お試し期間、いまなら返品可能ですのよ! ヴィックから求婚された私はそのまま彼を伴って帰宅した。家ではお母さんが内職の繕いものをしており、私がヴィックと一緒に帰ってきたことに目を丸くしていた。 そりゃそうだ。いまや彼はこのスラムには似つかわしくない存在。ここにたどり着くまでどれだけ好奇の視線を向けられたことか。かたや貴族の若様、もうかたやスラムの貧しい娘ときた。さっき求婚されたんですと訴えても誰も信じてくれないだろうな。 「まぁまぁ! 若様こんな狭苦しいところにまで」 「やめてくださいおばさん。今まで通り気軽にどうぞ」 他国とはいえ、いまやヴィックは一国の大公。気軽にと言われてもお母さんは困るだろうに…。 「あら、そぉ? じゃあお言葉に甘えちゃおうかしら」 ……そんなことなかった。お母さんはあっさりヴィックの厚意を受け取って、以前のようにタメ語で話し始めた。…せやな、スラムの女は神経図太いくらいが生きやすいよね。 お母さんはどうぞどうぞとヴィックを家の中にすすめると、ぼろっちい椅子に掛けさせた。その上家の簡易浄水器から雨水を濾過した水を使ってお茶ならぬ白湯を作ってお出しした。茶葉は高級品扱いなので、家ではもっぱら白湯という名のお湯である。健康志向先取りと言ってくれても構わない。 ヴィックは長年のスラム生活のおかげでこういうものに慣れてしまったのか、平然とした顔で口をつけていた。…慣れって怖い。雨水を濾過したものを飲ませたと知られたら下手したら罰せられるんじゃないうちの家族。消毒のために沸騰させているから大丈夫だとは思うんだけどさ…。 「色々と大変だったみたいね。リゼットも心配していたのよ」 「ご心配おかけして申し訳ありません。この度帰国の目処がついたので今一度挨拶にお伺いしようとは思っていたんですが……」 そう言ってヴィックは隣に座っていた私にちらりと視線を向けてきた。ずっとヴィックの横顔を眺めていた私は薄水色の瞳とぱっちり目があってドキリとした。ヴィックはとろりと甘く微笑むと、私の手を握ってきた。 「…先程リゼットに求婚しました。彼女を俺の…私の国に連れて帰りたいのです。彼女には私の妻となってほしい。そう考えています」 ストレートに結婚のお願いをしたヴィック。 お母さんも流石に驚いたようで口をぽかんと開けてびっくりしていた。 「え、結婚? え? うちのリゼットと?」 「はい」 「こんなあばら家に住んでいるうちの娘が…その、公国を継ぐヴィック君の妻に?」 「そうです。彼女には私と結婚して、復興したエーゲシュトランドの公妃になってもらいたい」 お母さんの驚きも理解できる。身分違いなのもあるけど、私とヴィックは交際すらしていなかったのだ。色々と理解が追いつかないのであろう。スラムでなら私は結婚していてもおかしくない年だ。だがしかしここで身分が段違いの相手が来たとなれば混乱するに決まっている。頭が痛いとばかりに頭を抱えていたお母さんはうつむいていた。 皆が口を閉ざし、妙な静けさが場を支配してなんだか息苦しくなってきた。 形的には玉の輿になるんだろうけど、流石にハイわかりましたと快諾できるものじゃないよな…… 「……リゼット」 「! はい!」 お母さんの硬い呼び声に私はビビって背筋を伸ばす。彼女は下げていた顔を上げるといつになく真面目な顔つきで私をまっすぐ見つめてきた。 「リゼットはどうなの? どうしたい?」 「え…どうしたいって…」 「お母さんは貴族様のことはよくわからないけど、実際にその立場になったら大変なことがたくさんあるってことだけはわかってる。リゼットには学校に行かせてあげられなかったからこれからその分たくさん勉強しなきゃいけないし、出身のことで周りから酷いことを言われるかもしれない。……それに耐えられる?」 どんなことを言われるんだろうとビクビクしていたらそんなこと。 どこまでも私への思いやりに溢れた問いかけをしてくれたお母さんに私は笑ってしまった。あぁ、私は愛されているなぁって嬉しくなってしまった。 「んーわかんない! 嫌になったら逃げちゃうかも知んない!」 「…リゼット」 私が明るく返事すると、ヴィックが横から困った顔して呼びかけてきた。 なんだいなんだい、そんな迷子みたいな顔しちゃって。大公様がそんな不安そうな顔しちゃ示しつかないんじゃない? 「だって私とヴィックは正反対なんだよ? 私はカエルの丸焼きが大好きな野生児だもの。もしかしたらヴィックがもとの場所に戻ったら野生児な私に嫌気が差して他の女の人を選ぶ可能性だってあるじゃない」 生まれながら貴族の女性と、生まれながらスラム育ちの私を一緒にしないでほしい。完璧にできるかなんて約束できない。もしかしたら心折れて逃げてしまおうと考えてしまうかもしれないもん。 私は未来というものをあまり信じていない。いつどうなるかわからないと思っている。私の人生は飢えや寒さと戦うことばかりだった。来年なんて来ないで明日にでも餓死して死ぬかもしれない日々を送ってきたのだもの。そんな私がヴィックと結婚したところでうまく行くかなんてわからない。 「そんなことない。リゼットのような女性はどこにもいない」 ヴィックは真面目に言ったつもりらしいが、私はそんな大層な存在じゃないと思っている。今は特別視してくれているみたいだけど、もとの生活に戻って見ればその考えが180度変わる可能性だってあるんだ。 「確かに私のように野うさぎだけじゃなく鴨やイノシシを狩ったり、自分でさつまいも育ててそれを売り歩くような人、私も見かけたことないなぁ」 「いや、そういう意味じゃ…」 まぁまぁ、そういうことが言いたかったわけじゃないってのはわかっている。今現在のヴィックの気持ちは本気で私と結婚したいと考えてくれているんだよね。そして私もヴィックを大切に想っている。だけど私達の間には身分差という大きな壁があって、そこが引っかかるって話なのだ。 好いた惚れたでうまく行くなら、離婚する夫婦なんて存在しないってことである。人間だからうまくいかないことだってあるのだ。 「だからさ、まずはお付き合い…お試し期間って感じでいこうよ」 「お付き合い…? お試し期間って……」 彼は目に見えて困惑していた。 「私はヴィックと一緒にエーゲシュトランドへ行くよ。ヴィックの国の再興を何らかの形でお手伝いする。将来のことは一緒に過ごすうちにどうするか決める。それですれ違いや心変わりがあったらお別れするの。結婚したいって気持ちになれば私は公妃としてヴィックを支える。だからヴィックもよく考えて? 私を本当にお嫁さんにしてもいいのかどうかを」 私が提案したのはいわゆる交際というやつである。 それなら気負わずにできるでしょう? 婚約とは違うから、ヴィックの肩書きも傷つかない。最初から結婚に向けて動くのではなく、お互いベストな選択を選べるはずだ。 ここで勘違いしないでほしいのは私は男性としてヴィックが好きだ。求婚してくれて嬉しいと思っている。だけどその気持ちだけを前に出しすぎて後で彼が苦労するようなことになるのは嫌なのだ。苦労した分、ヴィックには幸せになってほしいのだ。どうせならお互いに幸せになりたい。そのための提案なのである。 「そんな…」 「それがいいかもしれないわね。もしもの時の逃げ道はあったほうがお互いのためだわ」 ヴィックは不満タラタラであったが、お母さんは私の案に賛成してくれた。 それから程なくして仕事から帰ってきたお父さんとお兄ちゃんにヴィックから求婚され、エーゲシュトランドへ入植すること、お試し期間を設けて結婚するかどうかを決めることを話すと、何故か二人はうなだれているヴィックを可哀相なものを見る目で見ていた。 元の世界ではお付き合いから結婚のパターンが多かったし、私としてはいい案だと思うんだけどなぁ… いろんなことを家族間で話し合い、家族みんなで向こうの国へ移住をすることに決めた。それからは話が早かった。ヴィックは定められた期間以内になるべく早く出国しなくてはいけなかった。それに合わせて私は護衛付きの貸し切り馬車を引き連れた彼らに同行する形でスラムを出た。 ご近所さんや幼馴染たちにお別れの挨拶をしたけど、みんな全然寂しそうじゃなかった。それがちょっと切ない。 亡国となったエーゲシュトランドは襲われた直後に亡命していった国民も多く、復興のための入植者は必要不可欠らしい。治安のためにも一応人は選ぶそうだが、ヴィックはこの国では生きにくそうな人に声を掛けていたので、何人か顔見知りが一歩遅れてエーゲシュトランドへ移住してくるかもしれない。 何はともあれ、私の移住生活兼、新大公様とのお試し交際期間はこうして始まったのである。 |