まだきっと弱いまま


 冬の間は細い枝だけを伸ばしていた運動公園の桜の木も、ようやく薄いピンク色の花を咲かせ始めた。
 既に去年見た事はあるもののまだ珍しいのか、美々子と菜々子は形の整った花弁探しに勤しんでいる。たまに花のまま落ちた桜を見つけては「あった!」と歓喜の声を上げてこちらへ掲げて見せてくれた。ポケットに仕舞い込もうとするので急ぎハンカチを差し出し、それに優しく包んでやった。どうやら持ち帰り夏油君に見せてあげるらしい。

 過ぎ行く月日に比例するように夏油君の外出の回数は増え続け、それに伴い美々子と菜々子が泣く頻度も高くなった。彼の不在を、在学中は仕方がない事だと理解していたあの子達も、卒業後に離れるとなると我慢が出来なかったらしい。
 自ずと私が二人を慰める頻度も高くなり、夜通し抱き締めたまま一睡も出来ずに朝を迎える日だってある。そう言う日は、流石に夏油君も申し訳なく思ってくれるようで、帰宅と同時に張り付く二人の世話をよくしてくれていた。まるで新生児の育児に勤しむ新米パパとママのようだが、そもそも私達はそんな間柄ではないし、二人だって今年七歳になるのだから赤ん坊ですらない。
 さて、そんな多忙極まる夏油傑君は今日も不在らしい。意気揚々とただいまを言った桜色の唇が、ほぼ同時にへの字に曲がる。夕飯が要るのかだけでも連絡が欲しいのは私も同じで、二人に気付かれないように小さく息を吐いてから、玄関先に突っ立ったままの背中を押した。
 その日夏油君は帰って来なかった。その次の日も帰って来なかった。最近買い換えたスマートフォンに彼からの連絡は入っていない。

 夜通し泣いて疲れ果てた美々子と菜々子は、リビングのソファで折り重なるように眠っている。濡れタオルで赤くなった目元を拭ってやりながら沈黙を貫くスマートフォンを見下ろした。真っ暗な液晶画面には顰め面をした私の顔が映り込んでいる。
 だってあんまりだと思うのだ。何も聞くまいと、支えようと決めたのは自分自身なのに理不尽な話だけれど、連絡の一つくらい寄越してくれたって罰は当たるまい。
 痺れを切らせて自分から連絡を取る方法もある。美々子と菜々子だって、口にしないだけで何故名前は連絡をしないのだろうと内心不安がっているに違いない。こうしよう。タイムリミットは昼の十二時。それまでに何の連絡も、彼が帰っても来なければ、私の方から電話を掛ける。少し怒ってしまうかもしれないけれど、そこは許して頂きたい。
 そう考えて、私も仮眠を取ろうかとソファの隙間に頭を横たえた時だった。玄関扉の開く音が聞こえた。ついで耳に届いたのは、いつも通りの彼の声。
 うそ、小さく呟いたつもりが意外と大きな声になってしまっていたらしい。眠っていた二人が、目蓋を擦りながら顔を上げた。そして聞こえた大好きな人の声に弾かれたように走り出す。

「夏油様!」

 急いで私の二人の後を追った。リビングから玄関へと繋がる扉は開け放たれたまま、そこから恐る恐ると顔を出す。
 確かにそこに夏油君はいた。泣きじゃくる二人を、屈み込んで抱き締めたまま「ただいま、名前」と少しバツが悪そうに笑っていた。

「なに、その恰好」

 けれど服装が、最後に見た彼と違っていた。お坊さんが着るような僧衣に袈裟、靴下でなく足袋に、靴の代わりに草履を履いている。髪だけはいつも通りのハーフアップで、夏油君は二人の背中に手を添えたまま、ゆっくりと上体を起こした。

「すまなかったね、名前。心配をかけただろう」
「それは、まあそうだけど……どうしたの、それ」

 もう一度同じ内容の質問を投げかけた私に、夏油君の笑みが曇る事はない。元々切れ長で細い瞳を更に細くさせて、まるで狐のような弧を描いている。
 夏油君は、無言のまま玄関に置かれた包みを指差した。開けろと言っているようで、素直にそれに従う。風呂敷の中には仕立ての良い白の着物が入っていた。着物の生地に合う帯まで用意されている。流石に面喰ってしまって、今度こそなんなのこれ、と言わんばかりに顔を上げた。夏油君が緩やかに首を傾げた。後ろに束ねそこねた黒髪が目元に一筋落ちている。

「名前。何も言わないでこれから私が成す事を見守ってはくれないか」

 昨年話していた答え合わせをしよう。
 そう付け加えられた言葉に私は首を縦に動かした。泣き笑いで喜ぶ幼い二人に対して上手く表情を作れていた自信はない。



 着物の着付けは慣れていなかった。だから帯を結んだのは夏油君で、彼はこの日の為に女性物の帯の結び方を何度も練習したらしい。気恥ずかしそうに笑う顔は、やはり何時もの夏油君で、安心したのか思わず頬が緩んだ。
 家の前には一台の黒塗り車が停まっていた。高専で見る業務用のそれに良く似た車に揺られ辿り着いたのは、遠い異国に在る白亜の宮殿を思わせる巨大な建造物だった。静まり返った敷地内を美々子、菜々子に手を引かれ歩く。その前を夏油君が歩き、彼がようやく足を止めたのは建物の奥、広いホールのステージ横だった。

「名前」
「! なに?」
「心配しないで。美々子と菜々子と一緒に、ここでしっかり見ていて」

 こんな見知らぬ場所に来て、今からこの大きなステージに上がるにも関わらず、夏油君は何時もの調子を崩さない。ただ一度、ゆっくりと私に近づいて覆い隠すように背中を叩かれた。
 そして彼は、もう振り返る事すらせずステージへ向かう階段を登り始めた。美々子と菜々子の肩を抱いたまま袖から伺い見たホールの中には、所狭しと白い服を着た非術師達が集まっている。
 一体なにをするつもりなのか――固唾を飲んで見守るとはまさにこの事だ。マイクを片手に朗々と語り始めた夏油君の顔には完璧に作り上げた笑みがしっかりと張り付いていた。

 轟音と共にステージが抉れたのは、それから約五分後の事だった。
 夏油君がステージ上に呼び寄せた園田と言う男性が腰を抜かし、怯えたように彼を見上げているのがこちらからでも分かる。その前に”落ちて来た”達磨のような呪霊は、きっと男性には見えていない。夏油君の代わりに達磨の黒々とした目玉が男性を見下ろした。
 片や私はと言えば、美々子、菜々子、二人の肩を抱いたまま瞬きを忘れ、目前の光景を喰い入るが如く見つめていた。一瞬だけ、夏油君がこちらを見た気がした。私の勘違いなのかもしれない。けれど、確かに私は今、彼と目が合った。帳のように真っ黒な瞳には、かつて見たものと同じ固い意志が宿っているように思える。だから少しだけ、緊張が解れた。

「名前? どこか痛いの?」
「ん?」
「泣きそうな顔してる」
「大丈夫。泣いてないよ」

 もう心配はしていない。大丈夫。だから、ちゃんとここから見ている事が出来る。
 ホールに響く夏油君の声色が変化した。淡々としていて、けれど有無を言わせぬ力強さがあった。無造作にステージに放り投げられたマイクが耳障りなノイズを奏で、その後静寂が訪れる。
 この場の誰しもが言葉を発する事をしなかった。あれだけ野次を飛ばしていた非術師達は、唇を半開きにさせたまま、言葉を忘れたかのようにステージ上の夏油君を凝視している。
 冷淡な視線がぐるりと周囲に張り巡らされた。誰しもがこの場の支配者の言葉を待っていた。

「私に従え、猿共」

 異様な程緊迫した空気の中、ステージ袖の私達三人だけが楽に呼吸をしていた。

 ステージ袖に引っ込んだ夏油君は、薄暗い空間で目を休ませるように両目蓋に指を添え、深く息を吐く。美々子と菜々子は、それをキラキラとした眼差しで見上げ、丸く白い頬を興奮気味に紅潮させていた。

「名前……」

 僅かに持ち上げられた目蓋の隙間から覗いた黒色の瞳は、先程まで非術師に向けられていたものとは大きく異なっていた。少し不安そうで、まるで親の怒りの度合いを窺い見る子供のような視線だ。試しに、と術式を展開させてみた。夏油君の声は――確かに予想に近い言葉を吐き出している。
 それが少しおかしくて、安心して。ならば、この場で私に言える言葉は一つだけだ。

「おかえり、夏油君」



 聞けば、今回の件には五条君も関わっていて、夏油君の演説の後、ホールには大勢の警察官が踏み込んだ。五条君が手配した――否、呪術界の息が掛かった彼らは園田を始めとする数人の信者を捕らえ、場は一時騒然となった。

 星漿体護衛任務の失敗。
 数ある任務の中でも極秘に当たるそれは、当時高専に在籍していた者の一部が知っていて、その一部に私は当て嵌まる。
 あれから諸々の事後処理を終えて帰宅して、幼い二人が寝静まった深夜帯。夏油君は、無言のまま胸についた大きな傷跡を見せてくれた。

「あの子を……理子ちゃんと黒井さんを殺した猿につけられた傷だ」

 現在、医師免許取得のため大学へ通う硝子ちゃんも、学生当時は傷は塞げても傷跡を消し去る事は不可能だったらしい。今ならば傷跡も消す事が出来ると昨年末、硝子ちゃんから提案されたが夏油君は頑なに断った。謂く、まだ消す時ではないのだと言う。

「今日、あの場にいた非術師共はね。あの日理子ちゃんの死体を抱く悟を前に笑みを浮かべ拍手をしていた連中だ。信じられるかい? たった十四歳だった少女の死を、己の大義が完うされたのだと喜び、罪悪感もまるでなく、その事を忘れ、今日までのうのうと生きて来たんだ」

 生きているのは今も同じか。そう独り言のように付け加え、夏油君は服の前を合わせて胸の傷跡を隠した。
 彼の視線は、閉じる事を忘れたカーテンの先、夜の空へと向けられている。都会のように眩い明かりのない田舎町の空は、帳のようにどこまでも暗い。場所はまるで違うけれど高専の寮から見る夜空を思い出す。まだ私達は学生で、もう少し未来は明るいと思い込んでいたあの頃を。

「園田という男は、当時の盤星卿信者の代表格でね。本当は殺してしまおうかと思っていたのだけど……止めたよ。美々子と菜々子、あの子達と出会ったあの日だって耐えたんだ。今日もちゃんと耐えないと不平等になってしまう」

 黙って聞いていたけど、途中衝撃的な告白が挟まり思わず肩が跳ね上がった。
 夏油君は、そんな私の反応がおかしかったのか小さく喉を鳴らして口元に指を添えた。一頻り笑って、そっと目蓋を落とした。

「そう、耐えたんだ。私は。必ず報いを受けさせると決めていたのに。盤星教の母体を乗っ取り、猿共を屈服させ、あの男を失脚させる……こんな手緩い方法に踏みとどまる事になるとは、夢にも思わなかったな」

 そこで夏油君の話は終わった。無音の空間で、彼は、ただ疲れた精神を休ませようと目蓋を落としたまま緩やかに呼吸を繰り返している。
 その姿を見ていて、自然と手が伸びた。美々子、菜々子にするように丸い頭に手を添えて、優しい力で左右に撫でる。すると、閉じられていた目蓋が開き、夏油君はパチパチと瞬きを繰り返した。直後、視線がうろうろと左右に動いて、ほんの少し恥ずかしそうに眉を下げる。

「実を言うとね、今日を迎えるまで名前に嫌われるのではないかと怖かったんだ」
「ええ、どうしてそうなるの……?」
「君に秘密にして、こんな事にまで巻き込んだ。美々子や菜々子にも寂しい思いをさせてしまったし、そろそろ愛想を尽かされるんじゃないかと……ごめん、やっぱり怒ってる?」
「今の話で少し怒った」

 思い出した。夏油君が高専を卒業する寸前にも、こんな会話をした覚えがある。
 あの時と似た悲しみに近い苛立ちに、せめてもの腹いせと私は、彼の頭部に触れたままの手を一度振り落とした。ペチンと大して痛くもなさそうな音が響いて、手を引っ込める。けれど、その寸前夏油君が私の手を握り締めた。なんともバツが悪そうな顔だ。今日、帰って来た時に見せた表情に近い。そうだった。心身共に大人びて見えるから忘れがちだけど、夏油傑という呪術師は私よりも二歳年下で、まだ成人したばかりの青年だったのだ。

「いいんだよ、もっと我儘になったって」
「……そう?」
「そうだよ。そんな風に心配もしなくていい。嫌ったりなんて絶対しないから」
「……本当に、君は私を甘やかす天才だな」

 握り締めていた私の手を、自身の額に押しつけて夏油君は自嘲するように笑った。自由な指先で、全て下ろした前髪を梳いてみる。せっかく伸ばしているのに痛みの気になる髪質を残念に思いつつ、触れ合う身体の一部から感じる体温に頬を緩ませた。
 でもまあ、とりあえずあの子達に寂しい思いをさせたのは本当だから明日からは暫く面倒を見てあげてほしいな、なんて多少の我儘を伝えてみれば、彼は勿論と二つ返事で頷いた。

20210814