終焉街道開始地点



 クリスマスは終わり、直ぐに年が明けた。
 年末は年越しそばを食べ、簡単なお節と雑煮を用意して穏やかに過ごし、美々子と菜々子にはお年玉をあげた。なお、夏油君が特級呪術師として貯め込んだ財布の中から一万円札をあげようとしたのは流石に阻止した。五歳児に一万円はまだ早い。
 しかし、何処から調達したのか子供用の振袖まで用意してあったのには驚いた。聞けば、学生時代五条君に着付け方法を習っていたらしい。女性の帯の結び方は独学だそうだが、持ち前の天才肌で上手く結んであげていた。
 すっかり傷も癒えて子供らしい丸みを帯びて来た二人の晴れ姿はとても可愛らしかったので、箪笥の肥やしとなっていた一眼レフを取り出して四人で二枚写真を撮った。何方が夏油君に抱えてもらうかで喧嘩が勃発しそうだったので、打開策として二回に分けて撮影したのだ。なお、順番待ちの間は私の抱っこである。その間、二人とも少々不貞腐れた表情をしていた。夏油君が居ない時はすぐ抱っこをせがむくせに私に対する扱いがひどいのではないだろうか。
 年を越えればバレンタインに雛祭り、知らなかった行事を教えてたまにお祝いしながら春を迎えた。桜が咲いて、上着も要らなくなった頃、一度近所の公園へ四人で花見に出かけた。屋台で買ってあげたりんご飴を食べながら私と夏油君の間で桜を見上げる二人は、瞳をキラキラと輝かせて辺りを見渡していた。

「りんごあめ、おいしい」
「はなみ、たのしい」

 山奥の村で、ほぼ檻の中に監禁されて育った二人は知らない事の方が圧倒的に多い。桜並木を歩く私達の横を親子が通り過ぎる。二人の視線がそちらへ向いた事に私も夏油君も気づいていた。あえて何も言わない。二人の両親がどうしていなくなったのか、夏油君は知っているのかもしれないが、それは私が踏み入れて良い領域ではないからだ。
 二人はすっかり木の棒だけになったそれをゴミ箱へと捨てて駆け足にこちらへ戻って来た。小さな、紅葉のような柔らかい手がこちらへ向けて伸ばされる。
 抱き上げるのは簡単な事だった。まだ小さくて、軽い身体はすっぽりと腕の中に収まる。私は菜々子、夏油君は美々子を抱き上げて桜並木をまた歩き出す。「綺麗だね」なんて穏やかな会話を交わしながら、ゆっくりと確かな幸せを噛み締めるかのように一歩一歩進んだ。



 花見の後、夏油君が出掛ける回数が増えた。それに伴い、美々子や菜々子も連れて行く回数も増えつつある。彼の帰宅時間はまちまちで、一度二人を連れた上、帰りが深夜になった時は流石に私も怒った。まあ、彼の理想に対して口出しするつもりはないので軽くしか言えなかったのだが、夏油君も少し思うところがあったのだろう。美々子と菜々子、二人を連れて外出する時は夕方には帰って来るようになった。
 さて、そんな夏油君、今回は美々子と菜々子を置いて出掛けてしまった。上下黒のスウェットは家に来た次の日に私が買ったもので、髪も無造作にハーフアップにしただけだから直ぐに帰って来るのだろうと思っていた。しかし、彼は二日間帰らなかった。その間、私の携帯には彼への発信履歴が山のように並んだ。美々子と菜々子は大声で泣いて、二人を抱き締め続ける私も何度か泣きたくなった。多分、疲れていたのだと思う。たった一人での人生初の育児疲れだ。この子達にとって、そして私にとっての夏油君の存在の偉大さを実感していた。
 夏油君が帰って来なくなって三日目の早朝、彼は晴れ晴れとした笑みを浮かべて家に帰って来た。見た事もない僧侶のような僧衣に袈裟姿をしていた。まるで夏油傑、その人でない気がして私は何も言えなかった。
 泣きじゃくってしがみ付く美々子や菜々子に謝りながら抱き返し、二人の泣き声がある程度静まった頃、夏油君は立ち竦む私の事も抱き締めた。白檀の香りがした。思えば彼と知り合って四年、こうして共に暮らし始めたと言うのに抱擁されるのは初めてだった。当たり前だ。だって私達はそんな間柄ではないのだから。

「さあ、出掛けるよ。名前も着替えて」

 何処へ行くのかも分からぬまま、クリスマスに贈ってもらったネックレスを着けて、与えられた着物に袖を通し、夏油君に帯を締めて貰う。美々子と菜々子は二人のお気に入りであるお揃いのパーカーにスカートを着せた。二人の手を引いて黒塗りの車へ乗り込んだ後、ようやく息を吸えた気がした。
 高専の専用車両のような車は、私達の住む田舎町を抜け東京都内を走り、見た事のない大きな白い建物の前で止まった。辺りはしんと静まり返っていて、建物の横に立てられた白い看板には盤星教と書かれている。
 その名前には聞き覚えがあり過ぎた。肌が粟立つのを感じ、車から降りたくないと心底思った。すると、先に降りた美々子と菜々子が私の手を引く。楽しそうに、つい先日四人でお花見に行った時のように無邪気に早く行こうと促した。一歩、降りてしまった。後は手を引かれるまま、歩くだけだ。
 二人に手を引かれ、白い建物の中をゆっくりと進む。辿り着いたホールの袖で、夏油君が知らない黒服の妙齢の男性と会話をしているのが見えた。会話が終わる。美々子と菜々子が夏油君を呼び、彼は腰を屈めるとクリスマスの時のように優しく撫でた。次いで私の前に立つ。表情は見えない。当たり前だ。私が見ないようにしているのだ。大きな掌が後頭部に回る。無言のまま引き寄せられて足が縺れた。

「名前はここで見ていてくれるだけでいいんだ」

 耳元でそう囁き、一頻り私の髪を撫でた夏油君は一切振り向く事なく壇上に立った。
 後の記憶は曖昧だ。壇上の夏油君が明るく何かを話して一人の男性を呼んだ。園田、とか呼ばれていた。瞬間、上から達磨の形をした巨大な呪霊が降って来る。グチャ、酷い音と共に血飛沫が飛んだ。先程まで男性の身体を構築していた肉片も辺りに飛び散る。その間、私の身体は勝手に動いていた。美々子と菜々子を必死に抱き締めてその両目を塞いでいた。考えてみれば、これが母性と呼ばれるものではないだろうか。この子達にこの悲惨な光景を見せたくないと、守ってあげなければとそれだけが頭を占めていた。

「名前、見えなーい!」
「猿がつぶれるとこちゃんと見れなかった」

 ゴン。夏油君の投げたマイクが床に落ちる音は、まるで私の頭の中で起こったかのように大きく響いた。
 この数ヶ月、私はすっかり平和ボケしていた。夏油君が村人百十二人を殺し、両親さえも手に掛けて、非術師を憎んでいる事実を忘れてしまっていた。時折無意識下で流れ込む夏油君の思考、心の声に気づかぬふりを続けていた。
 美々子と菜々子だって、ただの五歳児ではない。村人の悪意に晒され続け、負の感情を蓄積し、夏油君が行った残虐な行為を間近で眺めていたのだから、非術師一人の死なんて何とも思わない。それでも二人を抱き締める手だけは離さなかったのは、やはりこんな私の中にも母性と呼ばれるものが存在したからなのだろうか。
 視線を上げる。頬に血飛沫を受けた夏油君は穏やかな笑みを浮かべて私達を見ていた。その瞬間、全てを悟る。静まり返ったホールで、私だけが唯一異質な存在だった。



 気が付けば家にいた。道中や着物から部屋着に着替えた記憶はないけれど、慣れ親しんだリビングのソファに座り込んでいた。首を回して窓の外へ目を向ける。すっかり夜だ。そう言えば食事の準備、していなかった。あの子達、ちゃんと食べただろうか。お風呂は? もう寝た? ちゃんと歯磨きしたかな。髪も乾かしたかな。頭の中に流れる日常が昼間見た光景に蓋をしようと足掻く。けれどそんな事は全てが無駄だ。あの光景は嘘ではないし、私は実際あの場に居た。

「名前、大丈夫かい?」

 ソファに座る私の顔を覗き込むように膝をついた夏油君はずっと近くに居たのだろうか。私の手に重なる節立った大きな手を見下ろして考える。もう片手が頬へ伸びた。顔を上げさせられてこの時、初めて視線が合う。夏油君はほんの少し不安そうな表情をしていた。見慣れた黒のスウェット姿だ。もう、あの僧衣は着ていない。その姿に泣きたくなる程の安堵を覚えた。

「夏油君、僧衣姿、胡散臭かったね」

 ひどいな、そんな事ないだろう。予想した返事はなかった。勇気を振り絞って口にした冗談に、夏油君は笑ってくれなかった。それどころか痛ましい者を見るような目をして私を見る。
 頬に滑らせていた手が後頭部へ回された。後ろ髪を乱すように指に絡めた後、引き寄せる力に抗う事はしなかった。肩口に鼻先を埋めると白檀の香りがした。脳裏を過ぎる数時間前の記憶に唇の端を噛む。

「私、手伝わないからね」
「ああ、分かってる。それで十分だよ。ありがとう名前」

 後頭部に回された手と、何時の間にか背中に添えられた手に力が籠った。夏油君は体格が良いから、こうされると少し痛い。それでもやめてと言う気も、離れる気も起きなくて、両手は自然と彼の背中へ回った。ほんの少しだけ爪を立てる。夏油君もやめてとは言わなかった。
 その日、美々子と菜々子は家に来て初めて二人だけで眠った。と言ってもそれは、何も予告せずにそうなったのであって、ただ座敷の何時もの布団に私達が入らなかっただけである。
 私達は、お互い提案するでもなく、すっかり物置となった二階の私の部屋のシングルベッドで身を寄せ合うようにして眠った。何かした訳ではない。ただお互い抱き締め合って、夜の帳の中、ただ朝を待ったのだ。

20210223