ぎゅっ…と背中に回される細い腕。それと同時にミノンは膝を付き、俺の左胸に耳を押し当てた。まるで鼓動を聞かれるかの様な体勢になる。

「…心配…っ、心配だったの…!…そんなことないはずだって、思うのに……もしかしたら…あなたはずっとひとりだったから、心が強いから、何かあっても辛さを全部一人で抱え込んでしまうんじゃないかって…自分が辛いって、あんまりわからないんじゃないかって…少しだけ、思って…!」

……つらい?

辛い?…俺が?

「そしたら私、不安になって…あなたが悲しいの、辛いの、心に仕舞っててもわからない…それが、…怖くて…っ!……私じゃ、足りないかもしれない…でも、もう、あなたはひとりじゃない…私が、傍にいるから…!だから……私、にっ…辛かったら、辛いって言って欲しかった…言って欲しいんです…!」

「………。」

…──わからない。

いつも[辛い]のは彼女で…俺ではなかった。だからなのか、よく知る言葉であるにも関わらず…それを自身に投影することはどうしても出来なかった。[辛い]の指す感覚…感情が、自らに湧き起こるものとして認識出来なかった。

彼女の言い分はどこか正しいのかもしれない。いくら考えても、俺には彼女の言う[辛い]が──わからなかった。

「……ミノン。…おまえ…何か勘違いしてねえか?」

「っ…?」

濡れたままの夜空色に見詰められる。…どうしてこんなにも泣くのだろう……今も何かを[辛い]と感じているからなのか?

「…確かに俺は、おまえに自分のことを話さねえ。だがそれはおまえの言う[辛い]を感じてないと思うからで…おまえに隠し立てしてる訳じゃない。俺は辛くなんかねえし、──幸せだ。…おまえの言う通り、辛かったら話すことにする……だから、おまえが不安になることはない。」

「……辛く…ないんですか…?」

「…ああ。」

その[辛い]がよくわからない手前すこし迷ったが、その分はっきりと肯定する。ミノンが何かにつけて不安になるのは…何と言うか仕方ないと諦めている節もあったが、もちろん取り除けるなら除いてやりたい。伝えた言葉に嘘偽りはないし、話すことくらい何でもないだろう。

「………辛く、なかったんですか?」

「は?」

過去形にされた部分が耳について聞き返す。まっすぐに見据えてくる漆黒は変わらず潤んでいて…しかし揺らぎなかった。わりに落ち着いたのか何なのか口調が戻っている事にふと気付く。

「……昨日の夜…何があったか覚えてますか?」

「………。…仕事を終えた後、ここに来た。おまえの姿を見て…その後は……覚えてない。」

言われた通りに記憶を辿ってみると…まるで何かに取り憑かれたかの様にこの家を目指し、門を開けて白い夜着を見た──そこでふつりと途切れていた。いくら酒を飲もうと記憶が飛んだ事などない身としては、不安というより気味が悪いと感じる。

「…………その後、あなたは私を抱き締めました。強く、つよく……苦しいくらいに。私が[どうしたの?]って聞いても何もこたえてくれなくて…わかったのは、あなたがいつもと違う事だけ。何があったのか、…誰の血なのかすら…教えてもらえなかった。」

「………。」

「……辛くなかったなら、どうしてですか…?」

「………。」

…[辛かった]のか、それとも[辛くなかった]のか。

思い出そうにも、たった半日足らず前の記憶であるはずなのに当時の心情については靄がかかった様で…今となっては[辛い]という感情の有無など判断出来なかった。……何があったかは、鮮明に覚えているというのに。

「……わからない。」

「えっ…?」

「…辛かったのかどうか、わからねえんだ。何でおまえのとこに行ったのかも…おまえを…抱き締めたのかも。……ここに来る前のことは、覚えてる。けど俺ん中じゃ理由として繋がらねえんだ。…聞きたいなら話すぜ?気分良い話じゃねえけどな。」

「………。」

暫しの沈黙。瞬きをしたまるい眼から一筋の雫がこぼれ落ちる。

やがてミノンは袖で涙を拭うと、しっかりと頷いた。

「……聞かせて下さい。…聞きたいです。」

…どうしてそんなにも聞きたがるのか…やはり俺にはわからなかった。



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