東の国へ
暴力、飢餓、極寒。
あたしの頭の中はいつもどうやって生き抜くか、どうやって相手を出し抜くかでいっぱいだった。満足に食べられることなんて一度もなかった。そのへんには雑草も生えてないのだもの。…食べ物が無いんだから、食べられそうな動物もいない。服といっていいのかわからないボロ切れ一枚を身にまとって、寒さと飢えと恐怖でいつも震えていた。
奪うか奪われるか。
生きるか死ぬか。
それしか、なかった。
いつも何時だって理不尽な暴力にさらされていた。略奪ならまだいい。子供相手に盛って組み敷こうとする男もいて、あたしはそれから逃げるのにも必死だった。
そのへんの道端で女が犯されているのは日常の光景。見ても特に驚かない。苦痛の声を上げる女の声がどんどん小さくなって息絶えてしまうのもいつものこと。死体はその辺に放置されるからウジやハエが湧いて腐敗臭が広がるのもいつものこと。ひどいときには飢餓のあまりにその死体を食べる人間もいた。
ここは人の住める環境じゃない。それはわかっていたけど、あたしはその国から抜け出せずにいた。
母に執着する男のせいで、抜け出せないのだ。
あいつが来たときは、耳を塞いで目を閉じて…そこから背をそむけていた。寝台とは言えない粗末な寝床で男と女が絡み合う。
だけどそこには愛はない。
逃げられぬように足を折られた母は、ただされるがまま男からの暴力を受けていた。逃げたり拒絶したりしたらもっとひどい目に遭うから。生々しいそれらを見たくなかった。母が悲鳴を上げて苦痛を訴えるが、相手はそんなことお構いなしだ。
東の国からやってきた踊り子の母を拉致して、自分専用の妾のような扱いにするこの男。認めたくないが、自分の父親である。
あたしはこいつを父と慕ったことなどない。国に帰りたがる母を捕まえては暴力で支配し、この地に縛り付けたクソ野郎。殺してやりたいくらいに憎かった。
この状況から目をそらすために外に出られたらいいが、この国の夜はとにかく危険だ。こんな掘っ立て小屋でも自分の身を守る砦にはなっているのである。外に出たら殺されるか犯されるかの二択。我慢してこの中にいるしかない。
何度か背後からクソ親父の後頭部をぶん殴って殺してやろうかと思ったけど、母がそれだけはやめてくれ、返り討ちに遭うからと止めてきたのでなにも出来ずにいた。
母さんはいつだってあたしと兄貴を優先した。兄貴が親父に反抗したときだって身を挺して兄貴を守った。そのせいで足が不自由になってしまった。憎い男の子どもなのに見捨てることなく、制限のある生活の中で精一杯育ててくれた。食べ物もあたしたちに譲ってばかりで彼女はやせ細っていた。
今日手に入れた食料を外で奪われた。深追いしたら自分の身に危険が及ぶと思って諦めて逃げてしまった。残り少ない食料を口に入れて噛みしめる。じゃり、と砂の味がした。
くやしい、くやしい。あたしたちが何をしたと言うんだ。
なぜこんな国に産み落とされなくてはならないのか。
いつか、母さんを連れてこんな国出ていってやる。
あたしの世界が大きく変わる事になったのはそれからしばらくしてから。
風邪をこじらせた母さんがどんどん衰弱していくのを黙って見ていられず国を飛び出し、隣国の国境沿いの森の中で滋養がありそうな獣か何かを狩ろうとした時に出会ったその相手。
魔術師の少女との出逢いが変化の兆しだったのだ。
□■□
「見えた……やっと帰ってこれたのね…」
長い船旅の末にたどり着いた東の国。母さんの母国。長旅用の船の上から故郷を見た母さんの頬を涙が伝う。その瞳は喜びと懐かしさでいっぱいだった。母さんにとってここが故郷。故郷というものは素晴らしいものなのだろうか。あたしは少しそれが羨ましくなった。
船を降りると、そこには舟場で働く人や旅人の他に、お出迎えで待機していたらしい人々が待っていた。
「──ユカリ!」
それは母さんの名前だ。
ハルベリオンでは滅多に呼ばれることのなかった名前。母さんは大声で名前を呼ばれてびくりと肩を揺らした。
彼女の視線の先には、黒髪に黒い瞳、少し黄みがかった肌を持つ男の人の姿。母さんの口が小さく動いて「兄さん」と呟く。杖をつきながらよたよたと先へ進む母さん。母さんの兄さんは慌てて駆け寄ると、母さんの身体を抱きかかえていた。
「生きていてよかった! よく戻ってきたな! …お前たちがトウマとキッカだな? よく来たな! さぁさぁ、みんな馬車を待たせているから乗りなさい」
小柄な母さんよりは大きかったが、それでも小柄な部類に入る男の人は涙声であたし達にも歓迎の言葉を投げかけてきた。
母さんがつけてくれたあたし達兄弟の名前はこの国の言葉でつけられた名前。その名を呼んで出迎えてくれた伯父さん。兄さんとあたしは大人に優しくされた経験があまりないので身構えてしまったが、彼は気分を害した様子もなく、彼の国まで馬車で送ってくれた。
馬車の中では涙ながらに母さんが今までのことを伯父さんに報告していた。ようやく手紙を送れるようになった時に母さんは自分のこれまでの事情を簡単に説明していたそうだが、今一度言葉で伝えられなかったことをすべて伝えると伯父さんは母さんと一緒に涙を流していた。
母さんを縛っていたあの国が崩壊し、母さんをいたぶってきた男はハルベリオン王に近しい危険人物として処刑された。解放されるそれまでが長かったのだ。仕方のないことだろう。
あたしと兄さんは黙ってそれを聞いていた。口を挟む暇もないのもあったし、緊張と警戒をしていたってのもある。それとところどころ会話の中でわからない単語があったのだ。母さんにはこの国の言葉を昔からちょっとずつ教えてもらっていたので簡単な会話なら理解できるが、慣れるまでに少し時間がかかるかもしれない。
この国は海を渡った東の方にある島国だ。風土も民族も違う。風の匂いからして違うし、雰囲気もどちらかといえば穏やかな空気が流れていた。あちこちに植物が存在し、自然豊かだった。物資が豊かで活気があった。
この国の人はみんなそろって小柄で、皆同じ色彩を持った単一民族。西と東じゃこうも顔立ちが変わるのかと驚いたくらいだ。
伯父さんの住む町に連れて行かれた時、いろいろな人に紹介されてたが、皆こちらを異物視していた。この国は海に守られている国で、貿易のある海辺の町や政治の要となっている中央以外には、外から人が来ないそうだ。警戒されるのは当然のことだ。
いまあたしたちがすべきことは、生活基盤を整えることだ。周りの目を気にしていられない。あたしたちの生活は大きく変化した。とにかく生きるのに必死だった。
住居と仕事は伯父さんが整えてくれていた。
前まで使っていた人がいなくなったから家を間借りして掃除したけどちょっとボロいんだと伯父さんは申し訳無さそうに言っていたけど、何を言うのか。立派な家だ。寒さに身を縮めて寝る必要もない。家の中央には火を焚く場所もあるからここで暖も取れる。最高じゃないか。
仕事は伯父さんの家業を手伝うことになった。伯父さんは商売をしているそうだ。取り扱うものは様々。色んな場所に流通させているのだという。
はじめはわからないことばかりだった。怒られたり呆られたりすることもあった。あたしたちは働くという経験をしたことがない。そしてこの国の常識というものがわからないから仕方ないのだ。
兄さんは恵まれた体躯を生かして黙々と働いている。彼が「この国では身体が大きいから周りに怖がられているみたいだ…」と凹んでいたのをあたしは知っている。
よそ者扱いを受けたり、陰口を叩かれることもあったけど、あたしたちはそれに構っている暇などないのだ。母さんに楽をさせなくてはならない。この国でまっとうに生きていくと決めたのだ。挫けるわけにはいかない。
はじめはこの国の言葉もたどたどしくてあたしは周りとは必要以上に話さなかったけど、難しい単語もちょっとずつ覚えた。なぜかといえばとある人が親身になって教えてくれたのだ。
休日の昼、職場の気のいい同僚が観光案内してくれると言って、家まで迎えに来た。
「スバルさん、どこにいくんですか?」
「隣の街だよ。お前働いては家に帰るの繰り返しだろ? たまには息抜きしたほうがいい」
この人はあたしと同じ時期くらいに伯父さんの店で働き始めた人で、年はあたしの2個上くらいだったはず。背丈はあたしの頭半分高くて、パッと見だとこの国の人らしく華奢に見える。彫りの浅い顔立ちで薄めな印象はあるが、伯父さんの家に飾られていた高そうな伝統人形みたいに整った顔立ちをしていた。
……ハルベリオンにいたら、男たちに襲われて女役をさせられてそうだ…と失礼なことを考えたのはここだけの話である。
スバルさんは言葉や文化を教えてくれる。この国の常識を知らなくても馬鹿にしたりしないで教えてくれる。
他の人はあたし達家族と距離を置いているのに彼は違った。彼は図体のでかい兄さんにも怖じ気づくことなくグイグイ行くけど、あたしたちが触れてほしくないところは察してなるべく触れないようにしてくれる不思議な人であった。
スバルさんに案内されながら色んな場所を見て回ったが、日が暮れ始めると周りの空気が変わった。さっきまで歩いていた場所とは違って、少し異様な場所に連れてこられたのだ。
木でできた大きな赤門を超えると、その先からは男しか歩いていなかった。周辺にある…店? にある檻の奥に座っている女達ははなるほど、娼婦か。見ていたら雰囲気でわかった。
なんだろう、なぜあたしをここに連れてきたんだろうこの人。ここで働けと言うわけでもなく、冷やかすように歩いている。
意図はよくわからんけど…
「……きれいだな」
この国の娼婦はきれいな服を着せてもらって、きれいに化粧ができるんだ。品定めする男に色仕掛けしたり、お高く止まったりしていろんな女がいた。
……ハルベリオンの娼婦は、劣悪な環境で客を取らされており、大衆の目の前で仕事するのも珍しくなかった。それと比べたら恵まれてるなと思ってしまうのは、お門違いなのだろうか。
「ねぇ、あたしと遊ばない?」
檻の隙間からにゅっと手が伸びてきて、なにかの細長い棒で服の襟元を引っ掛けてくる娼婦。あたしは後ろに身体を引かれて足止めを食らった。
「お誘いだぞキッカ。どうする?」
「いえ…自分はちょっと…」
ニヤニヤと冷やかしてくるスバルさん。
悪いけど、同性愛の趣味はないのでお断りします。あたしにどうしろっていうんだ。男同士ならともかく。……この国って、同性愛推進してるの?
丁重にお断りして、その場を離れるとあたしはぐるりと辺りを見渡した。あそこは花街といって、あたしの想像どおり色を売る場所らしい。遊女と呼ばれる娼婦の色鮮やかなきれいな着物に目移りしてしまう。おぞましいことが行われる場所であろうに、外から見る分にはとても美しい。
きれいな赤に大輪の花柄。華やかな衣装はデイジーなら似合うんだろうなぁ。娼婦って意味でなく、本物のお姫様みたいに。
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