飛び越えたその先に


 静まり返った総合病院の廊下にブーツが床を叩く音と、私のローヒールパンプスの駆ける音が響き渡っている。道行く病院職員たちの好奇の目に晒されても表情を崩さない蘭くんは、片手で私の荷物を一纏めに持ち、先にエレベータへと乗り込んだ。ドアが閉まる間際、顔色の戻らない医師が深々と頭を下げているのが見えた。アナウンスと同時に私達ふたりの入った箱が一階を目指して降下を始める。横に立つ蘭くんは、腰に片手をあてて高級そうな腕時計へ視線を落としていた。

「二十時かぁ。名前、飯は?」
「え、あんまりお腹空いてないし……色々衝撃的すぎて」
「そ。なら直帰でいいな」

 あんな衝撃的な出来事があったにも関わらず、平素を保っている蘭くんにらしいと言えば良いのか、恐れ戦けばいいのか分からない。
 一階です。機械がかったアナウンスが響き、ドアが開いた。当の昔に外来診察を終えた病院のロビーは病棟以上に静まり返っているし、なにより人気もなく薄暗い。それを臆することもなく病院玄関へと向かう蘭くんの背を追いながら、私は肌を突き刺すような静けさにひとり怯えていた。
 玄関を出ると、今度は夜風の冷たさが肌を刺した。一応スプリングコートは着ているけれど、それでも寒さを感じるのは所謂病み上がりだからだろうか。早くタクシーなりなんなりに乗り込みたいのに、蘭くんはその場から動こうとせず、慣れた様子で携帯を操作して「もう着くってよ」と白い歯を見せて笑った。

「着くって、なにが?」
「迎え。ほら、来た」
「え、あの車?」

 病院の広いロータリーを回って玄関前へ向かってきてるのは、いかにもと言いたくなるような黒いボディの外国車だった。高級車として有名なマークに慄く私を置いて蘭くんは、到着した車の後部座席に乱暴に荷物を放り込む。一応鏡などの割れ物も入っているので、もう少し丁重に扱ってほしい。
 蘭くんは、運転席の男性と一言二言交わした後、棒立ちでいる私の腕を当たり前のように引いた。腰を押され、さながら誘拐される女子高生のように強引に後部座席へと押し込められる。その際、自分の荷物と顔面が衝突したにも関わらず、蘭くんは悪いの一言もなしに私の横へ座るとドアを閉めて「出して」と発車を命じた。
 高級車は重たいエンジン音を響かせて病院敷地内を出た。ようやく座席に座り直して、ちらっと横の蘭くんを盗み見る。どうやら現在、私に興味はないらしく、海外モデルのように長い足を組んだまま何を考えているのか分からない目をして窓の外を眺めていた。次に私が視線を向けたのは、勿論運転席の男性だ。蘭くんとよく似たスーツを着たウルフカットの男性。髪色も蘭くんと同じ紫色で部分的に暗色に染め上げているのが見て取れる。次いでフロントガラスに目をやった。視線が合う。垂れた紫色の瞳と吊り上がった眉を見た途端、もう一人の幼馴染の名前が口から飛び出した。

「竜胆!?」
「うわ、オレの事は分からなかったのに竜胆の事は分かるとか悲しーわ」
「いや、だって、え、本当に竜胆?」

 横で茶々を入れてくる蘭くんは一先ず置いておいて、運転席の竜胆らしき人物をよく見るために身体を前へ倒す。そうすると今度は、横から腕が伸びて「危ねぇから座っとけ」と座席へ引き戻される。けれど、その間際また視線が合った。とても不機嫌そうな面持ちだった。

「……記憶喪失とかなに。笑えねぇんだけど」
「そうかぁ? こんな機会そうそうねぇし、十六の名前チャンと楽しくお喋りしとけよ、竜胆」
「そうそうどころでなく、こんな機会なくていいんだよ。兄貴のそういうとこ、本当どうかと思う」

 蘭くんに対するあしらい方で確信した。竜胆だ。この男性は、間違いなく蘭くんの弟である灰谷竜胆だ。十二年間の月日の間に兄同様見た目は大きく変わってしまったけれど、性格そのものはあまり変わっていないようで安心する。
 ケラケラと笑っていた蘭くんも次第に話題に飽きたのか、今は座席で縮こまる私の髪を指先に巻き付けて遊んでいる。それがちょうど左手だったから、恐る恐ると薬指へ視線を向けた。しかし、目に入ったその長い指の根本には思っていた物は存在しなかった。ついでに言えば跡もない。となると、やはり先程の医師との会話で飛び出した衝撃的事実は、ただの作り話だったのだろう。そう、自分を納得させようとした時だった。

「指輪がなくてショック?」
「え!?」
「そうかそうか。そうだよなぁ、せっかく大好きな蘭くんと結婚してるって知って喜んでたのに指輪がないのは悲しいよなー」
「ち、ちが! と言うか、私、け、結婚なんて信じられないし」

 まともに話してくれそうにもない蘭くんから逃れたい一心で、助けを求めるべく視線を投げたのは、運転席の竜胆だった。蘭くんの弟、灰谷兄弟の片割れとしてなにかとヤンチャしていた竜胆だけど、蘭くんより三割ほどは常識的だと私は思っている。だから今回も助け舟を出してほしくて必死に、その紫色の後頭部へ視線をぶつけた。
 しかし、それが良くなかったらしい。私のこの行動は、蘭くんの尺に触ってしまったらしい。大きな掌が頬を鷲掴む。ちょうど両頬を押さえ込まれる形で、蘭くんの整った爪先が皮膚に喰い込むのが分かった。

「誰がよそ見して良いって言った? なあ、そのすっからかんになった頭でよーく聞いとけよ? オマエは、確かにオレと籍を入れてんの。ちなみにプロポーズ決めて来たのはオマエからで、現在のオマエのフルネームは灰谷名前。分かったか? ん?」

 私を見下ろす蘭くんの目は瞳孔が開いていてひどく恐ろしいものに見えた。ゴク、と生唾を呑む。元々、蘭くんは相手が女性だからと容赦するような男性ではない。また、沸点の位置も定かでなく、絶対にキレると思ったところは笑って流し、かと思えば些細な事で怒りを露わにする難解な性格をしている事を私はよく知っている。そして、時としてその怒りは私へ向く事も分かっていた。

「兄貴、それくらいにしとけって。そいつ病み上がりだろ」
「夫婦間の問題に口出すなよ、竜胆」
「なら端から巻き込むなよ。こっちだって幼馴染が事故ってしかも記憶喪失だなんて混乱してんだ。人の車の後部座席で嫁殴る実兄なんて見たくねぇんだよ」

 竜胆の言う事は尤もで、私が待望していた助け舟に他ならなかった。蘭くんは、温度のない目で私を見下ろしたまま、長い睫毛に封をするように目蓋を伏せて上体を前へ倒した。ちょうど私の真上に、である。頬を掴まれている以上、逃げる事など出来る筈もなかった。形の良い少し厚めの唇が私のソレを塞いでいた。鼻孔を擽る重めの香水の香りは、蘭くんのものに他ならず、なんとか逃げだそうと自由な両手で突っぱねようとすれば今度はそれを一纏めに押さえ込まれた。足の間には蘭くんの膝が割り込んでいて、もう片方の膝も私の太腿の上に乗っているのだから身動きなど取れるはずもない。
 どれほど唇を合わせるだけの時を過ごした事だろう。実際は数秒なのだろうけれど、私からすれば数時間にも感じられた。前方から竜胆の呆れ混じりの声が聞こえるけれど、内容を理解する事は出来なかった。蘭くんが、頬を押さえている手で私の唇に爪を立てたからだ。

「ンンー!」

 鋭い痛みと口内に広がる血の味に唇が切られた事を知る。やりやがった。地味に痛いんだぞ、それ。心の中では罵倒できるのに実際は声にならないのがもどかしい。まあ、実際唇が解放されたところでこの灰谷蘭という男性相手に罵倒できるだけの勇気は私にはないのだけど。
 そうしている内に事態は悪化の一途を辿る。ぬるついた何かが口内に侵入してきたのだ。何かではない、舌だ。分かった途端、頭が沸騰するかと思った。とは言え、両手両脚ともに塞がれた私に抵抗する術はなく、すっかりパニックに陥った私は咄嗟に唯一自由の効く武器を使う事とした。

「イッ……!」

 歯だ。以前、これを教えてくれたのは蘭くんだった。灰谷兄弟に近い女としてなにかと付け狙われる事の多い日々を送る私に最後は歯を使えと彼自身が告げたのだ。殴られてもいいから相手の舌でもブツでも腕でも足でも、とにかく全て噛み千切ってやるつもりで歯を立てろ。頭の中の中心にいる三つ編みの彼が強い口調で命じていた。
 口内に私の物ではない血の味が広がった。身体は離れて、やっと楽になった唇で深呼吸を繰り返す。殴られる覚悟はあった。まさか、あの蘭くんの舌を噛む事になるとは私も思わなかった。けれど、予想に反して蘭くんは拳を振り上げる事はなかった。それどころか、少し笑っていた。不敵な笑みではない。昔を懐かしむような、妙に優しく甘ったるい目をして。

「おやすみ」

 つい数秒前まで私を拘束していた手で今度は、優しく髪を撫でる。疲れがたまっていたのか、目蓋はどんどん重くなっていった。意識が遠のく間際、前方に金色と黒の段々の三つ編みが見えた。私は、追いつきたくて懸命に足を動かして両手を伸ばす。蘭くんが振り返る。少し驚いた顔をしたあと「置いてくぞ」と笑いかけてくれた気がした。



 私にとって灰谷蘭という男性は、弟の竜胆共々幼馴染であり初恋の相手だった。
 東京都港区。閑静な高級住宅街でも一際豪華な造りをした家。そこが灰谷さんの家だった。私の家は、その真後ろで年が近かったからか生まれた頃から蘭くんや竜胆と遊んでいたらしい。蘭くんは二歳、竜胆は一歳年上。たった一つしか違わない竜胆は、お兄ちゃんには見えなくて今も昔も呼び捨てのままだ。対して蘭くんの事は、中学へ上がるまでは竜胆の真似をして蘭兄ちゃんと呼んで慕っていた。どこへ行くにも後ろをついて回ったし、彼が髪を伸ばし始めた時期も、脱色した時期も、初めて喧嘩をして綺麗な顔を腫らした時だって、私は全部知っている。蘭くんは綺麗だった。細く伸びた四肢やお母さん譲りの美しい顔立ち、全てが魅力的で、幼い私が恋に落ちるまで時間はかからなかった。
 蘭くんと竜胆の部屋は私の部屋の目の前に位置していた。お互いのベランダから話をするのが好きで、頑張れば飛び越えられそうな距離にあったから、運動神経のよかった二人は大人の目を盗んで私の家へ飛び移って来たりしていた。たまにそれがバレて大目玉をくらう時もあったけれど、蘭くんは勿論竜胆も意にも介さない。同時に、蘭くんが小学校中学年になる頃には、彼らは近所でも有名な悪ガキとなっていて、学校でもよく問題を起こしていた。夜中、目の前の灰谷さん家からおじさんの怒鳴り声やおばさんの泣き声がよく聞こえていた事を今でも時々思い出す。私は、それが怖くって、同時に蘭くんと竜胆が心配でたまらなくて、両親に様子を見て来て欲しいと涙ながらに訴えたものだ。結果として、二人は両親の監視から逃れるように外へ飛び出す回数が増えた。

『蘭兄ちゃん、どこいくの』
『オマエがいけないとこ』
『竜胆もいくんでしょう? わたしもつれてって』
『ガキは家でお寝んねしてな』

 寂しくて、寂しくて、嫌で、嫌で、悲しくて、悲しくて。蘭くんが、竜胆が、私の知らない二人になる事に我慢が出来なかった。
 お向かいのベランダに出ている蘭くんが、泣き声を上げる私を不機嫌そうに見ている。竜胆も横で飽きれたように唇をへの字に曲げていた。私は地団駄を踏んで「つれてって」と要求を続ける。すると蘭くんが「分かった」と首を縦に振った。

『オマエがこっちに来れたら連れてってやるよ』

 こっちと言うのは蘭くん側のベランダで、いつも彼らがこちらへ来る出発点をさしていた。無理だ。運動神経の良い二人だから出来た芸当を、平均、もしくはそれ以下の私が出来るはずもない。冷静になれば分かる事なのに当時の私は必死で、その要求を呑んでしまった。スカートからパンツが見える事も気にせずに、ベランダの柵に足をかけた私を見て竜胆が焦ったように名前を呼ぶ。蘭くんも表情を強張らせた。それでも私は止まらない。目一杯力を込めて、足を蹴って、それで。

 悲鳴が聞こえた。多分、お母さんの悲鳴だった。薄れる視界の中で、泣き顔で必死に私の名前を呼ぶお母さんの顔と、お向かいのベランダにいる二人が見えた。竜胆は何かを叫んでいるし、蘭くんは呆然としていたように思う。
 次に気が付くと病院のベッドだった。どうやら木や花壇がクッションになってくれたようで、大事には至らなかったらしい。ただ、落ちた拍子に枝で背中を切っていたから縫い合わせた、そしてその傷は残るだろうと医師に告げられた。両親は口々に良かったと口にして、私の身体を抱き締めた。それでも私の頭にいるのは蘭くんで、眼球はどこにもいない彼の姿を捜し続けていた。
 蘭くんが病室を訪れたのは、私がベランダから落ちてから二日後の事だった。ちょうど両親のいない時間を見計らったらしく、珍しく竜胆も連れず一人だった。蘭くんは、色が白くて綺麗な頬を赤く腫らしていた。聞けばおじさんに殴られたのだという。私はそれが腹立たしくて、物の分別もつかずおじさんへの悪口を口にした。止まらなかった。おじさんは、蘭くんたちを怒るから嫌い、叩くから嫌い、おばさんも泣いてばかりで嫌い、蘭くんたちを苦しめるから嫌い。今思えばあまりにも偏った思想で話していたものだと思う。それでも蘭くんは「おう」と、途中相槌を打ちながら全部を聞いてくれて、それから静かに私の前に立った。

『もう置いて行ったりしない。名前の事はちゃんとオレが面倒みるから心配すんな』

 私とあまり大きさの変わらない男の子の手が、髪を撫でる。私は、彼の言葉の意味や表情を理解する事もなく、ただまた共にいれる嬉しさで笑顔を作った。あまりにも子供過ぎたのだ。
 それが昔あった出来事。私が今も蘭くん達と一緒にいられる理由。十二年後も共にいて、法律上でまで隣に立つ権利を得た自分が、私はひどく恥ずかしい。

20211024