暗がりからの救世主



 夏油君が二人の女児を連れて家に転がり込んできてから一週間が経とうとしていた。
 季節はすっかり秋となり、九月を過ぎ、十月に入った。冷房をつける事はなくなったものの、美々子と菜々子は一度覚えたアイスの味を忘れず、連日のように某高級アイスを所望する。流石に毎日与えるのは教育上悪いし、布団を蹴り飛ばす癖のある二人がお腹を冷やしかねないので、アイスは二日に一度と決めた。
 同時に問題が浮上する。毎回高級アイスと言う訳にもいかない。二級呪術師のお財布事情を舐めないで頂きたい。昨日は安売りされていた棒アイスを渡した。二人は可愛らしい顔を不満そうに歪めながら棒アイスにしゃぶりついた。たった一週間ではあるが、この様子を見るにどうやら私に対しての警戒心は解かれつつあるらしい。それに安堵して今度また高級アイスを買ってあげようと考える私は、結局はこの子達に対して甘い。一番甘いのは、私に隠れてよくアイスやお菓子を与えている夏油君だけど。

「名前、のどかわいた」
「名前、おなかすいた」

 好きに呼んでいいと言ったのは私自身だが、まさか呼び捨てにされるとは思わなかった。
 私の袖を掴んで揺らすそっくりな女児二人を交互に見下ろし、とりあえず冷蔵庫から麦茶を取り出す。菜々子はお腹が空いたと言うが、夕食が食べられなくなっては困る。小さい身体ながら全力で駄々をこねる菜々子にガクガクと頭を揺らされつつ、少しだけ譲歩して子供用のコップに麦茶でなくオレンジジュースを注いだ。手元が狂って少し溢れた。勿体ない。
 美々子と菜々子が私を名前で呼ぶようになったのは、ほんの二日前の事だった。入浴も終えてリビングでぼんやりとバラエティ番組を見ていたら、歯磨きを終えたばかりの二人が突然「名前」と私を呼んだのだ。最初、誰に呼ばれたのかも分からず、私はテレビに興味を持たず文庫本に視線を落としていた夏油君を見た。彼もまた文庫本から視線を上げ私を見ていた。同時に首を回す。美々子と菜々子が不安そうな表情を浮かべてこちらを見ていたのでこの子達が呼んだのだと気が付いた。
 夏油君みたいに様付けは嫌だなあ、出来たらお姉ちゃんがいいなあ。そんな仄かな夢は現実を前に砕け散った。呼び捨ては二人が敬愛してやまない夏油君の真似だ。きっと二人は様以外の敬称をまだ知らない。お母さんやお父さんは居たのだろうが、彼女達の両親はそれを教える時間もなく居なくなってしまった。
 どうする。夏油君が声に出さずに問いかけて来る。ここで呼び捨てはちょっと……と言えば、夏油君は二人を上手く諭すに違いない。
 それでも返事をしてよかったと心の底から思う。なあに、このたった三文字の言葉に二人は顔を見合わせて本当に嬉しそうに頬を緩ませた。横で夏油君がやれやれと肩を竦ませ、苦笑したのが見えた。

「すっかり子育てが板について来たね、名前さん」
「さん付けなに。こわ」
「酷いな。つい半年前まではそう呼んでたじゃないか」

 この家で生活するにあたり、決まっている事はたったの三つだ。一つ、家事は私と夏油君の分担。食事の準備はほぼ私が担当しているので、夏油君には掃除をお任せしている。洗濯は、どちらか手が空いている方が担当だ。二つ、美々子と菜々子をお風呂に入れるのは私、寝かし付けるのは夏油君の役目。三つ、夏油君がこれからやろうとしている事に住居と二人の世話以外では私は一切手を貸さない。
 お互い納得した上で本格的に始まった共同生活は、意外と円滑に回っている。最早二人と夏油君の部屋となった旧私室から明日の仕事用の資料を取り出す。こうして二人を起こさないよう小声で話すのも慣れたものだ。

「私は、半年前がもう何年も前に感じるよ」
「そう? でも、そうだな……私も同じかな」

 入浴を終えて直ぐに二人を寝かし付けたせいでまだ濡れている長い黒髪は、降ろされたまま夏油君の頬に影を落としている。首元のタオルから外れて落ちた水滴が、男性らしく浮き上がった鎖骨に溜まっているのが見えた。

「髪、乾かさないと風邪ひくよ」

 なんとなく高専の事を思い出しているのだろうと思った。髪に隠れた向こう側でそんな目をしている気がした。
 首元に掛かっていたタオルを奪い、形の良い頭に被せる。拭いてあげるなんて真似は出来なかった。夏油君は、白いタオルの隙間から細い目を開いてこちらを見上げる。そして何も言わず、気恥ずかしそうに微笑した。



 高専を卒業して半年。こんなしがない二級呪術師にも任務は連日舞い込んでくる。この一週間は久々の休暇として無理矢理もぎ取ったものだったので、今日からはまた通常の日々が戻って来た。
 とは言え、私の術式は戦闘ではまるで役に立たない。私の身体能力は非術師より少し上程度で呪力も並みか中の上程度のものだ。
 特級の呪霊には特級の術師を、一級の呪霊には一級の術師を任務にあてるように、世の中には適材適所と言うものが存在する。結果、卒業して直ぐ、上層部は私の術式が対呪霊任務において何の役に立たない事に気が付いた。けれど、この業界は常に人手不足。こんな私にも対呪霊任務は与えられる。けれどそれは稀であって、与えられる任務の大抵が――

「尋問、ね」

 二十二時、任務から帰ると階段に腰掛けた夏油君が出迎えてくれた。電気もつけず、真っ暗闇の中解いた髪の隙間から覗く鋭い視線に思わず息を呑む。
 居たの。パンプスを脱ごうと踵に親指を掛けるが上手く脱げない。困った。どうやら私は動揺しているらしい。

「美々子と菜々子は? お風呂、二人で入れた?」
「名前。これ以上はぐらかすと怒るよ」

 男性の感情を押し殺したような低い声は恐ろしい。夏油君の声は真剣だ。パンプスを脱ぐのは諦めた。玄関に棒立ちになる。

「だって私が役立てるのってそのくらいだから」

 尋問。それが私に与えられた任務の大半を占めている。相手は大体呪詛師だ。何故高専を恨むのか、誰の差し金か、仲間はいるのか、その目的は。縛り上げられた相手の思考を読み取り、担当の呪術師に伝える。たったそれだけの単純作業である。

「君の術式は役立つ。確かに戦闘向きではないがサポート役としては非常に有能だ。心を読むとは即ち頭の中、脳の動き、思考を読むと言う事だ。呪霊の思考を読み、行動、危険を回避すれば術師の死亡率は格段に減少する。上層部はそんな事にも気が付かないのか」

 それなのに夏油君は、私が尋問任務を与えられている事が大層不満なようだった。細い眉を顰めて開いた膝の間で組んだ拳に力を込めたのが、ここからでも分かる。

「思考がはっきりしてる呪霊の方が少ないじゃない。意味ないよ」

 この家の主人であるはずの私は靴も脱げぬまま玄関に立ち、片や居候であるはずの夏油君は我が物顔で階段に座り込んでいる。ちぐはぐで息の詰まる環境を先に変えたのは意外な事に夏油君の方だった。彼は、諦めたように溜息を吐くと階段から立ち上がり、立ち竦んだ私の腕を取った。腕を引かれるまま、蹴るようにパンプスを脱ぎ向かったのは脱衣所だった。

「とりあえずシャワー浴びておいで。何か飲み物用意しとくから」

 最後に私の背中を押して夏油君は脱衣所の扉を閉めた。足音が遠ざかり消える。言葉通り飲み物を用意する為に台所に入ったのだろう。台所から続くリビングの方から菜々子が「名前帰って来たの?」と私を呼ぶ声が聞こえた。
 返事をしたいのは山々であるが夏油君からシャワーを浴びるように指示されているのだ。今の彼は、若干苛立っているし従っていた方が良いだろう。何より私達が険悪な空気を出せば、美々子と菜々子が不安がる。大きく息を吐きながらブラウスのボタンに手を掛けた。
 疲れと共に汚れを洗い落とし、濡れた髪をタオルで拭きながらリビングへ顔を出すと、まず待ってましたとばかりに美々子と菜々子が私の腹部へと突進した。容赦ない力で突撃されて思わず咳込む。どうやら二人は、私の帰宅時間が遅かった事にご立腹らしい。器用に私の足の甲まで踏んで来る始末だ。まだまだ体重は軽いとは言え、結構痛い。

「こら、二人とも。名前は疲れているんだから程々にしてあげなさい」
「「はーい」」

 夏油君は、手に持っていたグラスを私へ差し出した。うっすら黄色の混じった液体へ口をつける。レモネードだった。

「レモンが疲れた身体に染みるだろ?」
「うん。美味しい。ありがとう」

 机の正面に座っていた夏油君が大きな身体をずらしたので、すっぽり収まるように横の空間に座り込む。その横に私の足にしがみ付いていた美々子と菜々子が座った。
 レモネードを半分くらい飲んでグラスを机に置くと、今度は頭から被ったタオルへ手を掛けられた。肩が震える。しかし、夏油君はそんな私の態度など気にせずに濡れた髪を拭き出した。

「以前、名前は呪術師に向いてないって悟が言ってたけど、今全く同じ事を私が言ったら怒るかい?」

 首を横に振った。自分でも分かりきっていたので悩む事はしなかった。

「現在、尋問官として使われているその術式で本来ならば呪術師の心を救えるのだろうに……」
「カウンセラー?」
「そう。やはり悟の目は確かだったね」

 男性らしい大きな手なのに髪を拭く指先は優しくて心地が良い。そんなアンバランスに身を委ねている間も夏油君の回想は続く。

「名前は何時だって私に優しかった。勿論悟や硝子達にも優しかったけど私には特に甘かっただろう。思わず君の特別なんじゃないかと自惚れてしまうくらいには生意気な後輩でしかなかった私の相手をよくしてくれていた」
「そうだったっけ」
「鍛錬場の帰り他愛のない話をしたり、自販機でジュースを奢り合ったり、談話室でふざけ合ったり……きっとあれは私にとって束の間の青い春と言うものだったんだ」

 その言葉を区切りとするように髪を拭く指先はピタリと止んだ。夏油君はタオルの下にある私の目を覗き込むように腰を屈めた。目が合った。今し方、過去を懐かしんでいた少年とは思えぬ程冴え渡った瞳が真っ直ぐに寝ぼけ顔の私を射抜く。

「もし私が捕まったら、君は上に命令されるまま私を尋問するかい?」

 その問いかけの返事を考えた事がないと言えば嘘になる。夏油君が何をしてここに来たのか、そしてこれからどうしようと考えているのか、それらは一週間前、彼が初めてこの家を訪れた時から把握している事だった。
 今日、上に命令されるまま心を、思考を読んだ相手は呪詛師だ。夏油君のように何か高い理想がある訳ではなかった。ただ、生きやすい道を選んだ結果が呪詛師であっただけ、そんな相手だった。それなのに私は、相手に夏油君を重ねてしまった。非術師に傷付けられた女児二人を救い、報復として村人全員を葬り去り、実の両親さえも手に掛けた彼は高専からの離反者として追われる立場にある。
 今日、正式に上から夏油傑の離反を聞かされた時、私は心底恐怖した。決してそれは自分自身の保身の為ではない。家で待っている夏油君や美々子や菜々子、三人の顔が次々と浮かんで、彼らを失う可能性を考えて恐怖したのだ。
 先程と変わり今度は少し悩んだ。視線を逸らしたら負けな気がして、決して目前の黒目から目を離さないようにしながら頭の中は最適解を求めて忙しなく働いている。
 ああ、ダメだ。答えが纏まらない。正しい答えを放り投げたのはそれから直ぐの事だった。

「夏油君は、特級だからそんな簡単に捕まったりはしないと思うけど……そうだな、もしもの場合は「分かりません」って答えるかな」
「庇ってくれるわけだ」
「うーん、庇うとはまた違う気もするけど。と言うか、もし夏油君が捕まったらこうして匿ってた私も一緒に捕まるんじゃない?」
「今更だね。同じ事を私はもう何度も言っているよ。それで、やっぱり出て行けって言う?」
「言わないってば。疑り深いな」

 いい加減しけったタオルを頭に乗せておくのも嫌になって首元へ落とした。視界が一気に広くなる。

「名前は本当に私に甘いよ。心地よくてこのままずっと四人で暮らせたらなんて考えてしまう」
「私としては夏油君の方が私に甘いと思うけどね」

 そうかな、だといいな。心の中で返事をする夏油君に強烈なデジャヴを覚えた。ああ、そうだ。昨日学生時代の夢を見たのだった。

「ねむい」

 この難しい会話を終わらせたのは、目を擦る美々子の小さな呟きだった。私の横に座った二人は、私達の会話を意味も分からないまま聞かされて睡魔は限界まで達したらしい。菜々子の首は既に舟をこぎ、美々子に寄り掛かるようにして寝息を立てている。

「ああ、ごめんね。もう寝ようか」

 菜々子を支えきれなくなった美々子の頭が私の膝へ落ちて来たので受け止める。すっかり横になってしまった二人を早くベッドで寝かせてあげたい。
 ここで二人を起こすのは忍びなく、途端に黙りを決め込んでいる夏油君を仰ぎ見た。彼は、寝息を立て始めた二人を見下ろすと何やら決心したように「うん」と頷く。嫌な予感がした。咄嗟に腕を伸ばすが空を切る。立ち上がった夏油君は、振り返る事なくリビングを出ると二階へ上がった。暫くしてドサドサと大きな、何か柔らかい物が落とされる音が響く。何か、ではない。十中八九布団だ。

「寝ようか」

 なんとも清々しい笑みではあるが、私は全力で首を横に振った。リビングの向こう側、階段と廊下を挟んだ先の座敷に布団が二組並べられているのが見える。

「ほら、行くよ名前。どうせ明日も任務なんだろ」
「え、は、まあ、そうだけど」

 慣れた手つきで脱力し切った二人を抱き上げた夏油君が顎で移動を促す。容姿と相成って堅気の人間には見えない。このまま逆らって一人二階へ逃げたとして、きっと夏油君は捕獲に来る。その騒動で美々子と菜々子を起こすのは本意でなく、私は大人しくする他ない。
 あまりに突然の決定に半分泣きそうになりながら立ち上がった。ひとまず寝る前に髪を乾かす事を許してほしい。夏油君の許可は下りた。
 結局、その日は私、美々子、菜々子、夏油君の順で眠りについた。翌日、布団が変わった事に違和感を覚えたのか珍しく早起きした二人は、朝イチだと言うのに元気な声を上げてはしゃぎ回った。「なんで!? ええ、きのうからいっしょにねることになったの?」「てれびでみたのとおんなじだ……」緊張であまり眠れなかった私はと言えば、真ん中でキャッキャと笑い声を上げる二人に寝ぼけ眼で頷く事しか出来ない。
 しかし、テレビで見たとはなんだ。ああ、子供向けのアニメか。一人納得して再度枕に顔を埋める。向こう側では安眠出来たらしき夏油君が飛びつく二人を抱えながら何事か囁いていた。あ、また嫌な予感。睡魔が飛んでいく。

「そうだよ。今日も四人で寝ようね」

 勝手に約束しないでほしい。しかし、私の抵抗も虚しくこの日を境に私達は連日共に寝る事となる。なお、夏油君の横は順番という事に決まった。

20210223