善き人であれと云う


 今日は特に冷えるのに、彼、あんな薄着で出て行っちゃったな、大丈夫かな、風邪ひかなきゃいいけど。そうなる原因が自分だと分かっている筈なのに、混乱したまま現実に戻って来ることの出来ない頭は立派に現実逃避を続けている。
 夏油君が出て行って直ぐ、部屋へ入って来た菜々子が何か叫んでいたように思う。内容は覚えていないけれど、表情が怒っていた。美々子は不安そうに私と玄関の方角を見比べていた。申し訳なくは思うけれど、何も言葉を返せなくって無言のまま先程まで強く握りしめられていた己の手を見下ろした。
 なんと答えるのが正解だったのだろう。答えは見えかかっているのに薄い靄がかかっていてハッキリとしない。気が付くと日が昇り、外は明るくなっていた。座り込んだままいたせいで痺れる足が縺れる。すっかり冷たくなった廊下に出て玄関を見れば勿論そこには誰もいない。視線を逸らせたのは逃げだ。ただ、現実を直視したくなくて私は逃げるように浴室へ駆け込んだ。まだ大して温かくもなっていないシャワーを頭から浴びて目蓋を閉じる。

「朝ご飯の準備しなくっちゃ……」

 ご飯を炊いている暇なんてなかったから今日の朝食は、久々にパン食となった。食パンと目玉焼きとソーセージ、サラダ。美容に目覚めつつある菜々子のために冷蔵庫に余っていたフルーツを乗せたヨーグルトも用意した。何時もは寝惚け顔のまま、起こしにいくまで部屋を出て来ない二人も、今日は自主的に席についている。美々子が食パンを両手で持ち上げて一口噛り付く。その横で菜々子がサラダのレタスをフォークの先で突いた。二人とも満足に寝ていないのか目の下には薄っすらと隈が出来ている。
 何か言ってあげたい気もするし、そっとしておいた方がいいような気持ちにもなる。二人を前に、空いた隣席を視界に収めないようコーヒーの入ったカップに唇を寄せた。

「もう学校行く」
「全然食べてないじゃない」
「食欲ない。美々子は、どうする?」
「私は……もう少ししてから行く」
「ふぅん……あっそ」

 何時もなら遅刻ギリギリまで家にいる菜々子がこんなにも早く家を出るなんてこと、今までになかった。心情を察するには充分すぎる変化は、私の中の靄をますます濃くさせた。
 菜々子は教科書なんて大して入っていない鞄を手に家を出て行った。残された美々子は、どこか緊張した面持ちでヨーグルトに手を伸ばす。スプーンを口に運び、ゆっくりとテーブルへ置いた。

「ねえ、名前」
「なに?」
「夏油様、私たちが帰って来る頃にはもう家にいるよね?」

 どうだろうね。答えを声に出す事は出来なかった。縋り付くような目をした美々子は、無言のまま俯く私から何かを感じ取ったらしい。今にも泣きだしそうに瞳を揺らすと、先程の菜々子のように無言のまま部屋を飛び出して行った。
 今日ばかりは、玄関扉の閉まる音がやけに大きく響く。朝日の差し込む慣れ親しんだリビングも、今日はとても広く感じられた。

 夏油君は、その日も、翌日も、そのまた次の日も帰って来なかった。いよいよ不安になった時、美々子と菜々子のスマートフォンに一通だけ連絡が入った。
 しばらく家を空けるけど、名前の言う事を聞いて良い子にしていなさい。そんな夏油君らしい文面に二人は寂しさを隠す事なく肩を寄せ合い、瞳を伏せた。対して私のスマートフォンには何の連絡も入らない。それが、あの日に対する一種の答えのように思えた。



 十二月まであと数日となった十一月末日。高専に所属する二級以上の全呪術師に一斉連絡が入った。呪術高専二年生、乙骨憂太並び同級生三名と夏油傑が接触。呪術界へ向けて宣戦布告を申し入れたと言う。



 寒風の吹きすさぶ中、靴底が土を踏みしめる音が鼓膜を揺らす。上がる呼吸なんて気にしない。唇の隙間から吐いた白い息を風に流しながら高専敷地内を歩く私には、幾つもの好奇と嫌悪の視線が突き刺さった。
 夏油傑は、高専に所属していないけれど、日本にただ四人――数ある術式の中でも極めて特殊な呪霊操術の使い手として名を馳せている。彼が在学中に起こした騒ぎは、当時高専に所属していた呪術師ならば誰しもが知るところであり、彼とその養女たちと寝食を共にする私の存在も芋づる式に知られるようになっていた。だから影に身を潜めるようにして彼らが何を考え、口にしているのかなんて術式を使うまでもなく分かっている。
 そう、本来なら私に捕縛命令が出たっておかしくないのだ。それだけの事を、彼は、夏油傑はしたのだから。それにも関わらず私は、こうして自由なままこの土地を踏みしめている。何か裏がある事くらい馬鹿にだって分かると言うものだ。

 目当ての人物は、校庭へ降りる階段に座っていた。彼の目を覆う包帯の白に目を細めながらその横に立つ。視線の先には、連絡にあった乙骨憂太と思わしき少年と同級生達の姿があった。
 一瞬、春先の青く輝く若葉と高い青空を夢想した。差し出された手の大きさや感触、温もり、日差しの影になったあの表情が脳に焼き付いた。
 竹刀を手に鍛錬に励む彼らの姿と威勢の良い声は、在りし日の光景を思い出させるには充分すぎた。距離を保ち、その場に座り込む。五条君は小さく喉を鳴らして私の名前を呼んだ。

「怒ってるでしょ?」
「うん」
「僕が絡んでるって疑ってるわけだね」
「むしろこんな質の悪い冗談、五条君と夏油君以外誰がするって言うの」

 寒さにかじかむ手を拳にし、ぶつけようのない怒りをコートのポケットへと突っ込んだ。なおも五条君は笑うのを止めず、けれどふざけた雰囲気もなく言下に私の言葉を肯定してみせた。

「君、こうなったのは私にも責任があるなんて思ってるでしょう」
「……何が言いたいの」
「傲慢だって言ってんだよ、センパイ。僕ね、名前の事は嫌いじゃないよ。でもその無駄に責任感が強くて年上ぶるところは昔からムカついてたんだよね」
「ムカつくのは、勝手だけど……それと今回と何の関係があるって言うの」
「それだよそれ! 普通、こんな事言われたら腹立つだろ。歌姫だったら今頃怒鳴って殴りかかってきてるよ?」
「……」

 五条君は、そこでようやくこちらを振り向いた。包帯は外してない。それでも、布の向こうにある青い六眼は真っ直ぐに私を見据えていると確信していた。
 彼の長い指先が私の鼻先に刺さる。無下限呪術は解いているらしい。爪の先が軽く皮膚に喰い込む。

「忠告。仕事でもプライベートでもイイヒトぶるのは大概にしろよ。でなきゃいつか絶対後悔するぜ」

 それだけ告げて五条君は、静かに私から離れた。立ち上がって降りた先、白く改造された制服を着た少年に「憂太」と声をかける。
 夏油君は、乙骨憂太という少年に共に新しい世を作ろうと持ち掛けたのだと言う。日本で四人目となる特級呪術師の少年――彼は普通の子供だった。到底力なんてなさそうな弱々しさすら感じさせる僅か十六歳の子供。美々子や菜々子と一歳しか変わらない。そんな彼と、目が合った。気恥ずかしそうに会釈をして、パンダ君や他の同級生と何かを話している。
 段々、見ていられなくなった。逃げるように背を向けると、夏油君からあの言葉を告げられた日の事を思い出す。無性にやるせなくて速足に高専敷地内を飛び出した。
 電車の到着を待ちながら懐からスマートフォンを取り出して電話をかける。コール音が響くばかりで、いつまで経っても電話が繋がる事はなかった。



 ガーン。担任である五条と親し気に話していたから会釈したのに、逃げ出すようにその場を去られてしまった。
 女性のいた場所を見上げ、打ちひしがれる乙骨の肩にパンダの腕が乗せられる。パンダは大きな身体を小さく丸めるように身を屈めると乙骨の耳元へ唇を寄せた。

「あれは名前。悟の二個上でこの間侵入して来た夏油の、」
「はーい! 私語は終了ー!」

 パン、と両手を打ち鳴らし五条が二人の間へ入る。しかし、一度夏油の名前を耳にした乙骨の表情は強張る。あの日、乙骨の手を取り危険な思想を口にし、高専へ宣戦布告をした男。級友である禪院真希の事までも馬鹿にし、十二月二十四日に再度姿を見せると宣言した危険人物。そんな男とあの女性が関係あるだなんて――乙骨の思考は静かに混乱の兆しを見せていた。
 あーあ、だから教えたくなかったのに。五条は、親切心からか名前の存在を報せたパンダに内心溜息をつきながら後頭部をかいた。二十四日まであまり日にちはない。名前の事を教えたところで乙骨にとって何か特になるとも思えない。ならば、五条が言えるのは一つだけだ。

「名前もね、呪われてるんだよ」
「え、何に……」
「それはー」

 自分で考えな。きっと君が一番よく知っているはずだから。
 片手を振って、五条もその場を後にする事と決めた。今日はこのまま自習としよう。何分、五条悟は忙しいので。
 ふと、ポケットの中に仕舞われていたスマートフォンが着信を知らせた。電源をつけてみれば、それが着信でなく実際はメッセージだと気が付いて、彼は分かり切った内容の綴られた文面へ目を通した。

 本当、愛って呪いだ。

20211226