大人と子供


 やけに見晴らしの良い場所だなあ、なんてなんとも呑気すぎる感想しか抱けなかった。
 病院の物とは違うふかふかの枕から頭を上げて揺れるレースの隙間から覗く景色を正面に、常にも増して回らない思考は現実逃避に他ならない。服装は昨日病院を出た時のまま、上から羽織っていたスプリングコートだけは皺にならないようハンガーにかけられている。そんな気遣いを蘭くんがしてくれるとは思えないので、脱がせてくれたのはきっと弟の竜胆だろう。現時刻は朝の十時を回ったところ。寝すぎた頭はガンガンと痛み、側頭部を片手で押さえながらベッドから足を下ろした。
 六畳ほどの部屋はベランダに面しており、レースと薄いグレーのカーテンがつけられた大きな窓が目立っている。あとはシングルサイズのベッドとドレッサー、ワークテーブルにクローゼット。どれも馴染みのない家具だったけれど、そのどれもが高級品である事は素人目でもすぐに分かった。それでもここが私の部屋なのだと悟る事が出来たのは、テーブルの上に置かれたフォトフレームを見たからで。そっと指を伸ばして硝子製のそれを持ち上げる。写真の中にいたのは私と蘭くんだった。見覚えがある。だってこれは、つい先日、高校の入学式の後、竜胆に言って撮って貰った写真だからだ。長く伸ばした髪を三つ編みにしてシャツを第一ボタンまでしっかりと閉めた私が、蘭くんの腕にしがみついて笑っている。写真を撮りたいと提案した時、蘭くんは面倒だからと嫌がっていたけれど、元々格好つけのきらいがあるからカメラを向けると当然のように私の肩を抱いてくれた。
 綺麗なフレームに飾られた写真は、端が丸まり過ぎた年月を感じさせる。自然と握りしめていた携帯を見た。二〇一七年四月――何度見ても表示される日付は変わらない。今の私は二十八歳。十六歳の私は、今から十二年前にしか存在しない。

「意外と起きるの早かったな」

 部屋を出て廊下の先にある扉を開くと、広々としたリビングが広がっていた。記憶しているより随分と薄くなった大きなテレビの前、革張りのカウチソファに腰掛けていた竜胆が首だけをこちらへ向ける。ジャケットとベスト、ネクタイはダイニングテーブルの椅子にかけられていて、第三ボタンまで開かれたシャツの隙間からは見慣れた入れ墨の末端が見えていた。

「兄貴ならまだ寝てるぞ」
「……私、なんも言ってないのによく分かったね」
「何年の付き合いだと思ってんだよ。顔見りゃ分かるわ」

 リビングまでの廊下にもう一つ扉があったから、蘭くんはきっとその部屋で寝ているに違いない。十二年経っても朝に弱い夜型なのは相変わらずのようで、私の知る彼がまだいる気がして少しだけ安心する。

「竜胆は起きるの早かったんだね。今も蘭くんのこと起こしてあげてるの?」
「はあ? ああ、そうだった……記憶喪失って厄介だな」
「ん?」
「言っておくけどオレはここに住んでないからな」
「え」

 首だけでなく上半身もこちらへ向けた竜胆は、ソファの背もたれに片肘をついて心外だと言うように表情を歪めた。私の知る竜胆なら、それに合わせて眼鏡を押し上げているところだ。「ありえねぇ」とか「普通考えたら分かるだろ」とか、独り言のように悪態をついた竜胆が垂れた目で私を見上げる。舌打ちしながら手招きをされた。のこのこと近づいてその場に膝をつく。

「兄貴はもう三十。オレは二十九。さすがに十代の時みたく一緒には住んでねぇの」
「まあ……そう、だよね」
「で、オマエはここに住んでんの。と言う事はぁ?」
「…………」
「おいこら、露骨に目ぇ逸らすな」

 脳裏に浮かんだ答えは多分正解だ。思わず視線を逸らし逃げをうった私の頭を竜胆の手が掴む。抵抗しようとしても無駄な足掻きだ。竜胆は、昔から身体を鍛えていて細身の蘭くんよりも力が強かった。正面に戻された視線の先、竜胆は蘭くんと同じ紫色の瞳で私を見据え死刑宣告を下す。

「自分の旦那は自分で起こして来いや」



 大して用もないのなら気が済むまで睡眠を貪っていても良いのではないだろうか。
 そんな言い訳はにべもなく却下され、現在私は蘭くんの部屋だという扉の前に立っている。ゴクリと生唾を呑んだ。二十八の私は、とんだ役目を負わされているらしい。
 基本的に寝起きの蘭くんは機嫌が悪い。起こすのはいつだって竜胆の役目で、一度の呼び掛けて起きてくれた回数は片手で数えられるほどしかなく、二度目ならば大成功。三度前で起きてくれればいつもの事。四度目で起きてくれなければ実力行使。なお、この実力行使が一番厄介だ。長い髪の隙間から覗く据わり切った瞳の恐ろしさと向かって来る拳のスピードは、実の弟であり喧嘩慣れしている竜胆でなければ対処できない。
 とりあえずノックしてみた。勿論返事はない。再度ノックをする。今度は同時に「蘭くーん」と呼びかけてみた。返事は、ない。

「……」

 腹を括るしかなかった。肩を落としてリビングへ戻ったところで、ソファに転がった竜胆に私を助けてくれる気は一ミリもない。要するに逃げ場はない。
 扉を開けた。やけに重たく感じられたのは、私の精神面がそれだけ弱っているからだろう。主寝室と思われる広い部屋は殺風景だった。窓際に置かれたキングサイズのベッドの他には携帯の置かれたベッドサイドテーブルとあまり使われた痕跡のないデスクだけ。カーテンは閉め切られ真っ暗な室内で恐る恐るとベッド上の膨らみへと近づいて行く。
 私の部屋の物と同じ肌触りの良いシーツに寝そべった蘭くんは、綺麗にセットしていた前髪を下ろしていて実年齢より幾つか若く見えた。枕の一つを片腕に抱いて長い睫毛を伏せた彼は、至近距離にいる私に気づく様子はない。規則正しく上下する肩の骨の出っ張りに何故かドギマギして、伸ばした手はじんわりと汗をかいていた。

「朝だよー、起きてー」

 まずは軽く肩を揺さ振ってみる。竜胆なら「兄ちゃん、朝!」と大声で叫ぶところだけど、生憎小心者の私にそんな真似は出来ない。けれど、こんな呼びかけであの蘭くんが起きてくれるはずもなく、次は少しだけ大きな声で呼んでみる事にした。

「お、起きない」

 だが、結果は同じ。二歳年上の幼馴染は、困り果てる私に気づく事もなくスヤスヤと安らかな寝息を立て続けている。
 こうなればさっさと終わらせた方がいい。そう思っているのに昨晩、舌を噛んでしまったあの瞬間が脳裏を過ぎり決心を鈍らせる。寝起きの悪い蘭くんだから、昨晩の仕返しと今になって拳を振り上げてくるかもしれない。女性、しかも幼馴染である私相手でも容赦ないところがあるからな、この人。痛いのは嫌いだった。今まで何度か灰谷兄弟を憎む不良たちに殴られた事があるけれど、あの瞬間の衝撃や痛みはいつまで経っても慣れないし自然と涙が零れる。その痛みを思い出して身震いしつつ、蘭くんの腕にホールドされた枕を掴み、勢いよく引き抜く。すると閉じられてビクともしなかった蘭くんの目蓋が開いた。寝惚けた顔をして空になった自身の腕を確認し、次に枕を掴んだまま不自然な体勢でいる私を見上げる。

「名前?」

 予想に反して蘭くんは拳を振り上げる事はしなかった。代わりに掠れた声で私の名前を呼んで、無防備な腰に腕が回される。腰を引かれ、足を縺れさせた私の身体は、受け身を取る事も出来ずにベッドへと倒れ込んだ。ちょうど蘭くんの上に落ちる形になって、咄嗟に肘をついて衝突を食い止める。勢いを受け止めたマットレスは耳障りな音を立てて僅かに揺れた。その揺れに合わせるように私の心臓はバクバクと音を立て、対するこの状況を作り上げた張本人は、私の腹部に秀でた鼻先を埋めている。薄く開かれた目蓋の隙間から視認できる瞳はまだ眠そうにゆらゆらと揺れて、やがて朝から逃れるように目を閉じた。

「いやいや、寝ないでよ!」
「うるせぇなー、もう少し寝かせろよ」
「もう十一時だからね!? 竜胆も待ってるから、ほら、起きて!」
「竜胆ぉ? なんであいつが家に……ああ、そうか」

 弟の名前が出た事が意外だったのか、今度こそ目蓋を開いた蘭くんはひとり納得したように呟いて上半身を起こした。どうやら上着を着る事もなく眠っていたらしい。露になった上半身には見慣れた蜘蛛の半身が長い脚を伸ばしていて、喉元には新しく花札のような入れ墨が彫られていた。確か竜胆も喉元に同じ入れ墨があったはずだ。
 大きな欠伸を零しながら背伸びをした蘭くんは、ベッドから下りると座り込んだままでいる私の首根っこを掴み上げる。そのまま引きずられるように連行されたのは先程旅立ったばかりのリビングで、ソファに寝転んでいた竜胆は驚いたように瞬きを繰り返した。

「名前、それ首締まってね?」
「締まってない。それより、今日ってなんか予定あったっけ?」
「いいや。つーか、自分の予定くらい把握しとけよ」
「名前が使い物にならないんだから仕方ねぇだろ」

 頭上で談笑するのは良いが、実際首は締まっているし何よりこの体勢地味に身体が痛い。よく知る三つ編み姿の蘭くんが「名前ー、死ぬなよー」と他人事のような口調で手を振っているのが見えた。さながら走馬灯のようである。

「おーい、人の事叩き起こしといて寝るなよー」
「ねてないよ」

 ようやく解放され勢いよく後頭部をフローリングに打ち付けた私を、竜胆が哀れなものを見るような目つきで見下ろしている。そんな目で見るくらいならば、始めから自分で起こしに行ってもらいたかった。

 蘭くんはそのままシャワーを浴びに、浴室へ向かってしまったのでリビングには私と竜胆だけが残された。竜胆はソファに、私はダイニングテーブルに腰掛けたまま静まり返った室内で思い思いに時間を潰す。先に口火を切ったのは、手慣れた様子で携帯を操作していた竜胆だった。

「名前」
「なに?」
「本当に何も覚えてないわけ」
「覚えてないよ。私は、十六までの記憶しかない」

 手持無沙汰に開いた雑誌に載っている洋服は、馴染みのある二〇〇五年の物とはまるで違っていてオシャレかどうかなんて分からない。流行っている派手なメイクも、髪も、服も、なにもかもが遠い昔のように扱われていてまるで別の世界に来たかのようだ。

「ねえ、竜胆」
「なんだよ」
「私、なんで病院にいたの」

 竜胆は、その問いに指先の動きを止めた。私の位置からは背中しか見えないけれど、表情を強張らせたのは雰囲気で察する事が出来る。

「蘭くん、担当医に「眠っている間なんも出来なかったくせに」って言ってたの。私、どのくらい眠ってたの? なんで、そんな事になったの?」

 昨日、目が覚めてからずっと聞きたかった内容を今、ようやく問い掛けている。相手は看護師でも医師でも蘭くんでもなかったけれど、竜胆はきっと答えてくれる。そう思ってさらに問いを重ねた。

「病気? それとも事故? 蘭くん、私からプロポーズして籍入れたって言ってたけど、それって本当なの?」

 それなのに竜胆は、なにも答えてくれない。記憶しているより更に広くなった背中は岩のように動く事はなく、表情も読めなくなって焦りが募った。このままお行儀よく座ってなんていられなくてその場に立ち上がる。これでは、なにか私に隠していますと言っているようなものだからだ。

「りんど、」
「オマエは、一週間前に職場の非常階段から転がり落ちて頭ぶつけて眠ってたんだよ」

 答えを返してくれた声は、竜胆のものではなかった。私の背後、廊下から繋がる扉を開けた蘭くんが、タオルで濡れた髪を拭きながら更に唇を動かす。

「つーか、まだ結婚してる事疑ってるわけ? いい加減にしないとオレでも流石にキレるぞ」
「だって記憶にないし……それに蘭くんが、私と結婚なんてしてくれるはずないって思うし……」
「ふーん」

 蘭くんが目を細める。その表情がやけに冷たく見えて途端に背筋が凍り付いた。スリッパなんて履いていない素足が、どんどん私に近づいて来て目の前で止まる。竜胆は何も言わない。こちらを見ている気はするけれど、蘭くんから視線を逸らす事も出来ない今確かめる事は出来なかった。
 正面からしっかりと見据えた蘭くんは大人だった。私の知る灰谷蘭よりさらに身長は高くなり、肩幅も広くなったように思える。短くなった髪も、骨張った大きな手も、顔つきだって十代の幼さはどこにもない。だから、まるで違う人を見ているような気持ちになる。私が憧れた蘭くんは、もう私の中にしかいないのだと暗に告げられたようで胸が苦しくなった。

「どうやったら納得できんの?」
「え、どうやったらって」
「オマエは、オレがどうしたら今を受け入れられんの?」
「分かんないよ」

 私の要領を得ない返事に気を害する事もなく、蘭くんは一つ頷いて腰を屈めた。ちょうど視線を合わせる形になって胸の苦しさが少しだけ減った気がした。

「じゃあ、聞き方変えるから「はい」か「いいえ」で答えろよ。まず、三十になったオレが嫌?」
「違う、けど……違和感はある」
「髪が短いのが?」
「うん……」
「ならウィッグでも買ってやろうか。昔みたく三つ編みにしたら少しは落ち着く?」
「い、いいよ! そこまでしてもらわなくてもいい」

 必死になって首を横に振った。確かに蘭くんが記憶している彼と同じ姿になってくれれば少しは安心するのかもしれない。けれど、そんな事は気休めにしかならないし、なによりそこまで迷惑をかけるのは気が引けた。それから幾つか質問が繰り返された。

 一緒に住んでるけど、それは嫌か――元々、私は二人の住んでいたマンションに入り浸っていたからそれはない。
 竜胆も近くにいた方が安心するのか――それは多分そう。大人の蘭くんと二人きりと言うのは緊張してしまうから。

「最後。オレと結婚したくなかった?」

 その質問を聞いた途端、心臓が大きく跳ねたのが分かった。どう答えたらいいのか分からない。確かに私は、蘭くんの事が好きだった。初恋だった。憧れだった。だから髪も伸ばしたしどこに行くのだってついて回った。何時まででも隣に立っていたかった。けれど、その感情の行きつく先に結婚という法律上の縛りが欲しかったのかと問われると、すぐに首を縦に振れない自分がいる。

「ううん、それは、嫌じゃない」
「そ。ならよかった」

 ただ、その位置に収まった自分がひどく醜く思えるだけで、結婚という事実を嫌がっているわけではないのだ。小さく首を横に振ると、蘭くんは昨晩のように少しだけ微笑んだ。昔を懐かしむような妙に甘い目つきをして、縮こまる私の頭を乱雑に撫でる。

「てなわけだから離婚はなしなー。安心したか、竜胆?」
「へーへー。新婚早々バツ一にならなくてよかったな」
「まあなー。結婚一週間でバツ一は流石にオレもショックだったし、名前が良い子でよかったわー」

 頭を撫でられながら首を傾げた。今、彼は結婚一週間と言わなかったか。

「一週間……? 私が非常階段から落ちたのも一週間前なんだよね?」
「そうそう。オマエ、結婚早々事故ってんの。新婚旅行先が病院なんて本当勘弁しろよなぁ」
「勘弁してほしいのはオレだよ。兄貴の結婚とオマエの事故、両方いっぺんに聞かされて運転手代わりにされたこっちの身になれよな」

 記憶がないとは言え、それに関しては竜胆に同情せざるを得ない。悪態もつきたくなるだろう。ふにふにと私の頬を引き延ばす蘭くんの手から逃れるべく顔を逸らしながら情報を整理する。今は十二年後で、一週間前に私は蘭くんと結婚して、その当日に非常階段から落ちて意識を失って、昨日目が覚めて記憶喪失という事になっていて――こんな濃い一週間、すぐに受け入れられるはずもない。

「指輪をつけてない理由もこれで分かった?」
「……うん。私が、指輪も用意せずプロポーズ、したってことだよね?」
「ぷっ、あは。なに、オマエ、オレに指輪買ってくれんの? うれしー」

 明らかに金を持っていそうな蘭くんに見合うだけの指輪を購入できるだけの貯金が、今の私にあるかどうかなんて分からない。それでもプロポーズしたのが私の方からならば指輪を用意するのは当然私の方ではないのか、なんて妙な固定概念だけが先走る。ケラケラとお腹を抱えて笑う蘭くんが、長い腕を私の肩へ回して後頭部に頬を寄せた。お風呂上りの蘭くんからは、とても良い匂いがするものだから落ち着かない。

「よしよし、じゃあ今日は名前チャンのために指輪買いに行こうなぁ」
「う、私でも買えるくらいのブランドでお願いします」
「えー、オレどうせならこういうのが良いんだけど」

 そう言って細長い指が指示したのは、先程まで私が目を通していた雑誌で。誰もが知っている有名な高級ブランドの指輪と、小さく書かれた値段に血の気が引いた。貯金通帳を見なくても分かる。こんな物、逆立ちしたって買えやしない。

 指輪購入の恐怖で強張る私の身体は、ひとまずシャワーを浴びてこいと浴室へ押し込まれた。何度も並んだ数字の羅列を反芻しながら、髪を洗い、身体を洗い、蘭くんと同じ香りを纏わせる。ふわふわの真っ白なタオルで身体を拭いて、リビングへ戻れば既に竜胆はいなかった。どうやら近くに住んでいるらしく今日はもう自宅へ戻ったらしい。
 予想に反して蘭くんは始終上機嫌だった。「どうせ化粧も何も分からないんだろー、十六のオマエただのイモだったもんな」と口では馬鹿にしながら私の湿った髪を手早く乾かして、慣れた手つきでスキンケアを施しメイクを乗せる。ブラウンのアイシャドウを塗ってマスカラまで施されるのは恥ずかしくて、自分でやると口にすれば即座に却下された。どうせパンダになるだけだ、と言い切られたが実際そうなる可能性が高いのでぐうの音も出ない。

「蘭くん、慣れてるね……記憶がなくなる前の私にしてくれてたの?」
「んー、いいや、久々。オマエが社会人になりたての頃はお遊びでたまにやってやったけど、流石に二十八にもなってオレに全部世話されるほどオマエ餓鬼でもなかったし」
「うう、今の私は餓鬼って事か」
「そりゃあ、まあ。十六だし」

 出来た、と肩を叩かれて目を開ける。鏡に映る自分の顔は、スッピンのものより遥かに見栄えして見えた。ナチュラルなメイクは、雑誌で見た最新のトレンドをしっかりと押さえていて、それでも埋没しない個性が覗いていた。十代の頃から人よりオシャレだった蘭くんは、十二年もの間にメイクの腕前まで磨いていたらしい。

「流石オレー。あ、服はこれな」

 差し出されたハイウエストのマーメイドスカートと袖が膨らんだブラウスは、見るからに上質そうな光沢を纏わせていた。蘭くん曰く、私のクローゼットの中からまだまともそうな服を選んだそうだ。と言う事は、こんな服を買えるくらい私も少しは稼いでいるのだろうか。指輪の金額にすっかり萎んでいた希望が僅かに首を上げ、長袖のシャツを着た蘭くんに腕を引かれるようにしてマンションを出た。
 そして、見た事のない強面の男性が運転する高級車に揺られ訪れた店で、僅かに残った希望は一瞬にして潰えた。スーツを着た店員さんの笑顔が眩しい。和やかに談笑する蘭くんの声が遠く聞こえる。指輪のサイズを確認されて、奥のテーブル席へ案内されて、黒塗りのケースに収められた指輪を幾つも見て。蘭くんが、これが良いとか違うとか次々と却下して行って、最後に残された銀色の光を見た時、もう私は何も言葉を発せなかった。

「では、これで」

 他所行きの顔をした蘭くんが、目玉が飛び出るような金額の指輪を指差した。逆立ちどころではない。全身の臓器を売ったって買えないような品物だ。完全に血の気が失せて、今にも倒れそうな中、店員さんが席を離れた隙に横のジャケットの裾を引いた。

「き、きんがく」
「ん? あ、もしかしてオマエ本当に払うつもりだったわけ」
「はい? え、そりゃあ、まあ、そうですけど、え?」
「馬鹿正直すぎて呆れるわぁ」

 ブランド物と思われる高級そうな指輪のはまった指が手加減なく私の額を打ち据えるのと、店員さんが戻って来るのはほぼ同時だった。そこからはあれよと言う間に、蘭くんがクレジットを切って、店名のロゴが入った袋を渡されて、店長と思われる妙齢の男性から「素敵な旦那様ですね」なんて声をかけられて。気が付けば、行きと同じ車の中、空だった左手薬指にはあの高価な指輪がつけられていた。

「もう結婚してないかもなんて疑うなよ」

 視界の端では、あの黒色に白い文字のロゴが描かれた箱が転がっている。いくら箱とは言え、本来ならばそんな風に無造作に投げて良いような物ではないはずなのに、蘭くんからすれば、ただの包みでしかないのだろう。
 車中から臨む六本木は、今日も人で溢れ返り、その誰もが笑顔を浮かべて往来している。そんな中、繋がれた左手の重さを持て余す私だけがひどく異質なもののように思えてならなかった。

20211031