死ぬる刹那の純粋よ



 八月第三週目の日曜日。町の神社で夏祭りが開かれるのは毎年この日だ。普段人気のない神社の境内もこの時期だけは人が増え、三日程前にもなれば準備の音を響かせるようになる。毎年の事だけど、この場所だけまるで違う町のように思えて少し落ち着かない。
 八月の暑さでぐっしょりと汗をかいたビニール袋を抱えて急ぎ足に目の前を通り過ぎれば、後はもういつも通りの田舎町が広がっている。この町は、ひどくゆっくりと時間が過ぎていて呪霊の気配もほとんどない。だから祖母は亡くなるまでずっとこの地を離れなかったのだろうか。最近、事あるごとに考えてしまう内容を頭の中で結論付けて家へと戻れば、座敷に置かれた一つの着物収納袋が目に留まる。

「はあ……」

 家には人の気配はない。けれど感じる残穢は、よく知っているもので。
袋の上に置かれたメモには達筆な文字で「明後日はこれを着てね」と書かれていた。紐を解いて中を確認すれば、そこには紺色生地の上品な浴衣があった。しかもご丁寧に浴衣に似合う帯まで揃えてある。
 夏祭りに行きたいと言いだしたのは美々子と菜々子で、先週帰って来た際も二人は楽しそうに用意してもらった浴衣の色や柄を話して聞かせてくれた。美々子は藍色で菜々子は鴇色、柄は双子らしくお揃いにしてもらったらしい。勿論、浴衣を用意したのは夏油君で、彼は期待に胸を躍らせる二人を微笑ましそうに眺めた後、二人の報告から解放された私に向かって「名前にも用意するから楽しみにしていてね」と告げた。あの時、私は確かに「悪いし、要らないよ」と断ったはずなのだが――

「なんとなくこうなる気はしていたんだけどねぇ」

 三日後、八月第三週目の日曜日。昨晩から家に帰って来ていた美々子と菜々子は既に浴衣を着つけてもらって自撮りに勤しんでいる。そして私も紺色の浴衣に袖を通し、帯を結んでもらっている真っ最中だ。

「名前、動かないで」
「あ、ごめんごめん」

 毎日のように和服を着ているからなのか、それとも練習したのか、夏油君の着付けの腕は大したもので、女性の帯も難なく結んでしまう。可愛らしく文庫結びにしてもらった二人に対し、大人らしくカルタ結びにしてもらった帯の形は美しく、菜々子は興奮したようにスマートフォンで写真を撮り続けた。
 無地の黒の浴衣を着た夏油君の支度も済めば後はもう夏祭り会場である神社へ向かうだけである。履き慣れない下駄に苦労しながら家を出れば、同じように夏祭りへ向かうご近所さんや町内の住人、それから近隣地区から遊びに来た人々とすれ違う。段々人は増えて行き、辺りが色とりどりの浴衣で埋め尽くされた頃ようやく辿り着いた参道は、既に出店の客で賑わっていた。
 当初不安視していた美々子と菜々子は瞳を輝かせ、手を繋いだまま参道を進んで行く。その後ろを見失わぬようについて行くが如何せん人が多い。あっという間に二人の背中は人混みに飲まれて見えなくなってしまった。

「名前、手貸して」

 焦り、二人を追いかけようと前へ伸ばした腕を背後から掴まれる。二人の姿が見えなくなっても落ち着き払っている夏油君は、しっかりと私の手を握り締めると迷いのない足取りで人混みを縫うように進んで行った。

「美々子達なら大丈夫。何かあれば連絡して来るし、そもそもあの子達には今日財布を持たせてない。何か欲しいものがあれば、」
「あー! 夏油様と名前いたー!」
「ほら、ああやって自分で戻って来る」

 流石ですね、としか言いようがなかった。夏油君の推測通り戻って来た二人は、頬を膨らませて私達二人が遅いと小さな文句をぶつけて来る。それに対し夏油君は苦笑するばかりなので、私が軽く注意する事にした。

「こら。走って行ったのは二人でしょう」
「うう、いいから! 名前、私いちご飴食べたい!」
「私は、ぶどう飴」
「買うのはいいけど……今そんな物まであるの?」

 私が子供の頃は、りんご飴が主流でいちごやぶとうなんて物はなかった。時代の変化をヒシヒシと感じていると、我慢がならなくなったのか二人が空いている私達の手を掴み出店まで誘導する。現在地から直ぐの距離にあった出店の店主は、私達の手を引いて来た二人に「おお、戻って来たか」と声を掛けた。どうやら財布を持っていない事を忘れて、一度買いに来たらしい。なるべく非術師と関わりたくないであろう夏油君に変わり、少々恥ずかしい気持ちになりながら財布を取り出す。

「先程は、この子達がすみませんでした。お幾らですか?」
「はあ、大人を連れて来るって言ってたけど随分若いお父さんとお母さんだねぇ」
「えっ」

 店主の言葉に思わずギョッとしてしまうが、返事をするよりも先に値段を告げられ、小銭を渡した。美々子と菜々子は、今の言葉を聞いていなかったのか何の否定もせずにそれぞれ飴を手にご満悦だ。その後ろの夏油君も同じ。嬉しそうな二人にニコニコと笑うばかりでこちらの会話に入って来る気配はない。

「夫婦、娘さん達揃って美男美女の絵に描いたような家族じゃないか。はい、これおまけ」
「え、あ、いや、そんな」
「いいって。失敗した飴で悪いが食べて下さいよ」

 いや、私が言いたいのはそちらではなく。結局、満足な否定も出来ずに手渡されたりんご飴を持って三人の元へ戻った。それぞれ飴に噛り付く二人は、私の手にりんご飴がある事に気が付くとパチパチと瞬きを繰り返す。

「名前も食べたかったんだ」
「いや、これはおまけに貰ったの」
「名前、一口食べたい」
「あ、私も!」
「ああ、はい。どうぞ」
「名前もぶどう飴一個食べる?」
「いいよ。美々子が食べなさい」

 一口ずつ齧られて歪な形になったりんご飴を手に参道へと戻る間際、店主が手を振ってくれたので会釈を返す。それぞれ飴を口に含みながら次の出店を物色する二人は、もう走って行く気はないようで仲良く手を繋いだままキョロキョロと左右を見渡していた。

「ねえ、夏油君」
「ん?」
「私って、あの子達の母親に見えるんだね」

 私と横並びに二人を追いかける夏油君は、あの子達を見失わぬ距離を保ったまま私の言葉に首を傾げた。

「今更?」
「今更なんだ……」
「まあ、年の差が近すぎるから実際には難しいところだけど、さっきの非術師には君の態度もあって、私達があの子達の親に見えたんだろうね」

 どうやら先程の会話はちゃんと聞こえていたらしい。どうせなら否定でもなんでも助け舟を出してもらいたかった。心に沸く苦い気持ちを晴らすようにりんご飴に噛り付けば、甘い飴の味と林檎の味が口の中に広がる。

「私としては君の反応こそ疑問なのだけど」
「なにが?」
「私がそんな年に見えるのかーって怒らないんだな、って思ってね」
「はあ……まあ、そうだね。私が本当にあの子達の親だったら十四歳で産んだことになっちゃうけどありえない話ではないんじゃないかな、と」

 昔、放送されたドラマでも似たような内容の物があったくらいだ。探せば、そのくらいの年頃で母親になった女性だっているだろう。
 飴を噛み砕く。ほろ苦い味がした。すっかりただの棒になったそれを通りのごみ箱へ投げ入れる。

「でも失礼だとは思うかな」
「うん?」
「あの子達の本当のご両親に。私なんかが母親面したら申し訳ないじゃない」

 そう口にした途端、夏油君がピタリと足を止めた。釣られて私も足を止める。美々子と菜々子は気づいていない。あの子達がまた見えなくなってしまうから早く先へ行きたいのに彼はジッと私を見据えたまま動こうとはしなかった。

「君の言う通り、あの子達の本当の親はもう他界している別の二人だ。私達と同じこちら側の人だったと聞いた。あの村の連中に殺されたのだろう、幼い我が子を残して逝ったんだ。さぞかし無念だったと思う」
「夏油君、なに、急に?」
「それでも、私はあの子達の母親は名前だと思っているよ。正確には母親代わりだけど、約十年間男の私では補えない部分を助けてくれたのは他でもない君だ。そこは否定しないでもらいたい」

 夏油君の声は淡々としていたけれど有無を言わせぬ響きを持っていた。彼は、私からの返事を欲してはいなかった。ただ、自分が言いたかった内容を全て吐き出して、それで満足してしまった。後方で立ち止まっていた足が前へと進み、私の手を取って先へと進む。美々子と菜々子が私達を呼んだ。それに片手を上げて応える夏油君の顔には、もう笑みが浮かんでいる。
 二人が次に目をつけたのは綿あめとクレープの屋台だった。財布を取り出そうとすれば夏油君が片手で制して、さっさと代金を支払ってしまう。それぞれ綿あめとクレープを手に入れた二人は楽しそうに笑いながら、たまに交換をして夏祭りを満喫しているようだった。対して私はぐるぐると思考の渦に飲まれたまま、楽しめる余裕はない。二人に余計な心配はかけたくないので、時折差し出される甘いお菓子に舌鼓を打ちながら、先程の夏油君の言葉を反芻していた。

「二人とも、食べすぎはよくないよ。帰ったら名前が用意してくれている夕飯があるんだからね」
「はーい」

 ああ、そうだ。帰ったら準備して来た夕飯を温め直さなければならないのだった。
 現実に引き戻され、スマホを立ち上げてみれば現時刻は十九時半。夏祭り最大のメインイベント打ち上げ花火はあと十五分後にお社の裏から打ち上げられる予定だ。そうこうしている間に町内役員のアナウンスが掛かり、来場客は皆花火を見ようと思い思いの場所へと散って行く。一番の特等席は本殿のある高台なのだが、あそこは既に人で溢れているはずだ。せっかくなら二人に綺麗な花火を見せてあげたいし――と悩んでいると、夏油君が繋いだままだった私の手を引いた。

「さ、特等席へ行こうか」

 そうして手を引かれるまま、現在私は空中にいる。正確には、夏油君手持ちの飛行型の呪霊の背中に乗っている。

「た、高ぁ……」
「名前、そんな端っこいると落ちるよー」

 呪霊に乗るのは慣れっこなのだろう、菜々子が茶化すように声を掛けてくるので急いで真ん中へと移動した。エイのような呪霊は、高専時代には既に入手していたようで夏油君の指示をよく聞いた。非術師達に見つからない位置でふわふわと浮かび、ちょうど視線の先には花火が打ち上がるだろう空だけがある。なるほど、確かに特等席だ。こんな場所での花火鑑賞、夏油君以外は出来そうにない。

「名前、怖いなら私に掴まりな」

 美々子と菜々子は呪霊の頭部付近の前方に、中腹に腰掛けた夏油君が苦笑しながら手を差し出してくれたので先程の悩みも忘れて素直に縋り付いた。腰へ回された逞しい腕が高所に怯える私の身体を引き寄せる。夏油君の身体にしがみ付くようにして前方を見れば、一瞬振り返った二人がにやりと笑った。
 スマホの時計が四十五分を報せる。一気に周りが暗くなった。シン、と静まり返ったのは一瞬で、暗くなった視界に突然色とりどりの光が散らばる。腹の底まで轟くような音と共に夜空を彩る花火はまさに圧巻の一言だ。次々に打ち上がっては儚く散って行く空の花に言葉を忘れた。
 前方の二人が歓声を上げる。瞳を輝かせてこちらを振り返り「すごい」「綺麗」と興奮したように話しかけて来る。頭上を見れば、夏油君がそんな二人に優しく頷いてあげていて気が付けば頬に涙が伝った。

「え、名前、泣いてんの!?」
「涙腺、緩くなった?」

 思えば、この子達の前で泣いたのは去年の春に制服姿を見た時以来だ。すっかり花火を忘れて慌てふためく美々子と菜々子は危ないのにこちらへと移動して来ようとする。予感は的中。慌てたせいで足を滑らせた菜々子の身体を咄嗟に抱き留めた。私の腰には夏油君の腕が回ったままなので菜々子諸共私が空に投げ出される事はない。

「セーフ……」
「セーフじゃない! 危ないでしょう、ちゃんと足下は確認しなさい!」
「ご、ごめんなさい。名前、怒らないでよぉ」

 花火の美しさも忘れ、すっかり胆が冷えてしまった。腕の中に抱き込んだ菜々子の身体は熱く、心臓はドクンドクンと脈打っている。対して私の身体は冷たい。極度の緊張で指先は冷たくなってしまって、足にも感覚がない。離さない私に只事でないと悟ったのだろう。逃げ出す事も忘れ、菜々子はおずおずと私の胸に顔を埋めた。

「……菜々子も反省しているようだし、もういいんじゃないかな。ほら、顔を上げて。花火が終わってしまうよ」

 そうやって暫く抱き合っていたように思う。多分、夏油君が声を掛けてくれなければ私は菜々子を離す事が出来なかった。そうっと腕を離すと、菜々子が鼻を啜って私の腕に掴まったまま空を見上げる。美々子が心配そうにこちらを伺っているので、歪ではあるかもしれないが笑みを作り「ごめんね、吃驚させたね」と告げれば勢いよく首を横に振ってくれた。
 最後の一際大きな花火が夜空に打ち上がる。四人でそれを見上げ、花弁が散って消えて行くまでずっと眺め続けた。

「また来年も見に来よう」

 花火が終わり、周囲にはまた光が点り始める。腕にしがみ付かせた美々子の頭を撫でてあげながらそう囁く夏油君の表情はとても優しい。
 ぬるい夜風が冷たい頬を慣らしていく。過ぎ行く夏の気配を感じながら私はそっと目蓋を閉じて頷いた。

20210328