自分の足で立ちなさい


「なあ、一晩だけ名前の事かしてくんね?」

 何気ない会話のつもりであったが地雷を踏んでしまったようだ。
 頬のスレスレを突風が吹き抜けて背後の壁に穴が開く。ここは任務地。先程まで一級呪霊がうようよと蔓延っていた廃墟。壊したところで誰かが文句を言うわけでもないが、冒頭の発言をした五条悟は最近になってつけだした白い包帯を押し上げて「あらまー」と困ったようにして呟く。
 それも束の間、今度は胸倉を引き寄せられた。相手は五条よりも数センチほど身長が低いので、少しだけ腰を屈める形となった。
 しかし、こいつ――唯一無二の親友、夏油傑のキレ顔は怖い。元々人相の良い顔とは言えない夏油は、彼が心底憎む非術師を見るものよりも更に冷たい絶対零度の睨みを五条へ注いでいる。

「私の名前がなんだって?」
「はい?」
「私 の 名前 が な ん だ っ て」
「わあー、丁寧に一句ずつ区切ってくれてありがとー。てか、なに名前ってとうとうお前のモノになったわけ?」
「名前を物扱いするな!」
「ええ……」

 とりあえずこの掴んだ胸倉を離してもらいたい。そろそろ体勢もキツくなって来た。
 胸倉を離しても、夏油はまだ怒りが消えていないようだった。眉根を寄せたまま腕を組み、不機嫌丸出しで五条を睨み上げている。「で?」と夏油が先を促した。「それがさあ」と何事もなかったかのように五条が続ける。

「僕が今、たまに面倒見てる伏黒恵って知ってたっけ?」
「あの猿の息子だろう。それが」
「そうそう。その恵の義理の姉に津美紀って子がいてさ。恵の一個上で物分かりの良い優しい子なんだけど、どうにも僕相手だとまだ遠慮があるみたいなんだよね。まあ僕はこの通りGLGなわけだし、津美紀からしたら突然現れた格好いいお兄さんが弟に構ってるのが不安なんじゃないかな。僕としては恵を呪術師として教育、とまでは言わないけど強くなってくれさえすればいいわけよ。でも、恵に関わると必ず津美紀は関わって来る。僕としても小さな女の子を無碍には出来ないし、なんとかもうちょっと仲良くなっておきたいんだよね。そこで、」
「同性でその子と年齢の近い美々子と菜々子の世話もしている名前に手伝ってほしい、と言うことか。却下」

 長々と、五条にしては珍しく真面目に話したつもりだったのに夏油の対応は氷のように冷たい。
 しかし、ここで却下されるのは予想済みだ。非術師を嫌う夏油が、非術師で、しかも義理とは言えあの伏黒甚爾の娘の為にわざわざ名前を差し出す真似などする筈もない。
 そうとなれば残された手は一つしかない。嫌だなあ、性格悪いなあ、なんて微塵にも思っていないくせに、五条は心底申し訳なさそうな顔をして見せた。白銀の髪をかきあげるように片手で掴んで勿体つけたように首を横に振る。

「双子の娘を持つ傑なら分かってくれると思ったんだけどなあー有能な年若い呪術師をこのまま埋もれさせるのは忍びないなあー」
「……悟、君ね」
「あーあ、僕、頑張ったんだけどなー! 盤星教上層部の一斉摘発! その後の傑の教祖業の憂いまで上や警察へ手回し手伝ったのになー!」

 五条の奥の手が炸裂した。夏油は額に青筋を浮かべながらも震える拳をなんとか収めんと必死に我慢する。それでもなお、五条の煽りは止まらない。
 五条の口は回り続ける。同時に夏油の我慢の糸が今にもはち切れんばかりにプルプルと震え始めた。こうなった五条は、意地でも自分の意志を曲げない。夏油もまた物分かりの良い性格でもなかった。しかし、僅かに残った理性が落ち着けと冷静に語りかけて来るのも事実である。
 夏油は、米神を親指で摩りながら大きなため息をついて「じゃあ、こうしよう」と話を切り出す。

「一応、一応だよ。名前に聞いてみる。もし彼女が否と言ったらこの話はなしだ。いいな?」
「いいよ。じゃ、分かったらまた僕に連絡して」

 待ってるからね、そう言い残して五条は颯爽と廃墟を後にした。あれは、断られないと知っている顔だ。高専時代の四年間で培ったセンサーが見事にそれを拾い上げている。
 一人残された夏油は、最近購入した黒のSUVに背中を預け、最後の望みを託すべく懐のスマートフォンを取り出した。長年愛用していたガラパゴス携帯が寿命を迎えるのと同時に渋々購入したスマートフォンの通話履歴は、ほぼ一人の名前で埋まっている。たまに目に飛び込む五条や補助監督らの名前は視界から排除して、『名前』と書かれた文字を親指でタップした。

 そして現在。用件を伝え終え、名前からの返事を聞いた今、夏油は大きく舌打ちをした後、名前のやや下に表示されている五条へと電話を掛けるのだった。



 名前曰く、ちょうど今週なら空いていたしそのくらいならお安い御用らしい。
 夕方には家に帰って来る事が出来た夏油は、膝に美々子、菜々子両名を乗せたまま不満気に唇を尖らせる。すると美々子と菜々子も真似して唇を尖らせるので、名前が「こら」と小さく嗜めた。

「伏黒恵君だっけ? 五条君が目を掛けてるって事は有能な呪術師の卵なんでしょう。まだ小さいのに姉弟で二人暮らしなんて心配だし、様子を見て来るよ」

 名前の言う事は至極尤もで、成人した大人らしい正当性を持って聞こえる。一人靄を抱えたままでいるのは夏油で、家に帰る前に聞いた親友の高笑いを思い出すとどうにも納得出来そうになかった。
 菜々子が身体を前後に揺らしながら「ふしぐろってだれ」と不機嫌に呟く。その直後、美々子がぬいぐるみを抱きしめながら「五条……」と心底恨めしそうに呟いた。既に両手で数え切れない回数、五条に会っている二人だが、家入には懐いても五条にだけは懐こうとしなかった。五条がからかって来たり、養父である夏油に馴れ馴れしい態度を取る事が理由として挙げられる。
 勿論名前もそれを知っているから、彼女は肩を竦めるばかりで子供達二人へあえて返事をしようとはしなかった。代わりに夏油が事情を説明してやる事にする。六歳の二人は、育った特殊な環境故か人の機敏に敏感だ。特に夏油や名前の事となれば、直ぐに気がつく。
 二人が、視線を合わせ頷き合ったのを視界の端に収めてややこしくならなければいいが、と思った。自分を棚に上げている事実には目を背けたまま。

 夏油の無言の抵抗は週末まで続いたものの、ついぞ名前が折れる事はなかった。
 埼玉に在るという伏黒姉弟が住むアパートへ向けて出発した名前を見送り、誰もいない家を見渡した。そう、誰もいないのだ。美々子も菜々子も名前について行って、現在この家には夏油しかいない。
 盤星教への報復を終えてなお、もはや副業と化している教祖業も今日はない。夏油を慕い集まった呪術師達は、夏油にとっての新しい『家族』ではあるが、それぞれ個々の生活を送っているので休日に集まる事は殆どなかった。

 こんなフリーの日は久しぶりだ。かと言って特別する事もないし、さてどうしたものか。

 云々と悩みあぐねて、結局夏油も外出する事にした。非術師にはなるべく関わりたくないので、街まで出る事はしない。近隣を散歩して、夕飯の支度をしておこうと考えた。
 三人は、夕方には帰って来た。家までついて来た五条は、あの日の夏油のように一人唇を尖らせて、サングラス越しの大きな目を細めていた。誠に遺憾です。そう顔に書いてある。
 ズカズカと上がり込んで我が物顔でソファを占領した五条に、美々子と菜々子が食ってかかる。しかし、それに対する五条の対応にキレがない。何時もなら手加減をした上で二人を跳ね除けているのに、今は足を蹴られても背中を殴られても無言のまま、たまに舌打ちを溢すくらいだ。

「やめさせる?」
「いいよ。どうせ無下限を張っているさ。それより、アレどうしたの?」
「ああー」

 アレとして指差されたのは五条で、夕飯の支度のため台所へ引っ込んでいる夏油の背後、食器を並べる名前は視線を泳がせた。どうやら思い至る点があるらしい。

「恵君と、そのお姉ちゃんの津美紀ちゃんと会って来たじゃない?」
「うん」
「恵君は静かな子だったんだけど、津美紀ちゃんは人懐っこくてね。比較的すんなり話をしてくれたんだけどさ」
「うん」
「その……五条君が気にしてた事を聞いたら」
「うん」

 振り向いた夏油に向き直り、名前は意を決するようにして口を開いた。

「…………五条君の事、大事な弟を悪の道へ誘い込む裏組織の下っ端かと思っていたんだって」
「あー!! 名前、お前、それ傑には言うなって言っただろ!?」

 悪の道へ誘い込む組織の下っ端? 現代呪術界で最強と目されるあの五条悟が?
 あまりの事に内容を理解するまでに、それ相応の時間を要した。しかし、伏黒津美紀の心配も分からないでもない。一九〇を超える長身に白銀の髪にサングラス、真っ黒な服装。そんな見ず知らずの男が突然訪ねて来て弟を連れ回しているのだ。心配しない方がおかしい。むしろ、自分も幼いのに弟思いの良い子じゃないか。娘二人を抱える夏油は、相手が非術師であるにも関わらず素直に感心した。そうしてやがて、耐え切れなくなったように吹き出した。

「ぶっ、あは、ははははは! あの悟がっ、ヒッ、下っ端だって! 不審者! はあっ、おかしい」
「ちょうどテレビで特集番組見た直後でね、話しかける口調がそっくりだったもんだから余計疑われたみたいで」
「名前はもう口開くな! 傑も笑うな!」
「せっかく覚えた柔らかい口調が崩れてますよ五条先生? ぶふっ」
「傑、お前表出ろよ」
「一人で行きなよ寂しん坊」

 騒がしくなった台所を小さな頭が二つ、縦並びに覗き込んでいる。その頭を押して、その場を離れたのは名前で、痺れを切らした彼女が止めに入る三十分後まで親友二人の応酬は続いた。



 二〇〇九年九月。暦上は秋とは言えど、まだ茹だるような暑さの続く日に、赤色のランドセルが二つ並んで揺れていた。
 固く繋がれた手は、不安からなのか、それとも期待からなのか。お気に入りであるお揃いのワンピースに袖を通した美々子と菜々子は、ゆっくりとした足取りで目的地を目指している。
 後ろを歩く夏油と名前は、慣れないフォーマルな衣服に身を包み、たまに手の甲を擦り合わせながらその小さな背中を見つめていた。
 不安と心配。そればかりが胸中を占めている。

 世間一般で言う夏休み期間の後半、美々子と菜々子が小学校へ通ってみたいと言い出した。
 何がどう作用したのかは分からない。けれど、あの日、伏黒恵、津美紀に会ったのがきっかけである事は確かだ。それからは目まぐるしく日々が過ぎていった。地元小学校への編入方法なんて夏油は勿論名前だって知らなかった。市役所や学校、様々な方面への問い合わせや連絡、ややこしい手続きを終え、やっとの思いで今日に漕ぎつけた今、まさかこんな思いをする事になるとは思わなかった。
 季節外れの新入生。近年バラエティ豊かになったランドセルも、この中途半端な季節ではオーソドックスな赤色しか残っていなかった。けれど二人は何一つ文句を言わなかった。多分、伏黒家で見た津美紀のランドセルが赤色だったからだ。

 家から小学校までは大人の足で十五分。子供の足だともっとかかる。あまり遠くまで歩いた事のない小さな身体は、まるでランドセルに食われているようでひどく庇護欲をそそった。

「着いた」

 その一言を発したのが美々子であったのか、それとも菜々子であったのか、それすら判別がつかなかった。
 事前に連絡していた通り、四人連れ立って職員室へ赴き、担任になるという妙齢の女性教師と形式に則った挨拶と会話を交わす。非術師嫌いな夏油も、この日ばかりは上部に父親らしい笑みをくっつけて引き攣りそうになる頬を持ち上げてみせた。
 会話を終え、女性教師が「さあ、行きましょうか」と笑顔で夏油と名前の間に立っていた二人を促した。大きな瞳が一瞬夏油を見上げ、次いで名前を見上げる。両者共、もうとっくに不安と心配はピークを超えていた。「行かなくていい」その言葉を言うのは簡単で、きっと美々子、もしくは菜々子がここで一言でも泣き言を漏らせば即座に家へ連れ帰っていた。

「いってきます」
「むかえきてね」

 けれど、そうしなかったのは、不安そうに瞳を揺らしながらも果敢に立ち進む二人の姿を見たからだ。
 曲がり角に消えて行った背中を見送り、両者無言のまま校舎を後にする。校門を出て、見慣れた町並みへ戻って来たのと同時に、耐え切れなくなったように名前が大きく息を吐いた。

「心臓止まるかと思ったー!」
「同じく」

 今にもよろけそうな身体を片手で支えて夏油も深い息を吐く。
 小学校にいる時だけ着ていたジャケットを小脇に抱えて歩みを再開させた。

「私ね、さっき術式使っちゃったんだよね……」
「ああ、担任に?」
「うん。優しそうに見えたけど本当はどうなんだろうって……ダメだね、心配し過ぎてこっちが体調崩しそう」
「あの子達を大切に思っているからこそなんだ。ダメなんかじゃないさ。それで、どうだったの?」
「大丈夫そうだったよ。私と夏油君が若い事に驚いてはいたけど」

 実年齢より大人に見られやすいと言っても、夏油はまだ二十歳になったばかりで名前もまだ二十二歳だ。入学準備期間に事情があって養父となった事は学校側に伝えてはいたが、それでも今年七歳になる双子の親にしては年若すぎる。

「特に私は肩書きもなにもないし、逆に心配されてるかも。ごめんね、夏油君」
「そんな事……」

 名前は、夏油が成人するまでの後継人を務めていたと言ってもそれは過去の話だ。夏油が正式に美々子、菜々子の養父となった今となっては、戸籍上の関係性は他人でしかない。
 彼女の苦笑混じりの謝罪に、何かを告げようとして、寸前で唇を噤んだ。背中に添えたままの手を僅かに揺らし、離す。そして、頼りなく揺れる細い手を握りしめた。

「私達は家族なんだ。堂々としていていいんだよ」

 告げた言葉は本心ではあったけれど、伝えたい内容から少しばかりズレていた。
 それでも名前は、気恥ずかしそうに、されど嬉しそうに頷いて握り合った手に力を込めた。

「あとでまた迎えに行かなきゃね。遅れたら美々子と菜々子、きっと拗ねちゃう」
「そうだね。ああ、それと名前、提案なのだけど」
「うん?」

 繋ぎ合わせた手とは逆の手で握り拳を作り、夏油は名前の顔を覗き込んだ。突然の事に、名前が眉根を寄せて首を傾げる。

「これから先、いくら公立校と言えど美々子と菜々子の養育費にこれまで以上の金が飛んで行く事になるね」
「う、うん。そうだね」
「私は特級呪術師で、不本意ながら教祖業も兼任している。これから先も稼ぎで不自由をさせるつもりは毛頭ないけれど、それでも万全は期しておきたい。分かってくれるね?」
「う、うん? とても立派な考えだと思うよ」
「ありがとう。そこでだ」

 ピタリと足を止めた夏油は、握りしめていた拳を解き、繋いでいた名前の手へそっと両手を重ね合わせた。腰を眺め、真剣な声色で囁く姿は怪しげな宗教勧誘の現場のようにも見えたが、この田舎町の朝にそれを見咎めてくる者は存在しない。
 脳内では「ほら見ろ。俺の事言えないだろ!」と高専時代の五条が力強く指差して来る。それを煩いと一蹴して、夏油は長年の望みを叶えるべく、目前の名前の両目を真っ直ぐに見据えた。

「今後の事を考えて、そろそろお小遣い制を導入したいんだがどうだろう?」
「まだ諦めてなかったの!?」

20210820