家庭教師の先生が決まりました。私のレベルに合わせてくれるいい先生です。
「
井上 飛鳥 と申します。よろしくお願いいたします」
「二階堂エリカです。こちらこそよろしくお願いいたします」
二階堂ママが探し出してくれた家庭教師の先生は、英学院の大学部に通う現役大学生だ。あすかさんと聞いていたから女性かと思ってたけど、現れたのは男性だ。
英学院高等部にはセレブ生と一般生がいるが、それは大学部でも同様だ。高校よりも大学の学費は高く、奨学生じゃない生徒は学業とバイトに追われている人も少なくないそうな。
大学部の奨学生は学費がタダだけど、その他の教科書代などの諸費は自腹である。高等部では制服や学用品の補助金も出るのに、大学はそこんとこのサポートはないそうだ。なんでだろうね。
しかし、その分一般生達は学業に熱心で、毎年優秀な学生を輩出してるそうだ。二階堂ママはその大学に家庭教師のバイトの募集をしたそうだ。二階堂パパママの母校だし、学生にとってもメリットが有る。
お手伝いさん達は用事がない限り離れの住まいにいるから、異性と二人きり状態なのは大丈夫かなと思ったけど、念の為に勉強場所のリビングに監視カメラを設置したそうだ。
とはいえ、面接に面接を重ね、素行調査などもした中で井上さんに決まったそうだから、滅多なことは起きないだろうとママは言っていた。お手伝いの登紀子さんもたまにお茶を持ってくる名目で様子を見に来てくれるそうだ。
初日から家庭教師の先生である井上さんから、幹さんお手製プリントのような分厚い紙束を渡された。これぜーんぶ宿題だってさ…
一般奨学生らしく、彼は粘り強い。アホな私のレベルをすぐさま理解し、わかりやすく噛み砕いた教え方をしてくれる。話す言葉を選んで余計なことは言わない。私が混乱しないように話してくれているのだ。もともと地頭もいいのだろう。秀才な彼は幹さんと話が合いそうだなと感じた。
井上さんは適当に切りそろえた黒髪、ファストファッションで決めた服装のフツメンだ。男性としては細身で、ご飯をちゃんと食べているのかと心配になる細さ。栄養不足なのか顔色がいつも悪い。
初日はお嬢様らしい服を着て勉強を教わっていた私だが、彼のそのシンプルな格好に合わせてその次の家庭教師の日からは着慣れたカジュアルな服に移行した。楽な服で勉強するのが一番である。
勉強や学校以外のお話はあんまりしない。彼も生活や学業のためにこのバイトに応募したのであろうから、私も必要以上に踏み込まないことにしている。
しかし…幹さんバリに宿題出すあたり、鬼だな。私過労死しちゃう。
休憩時間にはお手伝いの登紀子さんがおやつを用意してくれる。おやつが出てきた時の、井上さんの食いつきは半端ない。お腹が空いているのだろうか。
もっと太らないと、免疫弱って病気になっちゃうぞ井上さん。
■□■
「本当に大丈夫ですか?」
「うん…家庭教師の先生から沢山…沢山課題出してもらったからもう大丈夫だよ。それに幹さんは大学進学の奨学生試験も受験予定じゃない。今までありがとうね」
私が幹先生の特別講座を辞退すると、幹さんはなんだかしょんぼりした様子だった。肩の荷が下りてホッとするところじゃないか?
あ、まさか家庭教師にはお給料を払っているから、今まで頑張って勉強を教えてきた幹さんも見返りに金品が欲しいとか…
「えっと今度なにかおごるよ…それともお金がいい?」
「違いますよ。お金が欲しいんじゃありません…私が二階堂様の成績を押し上げて見せたかっただけです…」
…幹さんはマゾなのだろうか。
彼女はアホな私の成績を上げようとこれまで涙ぐましい努力をしてきた。私の成績は底辺から浮上したものの、150から200位の間を彷徨っている。…彼女には本当に申し訳なく思っている。
でもね、これでも頑張ってるんだよ? 以前は最後から数えて…て感じだったから、かなりマシになったの。でもスタートラインが違うんだ。幹さんの指導通り基礎からやり直してじわじわ理解が追いついている感じ。皆に追いつくのはまだまだかな。
今の私は家庭教師から出された宿題を学校の休み時間を使って片付けている最中だし。私超頑張ってると思わない?
「家庭教師の先生って男?」
「ん? そうだよ」
「加納君が心配するんじゃない?」
「変なことする人とは思えないし、いざというときの対策は練ってるよ。離れにお手伝いさんも待機しているし」
求人に応募してきた人の中に女性もいたけど、結果井上さんに決まったんだ。一連の流れを慎悟に教えたら「そうか」とあっさりしていたよ。
誰もが邪な事を考えるわけじゃないと思うから大丈夫だと思う。上杉じゃあるまいし。
「…すごいです。…このプリントとてもわかり易い」
幹さんは井上さんお手製のプリントを前にしてわなわな震えていた。まるでプリントに親を殺されたような目をして睨みつけている……もしかして彼女のプライドに傷をつけてしまっただろうか?
でも井上さんも幹さんと同じ、英学院の高等部からの外部生・奨学生なのだ。幹さんと話が合う気がするんだけどなぁ。
「井上さんは教師を目指しているんだって。幹さんと同じ成績優秀な奨学生で、他にもバイトしてるすごい頑張り屋さんなんだ」
他のバイトで塾の講師もしているそうだけど、あれはコマ割分の給料しかもらえないから全然足りないとか。それに加えて別にもバイトしているみたいだ。
忙しそうなのにトップレベルの成績が維持できるということは、時間の使い方が上手なのだろう。是非ご教授頂きたいところである。
中間テスト目前ということで、クラスには休み時間も自習している人がちらほらいる。私の彼氏も同様にこの休み時間を使って勉強していた。
「加納様、すごい気合ですわね…」
慎悟の様子を私が遠くから眺めていると、同じく慎悟を観察していた阿南さんがほう、と感心した様子で言葉を漏らしていた。
「上杉に勝ちたいんだって。あわよくば幹さんを超えたいみたい」
「私も油断できませんね」
幹さんはそう言って、使い込んでいる教科書を開いていた。だけど全く焦りが見えない。ニコニコ笑って余裕の表情だ。…主席の座は絶対に譲らないつもりらしい。
成績優秀で奨学生になった生徒は定期テストで毎回必ず学年30位以内に入らねばならない。だから彼らは毎回上位に食い込んでいる。
高等部の奨学生は学費、教材費、制服や体操着代などの補助金が出るが、その上に各々の成績に応じて、オプションで返済不要の奨励金を支給されるそうである。…となると、毎回主席の幹さんは満額貰っていることになるな。
奨学生の彼らは後々の大学費用のためにも、成績維持そして向上に努めているそうだ。そうね、お金はあったほうがいいよね。
井上さんも「高校の時頂いた奨励金は大学入学と同時に消えました」と言っていた…。教科書や教材代で一気にお金が飛んでいったそうだ。
学年を上がるとまた新しい教材を買う必要があって、その上、参加する講義やゼミでまた別の出費も発生する。
…親が費用を出せない場合は、学生がバイトして貯めたお金で払わざるを得ない。生活費食費を削って極限生活していたらああも不健康になるよね。
…その辺、英学院がどうにかしてやればいいのに。大学寮とかないの? 優秀な人材が潰れちゃうじゃないの。
機会があったら井上さんと幹さんを会わせてみたいなぁ。きっと為になるお話が聞けると思うんだ。
そうだ登紀子さんに頼んで、お持ち帰り用のご飯を包んでもらおう。一食分浮くだけでも井上さんはだいぶ助かると思うんだ。アホな私の先生をしてくれているんだ、このくらいはいいだろう。
「聞きましたわよ二階堂さん、あなた慎悟様という御方がいるくせに、若い男性を家に引っ張り込んでいるそうじゃないの」
巻き毛が、トイレの個室から出てきた私を待ち伏せしていた。…ちょっとやめてよ…なんでこんな所で絡んでくるのよ…
「言い方悪いな。家庭教師の先生だよ。ママが面接して決めた、優秀な大学生。慎悟も存在を知っているよ」
私達の会話を盗み聞きしていたのか。趣味が悪いなぁ。
私がゲンナリした顔を隠さないで巻き毛と対峙していると、彼女は今日も決まっている巻かれた髪を後ろに払っていた。なにが愉快なのか、気の強そうなその顔を歪めて勝ち誇ったように笑っている。
「ふん、あなたのことだもの、その大学生の事を誑し込んでいるのでしょう? すぐにボロが出るはずですわ」
「人をビッチみたいな言い方しないでくれる? 私は別に男を誑かして無いからね?」
「…去年卒業した3年生、西園寺財閥のご子息、それに上杉様、挙句の果てに慎悟様まで…! 言い逃れはさせませんわ!」
「慎悟以外はお断りしたよ! 上杉に至ってはストーカーだからね!?」
エリカちゃんが美少女だから寄ってくるんだよ! 私のせいじゃない! あとビッチ扱いすんな!
だけど巻き毛が私の訴えを聞き入れるはずはなく、ただ言いたいことを言いに来ただけのようである。
「最後に笑うのは私ですわ! せいぜい今のうちに慎悟様との蜜月を愉しめば宜しいのよ!」
そう言い捨てると、巻き毛はオホホホ…と高笑いをしながら女子トイレから出ていった。いつもながら嵐のような女である。あの自信はどこからやってくるのかな…
私は手洗い場で手をゴシゴシ洗いながら思った。家庭教師が男性だったと話した時の慎悟の反応はそんなに悪くなかった。けど…実は不安に思っていたりするのだろうかって。
教室に戻った私は勉強中である慎悟のそばに寄って行くと、気配を察した慎悟が顔を上げた。
なので、気になったことをストレートに聞いてみた。
「私の家庭教師が男の人で、慎悟は複雑?」
「…面接を重ねた上で対策はしているんだろう。それにあんたのレベルに合わせた指導をしてくれているんだ。全く問題ないんじゃないか?」
「…本当に?」
私はじいっと慎悟をガン見した。慎悟の心の内を探ろうと見つめてみたのだが、慎悟は呆れた目を向けてくるのみだ。
「…むしろ、あんたの成績のほうが心配だ俺は」
「私だって頑張ってんだよ!」
私は席に座っている慎悟の後ろに回って首にホールドしてやった。「…重い」と文句を言われたけど知らーん。
慎悟の頭に顎を乗っけて遊んでいると、机の上に広げられた問題集とノートが目に映った。整った字は慎悟の真面目な性格を表しているように綺麗に配置されていた。字が綺麗だから余計にノートも綺麗に見える。
「慎悟は習字をしていたの? 字が綺麗だよね」
「だいぶ昔な。…顎で遊ぶな」
だってテスト期間に入ってからは相手してくれないから寂しいんだよう。5分位相手してよ…。と訴えた。
すると慎悟はため息を吐いていた。
わかってんだよ。これ私のわがままだって。勉強が大事なのはわかるけど寂しいんだよ。
慎悟は腕を持ち上げると、未だに彼の頭に顎を乗せた状態である私の頭をワシワシ撫でてきた。
「…教科書とノート持ってこいよ。家庭教師に作ってもらったプリントでもいいから」
「うん!」
一緒に勉強していいと言われた。私は嬉しくなって、浮足立ちながら教材を持ってきた。
それから約5分後に加納ガールズに見つかってしまい、私達は引き剥がされてしまった。なんだこのロミオとジュリエット感。
勉強していただけなのに…短いお勉強タイムだった…