“サラマンダー”

そう呼ばれて久しい。

──サラマンダー様!

いま傍らで昏々と眠り込んでいる少女も、よくそう呼ぶ。まるで刷り込まれたかの様に、時に喜びや幸せを込めて、時に不安や悲しみを込めて。

サラマンダー。

本名ではない。……正確に言うなら、俺に本名はない。一般に「本」当の「名」とされるであろうもの──親に付けられた名など知らないのだ。付けられたかどうかすらも定かでない……生まれてすぐに、名など与えられず捨てられた可能性も大いにある。

だがいつしか誰かがそう呼び、それが俺の名の一つになった。

何と呼ばれようと構わなかった。アマラントでも、タラスクでも、焔でも。それこそ悪魔だろうが化け物だろうが死神だろうが、何でも良かった。名に──呼び名に意味は感じなかった。……それはあいつに訊かれた時も同じだった。

──なんて呼べばいい?

個人的に、「名は?」と問われなかった事に少しの驚きを覚えた。

──……好きに呼べ。

恐らく無意識……ただの偶然だろう。しかしそこに、「あいつは他のやつと違う」との思いが僅かに増した。その人間の名ばかりを気にするやつらと、その人間の名など気にしないやつら。狭い世界で生きて来た俺は、そのどちらかしかいないと思っていたのだ。まさかそんな風に……こちらに自由を残して訊く人間が存在するとは、予想だにしていなかった。

──焔色のダンナって、ラニに呼ばれてたよな?

今からしてみれば、あいつは俺に<名>が──本名がない可能性を知らずとも感じていたのかもしれない。あいつは裏社会の概要を知っている。本名のない人間がいると……同じ人間についていくつもの名が飛び交うと知っていたからこそ、そういう世界の人間だと知っていたからこそ、名を訊かなかったのかもしれない。──全て都合の良い想像でしかないが。

──……焔色のサラマンダー、そう呼ばれていたこともある。

気紛れだった。その名を選んだのは。

いくつもの名の中で、焔色と言われて瞬時に連想した名がそれだったし……あいつと出会った街であるトレノでは、そう呼ばれることが比較的多かった。

だがラニが呼んでいた様に「焔のダンナ」でも、不都合はないはずだった。個を他から識別する……その目的には十分適っていた。それなのに、何故そう名乗ったのか。何故“サラマンダー”を教えたのか。──今でもそれはわからない。気紛れ、としか言い様がないのだ。

そんな曖昧な気持ちで伝えた名なのに。

──じゃ、サラマンダーって呼ばせてもらうぜ!

あいつはすぐにそう口にした。そして何度も呼んだ。

“焔”──そう呼ばれるだろうとどこかで思っていた。大抵の人間は俺の“サラマンダー”という名を知っていようが“焔”と呼んだからだ。その多くが、軽蔑や畏怖や憎悪の念を込めて。或いは個を識別する最低限の情報として。

しかしあいつはそう呼ばなかった。何のつもりか──生まれついての性か──親しみを込めて呼んだ。やがてそれを真似る様に、他のやつらも“サラマンダー”と俺を呼ぶ様になった。

それはあの少女も例外でなかった。

──サラマンダー!

初めて彼女にそう呼ばれたのは…出会って僅か半日後、彼女がそれ以前の様は見る影もない程の別人になってすぐだった。<彼女>は何度も何度も呼んだ……確かめる様に、当然の様に。そこに何の疑いもなく様々な感情を込めて、その単語を以て俺の名として口にした。

やがて、耳に残るその呼び声に戸惑っていた頃……彼女は「元に戻った」。笑顔も明るい声もなく、ただそこに在るだけの人形──そんな風にすっかり様変わりした少女を見ていると、鮮やかな記憶の懸念は薄れていった。もう呼ばれることもない……気にせずともそのうち忘れるだろうと。確信があった訳じゃないが、互いの性格や口数からしてそうなると思ったのだ。だが──違った。

──サラマンダー様。

あいつは呼んだ。少ない口数の中で幾度も幾度も。時には名だけを呼び、注意を向かせて、意思を伝えたこともあった。その声にほとんど感情はなかったが……それでも色々な変化を持たせて。

──サラマンダー様っ!

そしてそのうち、今の様に感情豊かに呼ぶ様になった。あのやり取りを聞いていたなら本名である可能性は低いとわかっていただろうに、ただの一度も迷いを持たずそう呼んだ。



不意に、睫毛すら動かさず眠っていた少女がゆっくりと目を開ける。



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