎだし、結構暴れたからそろそろいいいでしょう」

 語られる言葉はまるで独り言のようで、私からの返事を求めていない。その後も何かを呟いて男性は、にっこりと微笑み一方を指差した。
 最初に立っていた交差点の先、ビル群の中、ひと際大きな呪力出力を感じる。

「あそこにいるのはミゲル。私達家族の中で一番強くて傑ちゃんには負けるけど結構いい男よ」
「は、はあ……」
「戦っているのは誰だと思う?」

 五条君。
 まるでそこへ向かえと言われているかのようだった。辺りには呪霊の姿もなくて、男性は微笑みを絶やす事なく示した指を下ろす事もない。

「心配しなくても美々子と菜々子は元気よ。さっき気の弱そうな眼鏡スーツの男と揉めていたみたいだけどピンピンしてるわ」
「伊地知君だな……あとで謝らないと」
「マ、母親役が板につきすぎね。年齢より老けて見えるわよ」
「いいんですよ、別に」

 年を取っていようと、無理に善人ぶっているように見えようと、後輩から馬鹿にされようと、弱かろうと、我儘な子供達をちゃんと嗜める事が出来なくとも、それでもいい。
 我武者羅になって走った。身体中が痛みを訴え、息が上がる。それでも立ち止まる気はなくて呪霊の隙間を潜り抜け、ビルの階段を駆け上がる。待っていたかのように五条君は屋上の中心に立っていた。横には異国の男性が膝をついていたけれど、彼は気に留めた様子もなく、私の姿を認めて肩を竦ませる。片目だけ包帯を押しあげて、宝石のように煌めく六眼がすっと細くなったのが見えた。

「ご、じょ……君」

 最後の力を振り絞り、彼の元へ近づく。先程男性にされたように胸倉を掴んで、自分の方へ引き寄せた。

「ひでぇ顔」
「余裕、ない、の」
「弱いな、センパイ」

 何時の日か、春の晴れた空の元聞いたソレに似た言葉が頭上から降ってきていた。五条君が鼻で笑い、立ち上がれずにいる私の手を取ってくれるのは何時だって彼だけだった。
 五条君は無言のまま私の手を離すと、戦闘で傷ついたコンクリートの上に呪言を描く。そして両手を組んだ。

「後悔すんなよ」

 パン――両手を打ち鳴らす音が聞こえて身体が浮き上がる。景色が一変した。落ちる先、円状の帳の向こうに感じる呪力に目頭が熱くなる。あの時、送れなかった言葉が今、喉から這い出した。
 会いたい、会いたいよ、夏油君。都合が良くて、善人ぶっていて、あんまりだ。怒ってもらった方が多分、気持ちも楽になる。

 もう力なんてないと思っていたのに、人間糸が千切れれば無理だって出来るものなのだと今知った。崩壊した高専を横目に、瓦礫の中を駆けて、莫大な呪力の放出を目の前にした。
 見た事も感じた事もないような呪力の塊がぶつかり合う。私のような力のない呪術師でもどれほど危険なものか分かった。

「……ッ、なにして!」

 飛び出したのは無意識の内。驚いた表情をして、怒りを露わにした夏油君が見えた。少しだけ気持ちが楽になった。
 広げた両手を閉じ込めるように背後から抱きすくめられる。あまりの力強さに驚いて、散々傷付いた身体が痛んで、それで――視界は黒く塗りつぶされた。

20220101