貸し借りなしにはなりませんわよ! 『──そろそろ効いてきただろう。この香は即効性があるからな』 にたりと笑う第8王子。恐怖よりも嫌悪感がやばい。 私よりも一回りどころか二回りくらい年が離れてそうな年上の男がやることか!? もうドン引きだよ! そこまでして私を辱めたいの!? 抵抗しようとしたが、のしっと身体の上に座られてバタバタもがくしかできない。 次第に私の呼吸が荒くなっていく。カッと全身が一気に発熱したように熱くなった。私が抵抗して暴れているからではない。 この匂いだ。この香から発せられる匂いが身体の力を失わせる。 一体何なの。頭が霞がかっていくような感覚。 体が熱い……! 『今頃大公もお楽しみ中だろうよ。健康な男なら自制が効かないはずだからな』 「は……?」 第8王子の発言で私の目の前が真っ赤になった。 つまり、ヴィックも同じ目に遭っているということ? ここから離れた部屋で、私以外の女と…… さっき呼び止めてきた王女の『貰うわ』の発言の意味が今ようやく理解できた。 こいつらは、私とヴィックを引き離そうと既成事実を強引に作ろうとしているんだって。 目的はやっぱりエーゲシュトランドの富。今回の招待には裏があって、最初から王女の誰かをヴィックと結婚させるつもりだったんだ。 「ふざけるなァ!!」 私はブチ切れた。 もしかしたら今まさに、ヴィックが他の女と……と考えるだけで腸が煮えくり返る思いだ。そんなことはないと思いたいけど、こいつらは怪しいお香を使って人の意志を捻じ曲げるような行いをするような相手だ。抗えずに過ちを起こしている可能性だってある。 なんたる身勝手で非道な行い。もう容赦してやらん。 バタバタ藻掻いているときに手が当たったナイフの柄を掴みなおした私は、思いっきり相手の腕を突き刺した。 『ぎゃああああ!!』 男の悲鳴が部屋に響き渡る。 第8王子が腕を抑えて飛び上がっている隙に私は寝台から抜け出す。 『待てこのっ!』 しかし目敏い第8王子は私のスカートの裾を掴んで阻止しようとする。足止めを受けた私はがくんと寝台の下に引きずり落ちた。 『殺す、殺してやる!!』 白目を真っ赤にさせて怒り狂った相手は腕に刺さったナイフを抜き取り、それを私に向かって振り上げてきた。 あ、やばいかも。 細いナイフだけど、急所を刺されたら私だって死ぬ。 「わぁ!」 咄嗟に身をよじってナイフの刃を避けた。 私が先ほどいた場所に突き刺さるナイフ。 それを見てぞぉっとする。 避けられたことにイラついた第8王子は舌打ちをして、床に敷かれた絨毯に突き刺さったナイフを引き抜いてゆっくり立ち上がった。 相手からは絶対に殺してやろうってオーラが伝わってくる。 先ほど裾を掴まれた拍子に脱げてしまったスカートを置き去りに、私はほぼ下着姿で相手と対峙していた。まだまだ護身用のナイフはあるけど、この状況だと分が悪い…… ふと、視界の端でキラリと光った。床に転がったままの隕石から覗く原石が光って見えたのだろう。 ハイドラートの人たちは口をそろえて不吉だ、災厄だとこの隕石を恐れている。触れるだけでなく見るのすら厭うのだ。これで対抗するんだ! 素早く石に飛びつくと、ボウリングよろしく下からぶん投げた。いや、正式にはボウリングは転がす競技だけどさ。 畑仕事をこなす公妃を舐めないでいただきたい! 不思議な力でも宿ったのだろうか。 重いはずの隕石は軽く感じた。 『グォッ…!!』 ナイフを持って迫りくる第8王子のお腹付近にドムッとめり込むようにして隕石は命中した。 衝撃に耐えきれず、相手は膝をついて呻いている。 ありがとう、隕石。 君は私の恩石だ。一生忘れないよ。 よっしゃあ! 相手が弱っている間に逃げるぞぉ! この時点で私はハイになっていた。 開け放ったバルコニーの欄干に足を掛けると、躊躇なく飛んだ。 地面が近く感じたから、飛んでも軽傷で済むと思ったからだ。 ふわっと身体が重力に従って地面に向かって落ちていく。 なんだか自由になれた気がした。 じきに訪れるであろう衝撃にぎゅっと目を閉じて身構えた。 程なくして、ボフッと音を立てて背中から着地した私は、空から降り注ぐ太陽光に目を眇めてため息を吐いた。 よかった……。目測誤らなくて。 部屋の下に東屋もどきの天幕があったからもしかしたらと思って飛び降りたけど、正解だったようである。 「うぉっ!? おま、何してんだよ!!」 私が落ちてきた衝撃で東屋もどきの土台は壊れてしまった。ぐしゃっとへたった天幕の上で大の字になっていると、割と近くから驚きの声が上がった。 怠い身体を無理やり起こすと、そこには第23王子・ダーギルが変な顔をして突っ立っていた。 まさかの遭遇である。 相手はたまたま中庭を散歩していただけなのかもしれない。 しかし過去の恨みと、今しがた起きたことを思い出すと理不尽な怒りが湧きおこってきた。 「あんたの兄弟が襲ってきたんですけど……!」 変な香を嗅がされたおかげで体調不良気味だし、バルコニーから天幕に飛び降りた反動で身体が痛い。 2階からの転落なので骨折とかそういうのはなさそうだけど打撲は多少あるだろう。 私が不機嫌にそう言うと、ダーギル王子は怪訝な表情で「兄弟? あ……なるほど?」とひとり納得していた。 何を見ているんだと彼の視線を追えば、バルコニーから覗き込む犯人と目があった。 「流石兄弟ですね。やることがおんなじだ」 「チッうるせぇよ。……ん?」 私が嫌味を言うと、図星を突かれて気まずかったのか、ダーギル王子は悪態をつく。 どこかに違和感でもあったのか、彼はすんすんとしきりに鼻を鳴らし、眉間にしわを寄せていた。 「お前、あの香の匂いがする」 「香? なんか……部屋が煙で充満してた。それ嗅いでたら身体が……」 いけない。先ほどよりも体が熱くなってきた。 あの第8王子の口ぶりからして、あの煙はいかがわしいものだったのだろう。 「リゼット、また危ないマネをしたんだね?」 「ひぁっ!?」 後ろから回ってきた腕に私は裏返った声を出してしまった。 嗅ぎ慣れた香水の香りにもしやと思って振り返ると、そこには氷の笑みを浮かべた旦那様の姿があった。 「飛び降りるなんて危ないじゃないか。もしものことがあったら」 「よかったあ、美女に迫られて浮気してるかと思ったー!」 ヴィックは私が危険な真似をしたことを叱ろうとしていた。 すぐさまお説教が始まりそうだったけど、私は彼の首に抱き着いて甘えた。彼が王女の毒牙に引っかかってなかったのだと安心して、ぎりぎりまで張りつめていた緊張が解けたのだ。 そのせいだろうか。耐えていた欲望が一気に放流されてしまった気がする。 ヴィックの香り、いつも触れている彼の感触。そのすべてが欲しくてたまらない。 「君はなんて格好を……」 「部屋に侵入してきた第8王子に襲われたから逃げてきたの……仕込みナイフで腕突き刺して、隕石をお腹に命中させてきた」 私はヴィックの胸に顔を擦りつけながら説明した。 言っておくけど私は抵抗して逃げ切ったんだ。それについては誉めてくれて構わないんだよ。 「災厄の石で攻撃したのかお前……!」 ブハッと吹き出すダーギル王子の存在が少し邪魔である。 しかも他人事だと思って笑ったな? あんたのお兄さんのやらかしなのに笑ってんじゃないよ! 私に対して申し訳ないと思わないのか! 「ヴィック、ねぇ身体が熱いよぉ……」 ヴィックには私だけを見てほしくて、彼の意識をこちらに向けさせた。 彼に抱いてほしい、滅茶苦茶にしてほしい欲で頭がいっぱいだった。 「おそらくうちの国にある媚薬の香を使われたんだろう。どんな貞淑な女でも男を求める強力な奴だ」 血のつながった兄弟がぼこぼこにされても何とも思わないのか、ダーギル王子は愉快そうに笑うだけだった。 そして私に使われた怪しい煙の正体を予測して見せた。 なんでそんなことわかるのかと思えば、父王や男兄弟が好んで使うから、嫌でも匂いを覚えてしまったのだという。 「大方このお転婆公妃に不貞させて、お前にうちの妹王女の誰かを押し付ける算段だったんだろ。お前の部屋にもなにか仕込まれてるかもな」 「──なるほど、ずいぶんと見くびられたものだな」 ヴィックは先ほどよりもひんやりと冷たい笑みを浮かべていた。 これは完全にお怒りですわ。 それを見たダーギル王子はわざとらしく肩をすくめていた。 「しゃーねーな。お転婆公妃をそのままにできねぇだろうから、別室を用意してやる。私兵を使って人避けはしといてやるから」 ん? どういうつもりだ? ハイドラート王国の王子のくせに、私たちの手助けをするつもりなのか? 私はヴィックにお姫様抱っこされながら、ダーギル王子を注視する。 「……貸し借りなしにはならないよ」 「わかっとるわ!」 私を殺しかけたことと、これは全く別の話。 今回助けられても許してはやらんと言ったら、ダーギル王子は不快そうに顔を顰めていた。 |