なんという皮肉。万事休すか。
その大きな会社の入口前に置かれた、会社の名前が彫られた御影石銘板には【UAプロダクション】と書かれていた。なんかどこかで聞いたことのある名前だなとは思ったけど、今はとにかくあの人達から逃げなくてはならない。
ビターン!
「ぐぇっ…助けて! 変な人に拉致されかかってるんです!」
助けを求めて駆け寄ると、勢い余ってガラス扉にぶつかってしまった。ここのガラスの透明感のせいでドアの存在に気づけなかったんだ。
私の必死の形相にただ事じゃないと気づいた警備員のお兄さんが扉を開けて入れてくれた。私は慌てて会社に入り込む。
時間差でヒールを鳴らしながらてろてろ走ってきた瑞沢母が恐ろしい形相で怒鳴り込んできた。そこは娘と同じで足が遅いのね。
「逃げるんじゃないわよ、このクソガキ!」
「逃げるに決まってるでしょうが! 人身売買とか売春強制とか犯罪ですから!」
瑞沢母の罵声に対して私も反論する。私を庇うようにして立っていた警備のお兄さんがぎょっとした顔で私を見てきたが、私はそれどころではない。
なにこのおばさん、世界は自分を中心に回っているとでも思ってんの? この人の生い立ちや生き様は全く知らないけど、他所様のお嬢さんを売り飛ばそうだなんてよくもそんなマネを出来るな!
このおばさんに捕まったらまずいぞ…。
警備員さんが盾になってくれているのを利用して、警察に通報しようとポケットからスマホを取り出した。
「…二階堂さん?」
110をタップして、発信ボタンを押そうとしたタイミングで呼びかけてきた声に私は動きを止めた。
この聞き覚えのある声。今日も朝と帰りに挨拶してきたその声よ。嫌な予感をしつつも後ろを振り返ると…奴がいた。学校の制服姿の奴が、大人数人を引き連れてこちらへと歩いてきていたのだ。
「……上杉…なぜ、ここにいる」
「何故って…ここ、父の会社だもの」
はぁーっ! そうだった!
どこかで見たなぁと思った会社名はコイツの家の会社だったのか! 前門の虎、後門の狼とはこの事か…まさか、この男の親の会社に逃げ込むとは何という皮肉…!
上杉に弱みを握られそうな嫌な予感がして、この場から逃げようと思ったけど、目の前には人身売買しようとしている瑞沢母がいる。これどこに逃げたらいいんだよ…万事休すじゃないか。
どっちに転んでも地獄になりそうなこの状況に私は絶望していた。こんなことなら運転手さんに迎えに来てもらえば…いや、どっちにせよ、この人達が捕まらない限り、今後も狙われる可能性はあった。
多分学校周辺をうろついていたのは瑞沢嬢を狙っていたのだ。…だけど彼女を捕まえられなかったから、偶然見掛けた私にターゲット変更して拉致しようとしたんだろう。
どれだけお金に飢えているんだ。若者を食い物にしてお金を得ようとか…恥ずかしくないのであろうか。
「ねぇ、今とても耳障りの悪い単語が聞こえてきたんだけど…まさかと思うけど、君、売春させられそうになっていたの?」
「未遂だよ!? 病院帰りにこのおばさんと女衒に捕まりそうになったところを逃げてきたんだよ!」
そこがとても重要だから強調しておく。私には一切その気はない。
この身体は私一人のものじゃない。エリカちゃんの大切な身体で私は生きているのだ。貞操を守り通すべき大切な大切な身体だ。
それを売春なんて、不特定多数の何処の誰かもしらない男に穢されてたまるか。絶対に嫌だよ。断固拒否である。
拉致されかかって逃げてきた自分は被害者であると訴えると、上杉はいつもの人の良さそうな笑みから、スッと無表情に変わった。
そのチャンネルの切替えに私はギクッとする。今回その表情を向けられる対象が私ではなく、後ろでキーキー騒いでいる瑞沢母であるとしても、コイツの無表情は不気味でやっぱり怖い。ヒッと悲鳴を漏らしてしまいそうなのを我慢して抑えた。
「…あぁ、何処かで見た顔だと思ったら…瑞沢さんのお母さんか。彼女達の間でなにかゴタゴタがあったというのは知っていたけど……」
上杉は目を細め、瑞沢母を見据える。あの蛇のような、獲物に狙いを定めた視線。横から見ているだけでも怖い。
対する瑞沢母は神経が図太いのか、上杉の怖さを知らないのか…相手が高校生だからナメているのかもしれない。ただ上杉を苛立たしげに睨みつけていた。
「つべこべ言わずにその女をこっちに寄越しなさいよ。今日中にまとまったお金が必要なのよアタシは」
「…何をさせるつもりか聞いても?」
「!?」
上杉の問いかけに私はぎょっとした。
おい。急にどうした。あんたならそんなことを聞かずとも察しているだろう。売春という単語ひとつでわかるだろうが!
何故改めて確認するのかがわからず、私は上杉を唖然と見上げていたが、上杉は瑞沢母から視線をそらすことは無かった。
「そのガキはね、アタシの邪魔をしたのよ。だから責任を取らせるの。本来なら娘を売れば10万円が手に入るはずだったのに……邪魔をするからいけないのよ。それに、その女ならもっと高く売れるだろうって言われたの」
話が通じないし、話を聞いても理解できないし、対話を促しても無駄だと思う。私は上杉と瑞沢母の動きを見ながら、110番しかけたスマホを持ち上げて、電話をかけた。
「…はっ…たった、10万円ぽっち…それよりも高く? あははは…!」
ヒィィィ! 急に上杉が笑いだしたー!! とても愉快そうに笑っている…!
ねぇ、今の話の何処が面白かった? こっちは身の危険を感じて逃げてきたのよ? 10万円がツボったの? 上杉の笑い声は恐怖をそそって背筋が寒くなるよ!
『はい、110番です。事故ですか、事件ですか?』
「助けてください! サイコパスが…じゃなくて、路上で拉致されかかりました!」
電話口で変なこと言っちゃったじゃないの。上杉のせいだ。
この会社に逃げ込んだはいいけど、サイコパスと金の亡者に挟まれたなら、自分でなんとかするしかない。だって目の前でサイコパスが腹抱えて笑ってるもの。なんなのこいつは。
私は電話の向こうの相手の質問に答えていく。こっちはテンパっているけど、110番の職員さんは冷静だ。そのお蔭でちょっと私も落ち着きを取り戻した気がする。
私がキョロッとあたりを見渡すと、ガラス張りの会社の外の大通りにはあの白いワゴン車が路上駐車されていた。女衒おっさんは車から出ていたが、こちらの様子を窺って、何かを察したのか1人で車に乗り込んでいた。
「あっ! 車のナンバー、めの〇〇ー17! 白いワゴン!」
女衒おっさんは瑞沢母をこの場に放置してとっととずらかることにしたみたいだ。車を発進させて立ち去ろうとしていた。
だが、また同じ過ちを繰り返されてはたまったものじゃないので、逃す前に電話の向こうの相手の話を遮る形で叫んだ。…確か110番って通話の内容録音されてるよね?
「…坊っちゃん、追いますか?」
「うーん、いいよ。今彼女が車のナンバーを伝えたからそれを元にして探してくれるだろうし」
ようやく笑いが収まった上杉のそばにいた黒服の裏社会にいそうなおじさんがそう問いかけると、上杉は首を横に振っていた。
警備員さんが会社の出入り口を封鎖して瑞沢母を逃さないように見張ってくれている。警備員さん、ナイスファインプレーである。
上杉の親の会社に逃げてきたけど、上杉はあまり役に立っていない。警備員さんが活躍しているだけじゃないか。よし、このまま恩を作らないで警察を呼んで二階堂パパママに連絡して…
私は110番通報を終えて、警察の到着を待つと同時にママへ連絡した。簡単に説明を聞いたママがすぐにこちらに向かうと言ってくれた。
「あ、もしもし慎悟? ごめんね、今電話大丈夫?」
念の為に慎悟にも電話をしておいた。忙しいと思ったけど、後でこの事を知らされたら多分慎悟が傷つくと思うんだよね。一応報告だけしておこうと思って。
こういう事があってこんな状況になったが自分は無事。今から警察と二階堂ママがやってくると説明をしていたら、「10万円はいくらなんでも安すぎるよねぇ? 僕ならもっとお金積むけど」とサイコパスが横から口出ししてきた。
「上杉うるさい!」
「冷たいなぁ、僕の家の会社に駆け込んだから君は助かったのに」
「うん、そこの警備員さんの迅速な対応のおかげで助かったよ? あんたはただ笑っていただけじゃない」
慎悟と電話中なのに邪魔をするな。話の途中なんだ。私は上杉から数メートル離れて再びスマホに耳を傾けた。
「ごめん、話の途中で」
『…今、上杉の家の芸能事務所にいるのか』
「ん? うん。私が病院の近くで拉致されかかってね…警備員さんがいたから、助けてもらおうとそこに逃げこんだら、たまたまそれが上杉の家の会社だったんだ…」
別に狙って助けを求めたわけじゃないよ…その辺の会社の出入り口は無人だし、鍵がかかって入れないかもしれないじゃない。とにかく女衒達に捕まりたくなかったから、ここまで必死に走ってきたんだよ。
『わかった。今からそっちへ向かう』
「え?」
慎悟はそう言い切ると、一方的に電話を切ってしまった。報告のために電話をしただけであって、呼び出したつもりではないのだけど。
今から警察とママ来るし…
「何よ! なんで鍵かけてんのよ!」
共謀者が逃げたとようやく気づいた瑞沢母が扉をガチャガチャしているが、封鎖されているので開けられない。そこのところセキュリティの観点から、簡単に解錠できないようになっているらしい。
「おばさんは自分のしていることが犯罪だって自覚して。警察でしっかり自供してね?」
私が諭すように掛けた言葉に苛ついたのか、瑞沢母が殴りかかろうとしてきた。私は両手を顔前でクロスして防御すると、サッと後退りした。
「往生際が悪いなぁ」
カッコつけたいのか、自然と手が出たのかは不明だが、そこは上杉が庇ってくれた。奴は瑞沢母の手首を掴んで拘束した。瑞沢母は暴れているが、そこは男子の力に敵わないようである。
…なんだろうな、これが他の人なら素直に「助けてくれてありがとう」とお礼が言えるけど、コイツとなると今までの事があるので、素直にお礼を言いたくない……お礼を言った途端なにか見返りを求められそうであるし…
早く警察と二階堂ママ来ないかな……
瑞沢母がキーキー騒ぐもんで、広いロビーに反響してやかましい。この事務所所属のアーティストMVがロビーの大画面に流れているけど、瑞沢母のヒステリックな叫びがそれをかき消している。
あー…あれだな、あの警備員さんにはなにかお礼をしなきゃなと私は先のことを考えながら、到着を待ったのであった。