5話【終】
芳雄さんのご両親が家へやってきて、行儀見習いという形で私を斎藤家に入れ、時期が来たら婚姻を結ばせたいとうちの両親に提案をした。
それには私を煙たがっていた母は嬉しそうに笑っていた。父もまだ早いような…と首を傾げていたが、反対ではないみたいだ。
なぜなら、多額の結納金を斎藤のご両親が差し出してきたからだ。
恥ずかしい話、家は見栄を張っているだけで結構な借金がある。娘を差し出して大金に変わるなら、この両親はすぐに差し出すであろうと分かっていた。さっさと荷物をまとめて出て行けと言われたときには感動すら覚えた。
「ねぇ芳雄さん、どうしてお姉さまなの? 私のほうが可愛いし、若いのに」
荷物を詰めて、それを斎藤家の従僕さんに運んでもらっている最中、妹の甘ったるい不快な発言が耳に入ってきた。この妹は私のものが好きだ。ましてや私が幸せになることを願っていない。
芳雄さんだから大丈夫、あしらってくれるだろうとは思っていたが、最後の最後で千代子の空気を読まない発言で私は気分を害してしまった。
最後の最後だ、妹に文句の一つでも言ってやろうかと一歩踏み出そうとした。
「あのね、僕にも結婚相手を選ぶ権利はあるんだよ? 君みたいに下のゆるい売女みたいな女は好きじゃないんだ」
しかしその前に耳を疑う発言が飛んできて、私の足は固まって動かなくなった。
……。芳雄さん?
「なっ! 何よそれ!」
「あぁ、静子さん、荷物はこれですべてかな? 君の部屋は庭が一望できる日当たりのいい場所を選んだんだ。気に入ってくれるといいけど」
千代子が顔を真っ赤にして憤慨しているのを無視した芳雄さんは私に爽やかに笑いかけてきた。
今、下のゆるい売女と言ったか? この芳雄さんが?
キーキー騒ぐ妹を尻目に、私は斎藤家の車に乗せられて生家を離れたのであった。彼は普段どおりだったので、もしかしたら聞き間違いかな? と私は忘れることにした。
私は斎藤家へ行儀見習いとして入ると、未来の姑さんである斎藤夫人から色々学ぶ日々を送った。自分の運命の日が近づくたびにドキドキしていたが、今までにない位穏やかな毎日だった。
覚えることはたくさんありすぎて大変だったけど、それすら楽しかった。斎藤夫人だけでなく、斎藤家の皆さんとてもいい方で。良好な関係を築けるまでになった。
何度か、斎藤家に家からの人間が取次ぎを求めて来たそうだが、生家での私への扱いを知っている斎藤家の指示により、それはすべて伝言という形で伝わってきた。その大体が金銭援助をしてくれという話。
しかし私はとうの昔に実家の家族への情をなくしてしまったので、そのすべてを切り捨てた。それは私のちっぽけなプライドを守るための復讐であった。
私はどうして芳雄さんや斎藤家の人々がここまで良くしてくださるのかわからなかった。自尊心というものがボロボロ過ぎて、自己肯定感皆無だったため、それが理解できなかったのだが、斎藤家の方々はそんな私を温かく包み込んでくれた。
時が流れ、私は彼と結婚して、名字を改めて斎藤静子となった。彼の子どもを身に宿し、祝福される中で生み出した命。私は生まれた子を大事に育てた。自分が与えられなかったものを何でも与えた。
その子を育てていくうちに私の中の傷が疼いたけど、今の私はひとりじゃない。支えてくれる人がいたので辛くはなかった。子どもを育てることを通じて私は前を向けた。母として、人間として成長できた気がした。
ようやく幸せになれたのだと溢れんばかりの幸せに私が溺れ死にそうになっているその裏で、我が生家がとうとう没落して一家離散したという噂が流れてきた。父は博打、母と妹は散財で更に借金をこさえたらしい。完全なる自業自得である。
一度、浮浪者みたいな格好をした若い娘が門を叩いていたそうだが、どこからか迎えに来た男性によって連れ戻されたという話を聞かされた。
もしかして……とは思ったけど、まさかね、と私は自分の考えすぎだと頭を振る。私と違って彼女は愛されるために生まれた女だもの。きっとうまくやっているはず……
私は斎藤家の立派な大門を見上げて、曇天の空を見上げた。季節は冬だ。……9回目の私はこんな寒空の下で息絶えたのだ。それを遠い過去のように思い出してしんみりした気分に浸っていた。
「静子、身体が冷えるよ。お腹の子にも悪いから早く中に入りなさい」
「…芳雄さん、私こんなに幸せでもいいのかしら。…なんだか怖いの」
2人めの子どもを授かり、お腹の中で成長している新たな生命をそっと撫でながら私は目を細めた。
今までの悲惨な人生が嘘だったかのように、私は幸せに生きていた。だけどどこかで運命が私の足を引っ張るんじゃないかと不安にもなるのだ。
「…前にも言っただろう? “一人じゃ運命から逃れられないなら、僕が助けるよ”って。…大丈夫、怖がることはない」
彼はそう言って後ろから私を抱きしめてきた。
温かい腕。この腕に何十回何百回も抱かれてきたのに、未だにそのぬくもりで私は泣きそうになる。幸せで幸せで怖くなるのだ。
「また同じ生を繰り返しても、また僕が手を差し伸べてあげる。約束だ」
「…約束よ、破っちゃ嫌よ」
前に回ってきた彼の腕をそっと掴み、私は念押しした。
不思議ね、次の生がどうなるかなんてわからないのに、芳雄さんが言うなら本当にそうなのかもしれないって思ってしまう。
「今まで僕が君のお願い事を断ったことある?」
芳雄さんが私の顔を覗き込んで、いたずらげに笑った。もうすぐ2児の父になるというのに、時折おどけた少年のようになるから、私はいつも笑ってしまう。
「ないわね、いつだってあなたは私を大切にしてくれたもの」
「静子はもうちょっと欲があってもいいと思うんだよ。欲しいものはない?」
私は十分与えられているのに、芳雄さんは私をさらに甘えさせようとする。私はこれ以上欲張っちゃいけないのに……
「……そしたら、この子を無事に生んだら……また私を抱いてください」
私のおねだりにあなたははしたないと眉をしかめるかしら?
だけど私はあなたに愛されたい。あなたの子どもなら何人でも産んで差し上げたい。そして子どもたちごと幸せにしてあげたいの。
「静子ぉ、僕だって我慢してるんだよ? 母さんとお祖母さんに口酸っぱく注意されてるから、身重の君に手を出さないだけであって、物凄く我慢してるんだ。…あまり可愛いこと言わないでおくれよ」
甘えるように私の首元に顔を埋める芳雄さん。私はそんな彼が可愛くて愛おしくて、今ある幸せを噛みしめた。
彼の顔がゆっくり近づいてきたので、私は目を閉じてそれを待った。
──もしかしたら、私がこれまで悲惨な生を繰り返したのは、彼と出会うためだったのかしら?
彼が私を見つけ出すまで、神様が繰り返し生まれ変わらせたのかしら。
神の声は聞こえないからわからないけど……
私が年老いて、子どもたちに見送られる瞬間、先に旅立っていた彼が枕元に迎えに来てくれていた。私は彼に手を伸ばす。いつだってあなたが私を導いてくれる。私にはあなたしかいないのだ。
芳雄さんは優しく微笑んで、年老いた私を抱きとめてくれた。
彼に手を引かれてそのまま旅立った。この世に何の未練もなく、満足に逝けたのである。
その後のことは覚えていない。
きっと彼の初めの考えのとおり、死んで無になってしまったのだろう。
一枚、また一枚花びらが落ちていく。
──やっと、解放された。
私の輪廻は終わったのだ。