過ぎ行く夏が邪魔をする



 思えば、小さな綻びに気付いてあげるべきだった。

 二〇一七年 八月二十日。
 八月の第三日曜日に当たる今日は、町の夏祭りの開催日だ。開け放たれた窓の外では、祭り会場である神社まで親を急かす子供の声や、下駄のカランコロンと言った涼やかな音が響き、何時も静かな町が違う色を見せているのが窺える。対して私は、台所のコンロ前に立ちながら鍋の中身をかき混ぜている最中だ。勿論、服装は浴衣でなく部屋着である。
 時刻は十九時を少し回った。恒例となった打ち上げ花火が上がるまであと四十五分。出店はとっくに開いているので、境内はさぞかし人で溢れ返っている事だろう。そんな事を考えながらコンロの火を弱め、カレーのルゥを割って鍋の中に雑に投入した。すると手元から「ぐすっ」と鼻を啜る音が聞こえた。視線を流し台に置いたスマートフォンへと向ければ、そこには通話中の文字と電話の相手である夏油君の名前、そしてスピーカーモードを報せるマークが躍っている。

「美々子、泣かないの」
『だって……』

 現在の通話相手は、美々子である。夏油君のスマホを使ってはいるが、持ち主本人は電話を掛けて来た後、席を外した為そこに居ない。美々子の泣き声と、菜々子の心配そうな声だけが聞こえて来る端末の向こう側の光景を頭に思い描くのは簡単で、こうして口で宥めてはいるが全て無駄になる事も勿論理解していた。
 今週は、土曜に帰って来る事が出来ないけれど日曜日の昼間には顔を出すから。そう、やけに慌しく夏油君から連絡があったのは、昨日の昼間だった。年が明けて春に入ってから何かと忙しくしている夏油君の様子は、美々子と菜々子から聞いていたし、特に驚く事もせず「分かった。気をつけて帰って来てね」と返したと思う。しかし、日曜日になっても夏油君も、二人も帰って来なかった。至極簡単な話だ。美々子が夏風邪を拗らせたのである。

『夏祭り、行きたかった』
「うん、そうだね」

 どうやら季節外れの厄介な風邪を菜々子と二人で出掛けた街で貰って来たらしい。幸いにも喉の痛みや軽い咳で済んだ菜々子と違って、元々夏バテ気味だった美々子は昨晩とうとう発熱し寝込む事となってしまった。去年から今年の夏祭りを楽しみにしていた二人だ。新しい浴衣も用意してもらい、今年は私を含め三人で揃いの髪飾りをつけようと意気込んでいた事も知っている。故に美々子のショックは計り知れないほど大きい。予定を台無しにしてしまったショックと申し訳なさで昼間から泣き暮れている美々子と、懸命に美々子を励ましているがやはり本人もショックなのか声に張りのない菜々子。気が付けば、二人と通話を始めて既に三時間が経過していた。

『名前、夜ご飯なあに?』
「カレーだよ。材料用意していたからね」
『私も、食べたかった』
「じゃあ、来週作って待ってるから早く治しなね」

 そうしていると向こう側で扉の開く音が聞こえた。「夏油様」と菜々子が呟く。どうやら夏油君が用事を済ませて帰って来たらしい。

『おや、まだ通話を続けていたのか。すまないね、名前。君もする事があっただろうに』
「大丈夫。スピーカーにして話していたから全然気にならなかったよ」

 夏油君が美々子の傍に腰掛けたのだろう、ベッドが軋む音が聞こえた。それから夏油君の優しい声が美々子の体調を心配して、ずっと傍を離れなかった菜々子の体調も気遣う。風邪を移すといけないから、と言う大人から子供へ向けるお決まりの言葉だ。先程、私も菜々子にやんわりと告げた。けれど、菜々子は「大丈夫」の一点張りで美々子の傍を離れようとはしなかった。生まれた時から一緒にいる双子だもの、絆はとても強い。予想通り、私からのものを含め二度目になる提案にも首を縦に振らなかったらしき菜々子に、夏油君は苦笑するしかないようだった。
 すっかりとろみもついて、いい具合になった鍋の中身を確認し、コンロの火を止める。夏油君も戻って来たし、通話はもうすぐ終わるだろう。夕食を取るのは、その後で一向に構わない。あの子達がいれば気を使っていた夕食の時刻も、私ひとりとなるとどうでもよくなってしまう。
 調理で汚れた手を流しで洗い、タオルで拭いていると、外の静けさがやけに気になった。この辺りの住人は皆、夏祭りに行ってしまったのか辺りは暗く、虫の鳴き声だけが聞こえて来る。ふと、スマートフォンの画面、表示時刻が目に留まった。数字が切り替わる。十九時四十五分。あ、と声を上げたその時、窓の外で大きな音が響いた。花火だ。夜空に大輪の花が開き、散って行くのが神社から離れた我が家からでも見えていた。

『ああ、もうそんな時間か』

 通話越しにもその音は、聞こえていたらしい。夏油君の感嘆ともとれる呟きの後、美々子の小さな泣き声が、また鼓膜を揺さ振った。次いで菜々子の美々子を呼ぶ声が聞こえる。何だか胸が締め付けられる思いがして、急いで窓を閉めた。これで少しは、音も気にならないはずだ。

『二人とも、泣かないよ。花火なら、また見れるから』
「そうだよ。来年こそ絶対に行こう。浴衣、見せてくれるんでしょう?」
『う、ん……』

 時間にして十分程が経過しただろうか。花火が終わった頃、ようやく美々子の泣き声は止んだ。菜々子の声も聞こえない。またベッドが軋む音が聞こえて「少し待って」と夏油君が小声で囁いた。どうやら二人は、泣き疲れて眠ってしまったらしい。身体は大きくなっても、その実まだ十四歳の子供なのである。

『泣き疲れて眠ってしまったからね。起こすわけにもいかないし移動したんだ』
「うん、だと思った。美々子、熱は?」
『下がってきているようだよ。明日までゆっくり休めば回復するだろう』
「そっか、安心した」
『今日は本当にすまなかったね、名前。二人がどうしても君に直接謝りたいと言ってきかなくて』
「謝る必要なんてないのにねぇ」

 そう話す夏油君の声は少し疲れていて、ああ、だから昼間電話を掛けて来た時あんなに申し訳なさそうだったのか、と内心納得する。花火の音から逃れる為、歩き続けていた足は、いつの間にか押し入れの前へと辿り着いていた。立て付けの悪い襖がハマったそこは、あまり開ける事もないが、この際だから掃除でもするか、と軽い気持ちで襖を抉じ開ける。すると、古びた段ボールの口からカラフルな袋が覗いている事に気が付いた。

「あ」
『ん? 何かあった?』
「夏油君、私良い事思いついたかも」

 しゃがみ込み、中身を確認して相槌を打つ。そうだ、この手があった。これなら今日、泣いてしまったあの子達をきっと笑顔に出来るはずだ。



 二〇一七年八月二十七日。
 今年の夏祭りが終わり、一週間が経過した八月最後の日曜日。すっかり辺りが暗くなった頃、私達は全員揃って庭で出ていた。

「わ、点いた!」
「やばっ! 写真! 名前、スマホ取って、早く!」

 茹だる様な熱帯夜だと言うのに、若い二人は白く眩しい生足を晒しながら実に楽しそうに手持ち花火を振り回す。火傷をしたら危ないので切実に止めてもらいたい。特に美々子は、病み上がりなのだから煙をなるべく吸ってほしくないのだが、あの様子では、聞き入れてはくれないだろう。
 先週の日曜日、私が押し入れから見つけたのは手持ち花火のセットだった。夏祭りで見られる打ち上げ花火とは規模も派手さも全く違うが、少しは慰めになるだろう、と今週末までに幾つか追加で家庭用の花火セットを購入していたのである。
 結果として私の思惑は見事的中した。青い火花を噴き出す花火をスマホのカメラで写す菜々子は先程から笑みを絶やさないし、線香花火の小さな火花を見つめる美々子の瞳もキラキラと輝いて見える。
 花火は子供達二人に任せ、大人二人は、呑気に縁側で喉を潤す事にする。時々、手持ちのスマホで二人の写真を写しては、夏油君に確認して貰い、ギャラリーに保存するだけの単純な時間が実に心地いい。

「家で花火か、良い案だね。二人も楽しそうだ」
「でしょう。浴衣は、来年になっちゃったけどこれなら二人の気も晴れるかなって」
「ふふ、名前のお手製カレーも無事食べられた事だしね」
「市販のルゥを使ったただの変哲もないカレーなんだけどな」

 先週、夏祭りは勿論共に夕食を取る事も出来なかった二人は、昨日帰って来るや否や夕飯のリクエストとしてカレーを所望した。私も先週の約束は覚えていたし、元よりそのつもりで準備していた四人分のカレーは、昨日の夕飯と今日の昼間にドリアにアレンジされ、すっかり空となってしまった。
 会話を続けていると、一頻り花火を楽しんだ二人が縁側へと戻って来る。それぞれ私達の横を陣取ってすっかりご満悦の様子だ。白い足をパタパタと揺らしながら、嬉しそうに撮った写真を見せてくれる。花火のアップの写真、線香花火を見つめる美々子の横顔、逆に美々子に撮ってもらったと言う菜々子の笑顔、二人で肩を組んでいる写真もあった。流石、最近の若い子なだけあって写真の撮り方がどれも上手い。先程、私が撮っていた写真を見せればまず不評を頂いてしまうだろう。二人に見せるのは止めにして、見つからないようスマホを背後へとスライドさせた。

「ねえねえ、夏油様、さっきの見てた? 私が持ってた花火、めっちゃ派手だったの!」
「あの赤い色のやつかな?」
「違うし。緑と青のやつですー!」
「ああ、それは見ていなかったかもしれないな。ごめんね、菜々子」
「ええー! 名前は、見てた?」
「え、ごめん。私も見てなかったかも。あ、美々子の線香花火は見てたよ。綺麗だったね」
「うん。結構長く持ったの」

 夏油君の向こう側から身を乗り出した菜々子が白い頬を膨らませてそっぽを向いた。実に子供らしい拗ね方に苦笑を浮かべた夏油君が、菜々子の頭を撫でてやっているのを眺めつつ、縁側から腰を上げる。

「名前?」
「西瓜用意してるんだ。食べるでしょう?」
「うん、食べる」

 私の横に座っていた美々子は、拗ねてしまった片割れを気にしながらも西瓜と言う単語に頬を緩ませる。今日の二人は、やけに子供のように幼く見える。先週、会う事が叶わなかったからか、それとも純粋にこの子達が甘えてくれているからなのか。後者であれば良いな、なんて都合の良い事を考えながら移動した台所は、クーラーを効かせているリビングと隣接しているだけあって縁側とは比べ物にならない程涼しい。冷風で涼みつつ、冷蔵庫から西瓜を一玉取り出した。八百屋で格安で売られているのを見つけた時は、まるまる一玉は多すぎるかと一瞬躊躇したものの、今日のあの子達なら数切れは食べてくれるだろう。夏油君はどうかな。食べないかも。まあ、余ったら持たせてあげれば良い。

「名前」

 まな板の上に置いた西瓜に垂直に包丁を入れた私の腹部に二本の逞しい腕が回された。誰の物かは、声を聞いて直ぐに分かった。否、たとえ声を掛けられなくとも、この家でこんな風に背後からすっぽりと私を覆えるのは一人しかいないので、どちらにせよ答えは一つである。

「包丁持ってる時は止めてよ。危うく手元が狂うところだった」
「ごめんごめん。手伝おうと思って追いかけて来たのだけど、名前の背中を見たらつい、ね」

 何がつい、なのだろう。夏油君は、私の腹部を緩く締め付けたまま、くの字にその長身を折り曲げて私の肩に顎を乗せている。それ以上何かするわけでもないようなので、とりあえず作業を再開した。半分に切った西瓜にさらに包丁を入れ、食べやすい大きさにカットする。その際に零れた果肉を抓んで肩の方へ持ち上げれば、彼は何の躊躇もなくそれを口に招き入れた。

「うん、甘いね。でも私は、もうこの一口でいいかな」
「言うと思った」

 十年前から続く夏油君の非術師に対する憎悪の念は年々増すばかりで、今でも彼は非術師由来の食べ物はあまり取りたがらない。あの子達や、私は会った事のない他の家族に勧められれば口にはするし、私が作った料理も食べてはくれるが、出来合いの物は基本的に拒否している。クリスマスやそれぞれの誕生日に用意するケーキも何時しか自然と私が作るようになって、今では少々凝ったデコレーションも出来るようになった。二週間前だって、あの子達に手伝ってもらいながらアイスを作ったばかりである。久々に口にしたアイスに夏油君はご満悦の様子で、頻りに感想を気にする二人に何度も「美味しいよ、ありがとう」と口にしていた。その光景を思い出しながら硝子皿に西瓜を盛り付けていると、首元から囁くような小さな声で名前を呼ばれた。

「特級過呪怨霊って分かる?」
「勿論。まあ、お目に掛かった事はないけど」
「今、私はそれが欲しいんだ」

 すっかり盛り付け終わった西瓜を視界に収めたまま、溢れ出しそうな生唾を呑んだ。ピクリ、と反応したのは同時だった。私の腹部を締め付ける腕に力が籠り、私も、彼の思わぬ発言に身体を震わせたのだ。すっかり平和ボケしていた頭が一気に現実へ引き戻される感覚がしていた。私は、高専所属の呪術師で、夏油君は呪詛師なのだと、始めから分かっていた筈なのに言葉の節々がやけに重く感じる。

「現時点で私の身体の中には約六千体もの呪霊が存在している。十年掛けて地道に集めた呪いだが、このまま高専と殺り合ったところでこちら側の勝率は三割程だ。けれど、ここに特級過呪怨霊を加えると、どうなると思う?」
「勝率は、上がるだろうね」
「そう、九割九分まで上げる事が出来るだろう。悟と殺り合うのは骨が折れるだろうが、ね」

 彼は回りくどい言い方をしているけれど、何が言いたいのかは既に何となく理解出来ている。腹部に回されたままの腕にそっと自分の手を添えた。よかった、気持ちは動揺はしているけれど手は震えていない。

「名前、逃げるなら今だよ」

 やっと耳元で囁かれた本題は、予想通り冴え渡った真剣な色を纏っていた。腕の締め付けがほんの少しだけ緩む。このまま抜け出すのは簡単で、きっと夏油君は、私がそうしたとしても怒りはしない。ただ、悲しむのだろうな、とは思った。

「なんで、逃げなきゃならないの」

 十年前の九月から、夏油君の中にはずっとこの日に対する覚悟があったのだろう。あの日、私が彼を追い出さなかった理由を理解していながら、心の何処かでは、縋り付くようにその可能性を選ぶ私を望んでいたのだろう。同情はしていない。どちらかと言えば怒りすら湧いている。だってひどい話ではないか。この生活がずっと続けば良いと望む私の気持ちを知っていながら、よくもまあそんな言葉が言えたものだ。

「前に約束した通り手を貸すつもりはまったくないけど、君達から逃げようって気はまったくないよ、私。それに実家なんでしょう、この家が」
「高専側に狙われる事になるかもしれないのに?」
「それは、少し怖いけど……でも、うん。仕方ない事なんだよ、きっとね」

 すっかり緩んでしまっていた腕をしっかりと繋ぎ直した。私が、そうさせた。

「帰って来てよ、ずっとここに。私は、不相応だけどあの子達の母親代わりで、夏油君の家族なんでしょう?」

 思えば覚悟は、もうとっくに決まっていたのだ。彼らを家族だと認識している私は、たとえ何があったとしても繋いだ手を解く事は出来やしない。共に過ごした十年間の記憶がそうさせる。
 夏油君は、私の肩に顎を乗せたまま一瞬息を詰まらせた後にふう、と大きく長い息を絞り出すように吐いた。そして、私が繋ぎ直した腕に再度力を込める。男性である彼からの手加減のない抱擁は痛いけれど、止めてと言う気はなかった。私が、そう望んでいたからだ。

「ずっと、私はこの家で待ってるからね」
「ああ……」

 絞り出すような返事は、強い決意と共に、あまりに痛々しく聞こえた。ほんの僅かな綻びが、ふと視界にチラついて消えて行く。何か言いたい気がするのに感情が言葉にならなくて、私はただ重ねた手を優しく撫で続けていた。

20210404