食後、うがいやもう一度のお手洗いを済ませてから、自室に戻り、あらかじめ前の晩に用意してあった私服に着替えた。用意しておくのが、昔からの僕の習慣だったからだ。
 塾には、私服のコーディネートが面倒で、通っている学校の制服で来る生徒も多くいたが、僕にとっては、制服は息苦しいものだったので、家から塾に行くときには、いつも私服を着用していた。
 携帯電話で今日の天気と気温を確認してみると、晴れだが、少し肌寒いらしい。紫の七分袖のシャツに、黄色い薄手の長袖シャツを羽織る。下はジーンズと決まっている。ジャージ姿の人もいるが、僕は手を抜きたくなかった。
 塾用の鞄にも、きちんと今日使う予定の問題集が入っていた。その一つ、数学の教材を出して、ぱらぱらと眺めてみる。目に付いた、図形についての問題の解き方を、頭の中でシミュレーションしてみる。もう何十年もやっていないような問題だが、案外すらすらと解答の過程をイメージすることができた。
――なるほど、勉強に使う頭脳は、当時に戻っている、と。
 それなら、この日々にも上手く適応できるのだろう。大学受験に向けてのシーズンでもあるのだ、そうでないと困るのだが。
 その問題集を鞄にしまい、チャックを閉じてそれを持つ。廊下の掃除をしていた母に声をかけた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけなさいよ」
「分かってるって」
 ここから塾までは、自転車で十五分ほど。算数の問題ではないが、学校の位置も地図に書き込むと、自宅、塾、学校を繋いで、綺麗な三角形ができる。塾までの道順も、完全に覚えていた。ほどんど真っ直ぐで、曲がるのは二箇所だけ。途中、コンビニに寄って、おこづかいで焼き魚弁当とジャスミンティーを買う。
 大通りに面した塾のビルの駐輪スペースに、大学卒業まで愛用していた藍色の車体の自転車を停めて、同じ高校の、新学期前なので去年のものではあるが、同じ学年、同じクラスのシールを貼った、ダークグリーンの自転車を探す。それは端の方に停めた僕の自転車から、六台左にあった。
――あいつ、相変わらず早いことで。
 それは、『彼』の自転車だった。彼が来ていることに安心して、玄関から建物に入り、二階、まだ授業前でざわざわしている教室に入る。ここには僕と同じ高校に通っている人も多い。
「よう、シンちゃん」
 その中で、その人は、いつも真っ先に僕を見つける。整った顔立ちに、色素の薄い肌に目。背は高くないがイケメンで通っていて、何人もの女子に告白されても、全部振って誰とも付き合っていないらしい男。
 葛木蓮(かつらぎ れん)。
 彼もまた、僕と同じようにプライベートで制服を着るのを嫌がっている。今日はピンクのパーカーを着ていた。
「はいはい、おはよう」
「んだよその返事、つれねえなあ」
「そんなもんなの」
 塾の机は長机で、一つの机に椅子が三つ。縦に三列並んだ机、いつも彼は、学校が休みの日の授業には、僕より先に来ていて、真ん中の列の一番後ろの机の一番右に座って、真ん中の机に荷物を置き、左端の席には絶対に僕以外の誰かを座らせたりしない。それは高校二年の夏、僕が彼に勧められて、彼と同じ塾、同じクラスに入ってから、ずっと続いている。
「テスト、自信あるか?」
「普通かな。もう少しできたら良かったのだけれど」
「お前の『普通』は怖えよ」
「それはお互い様なんじゃないの」
 生徒手帳に書いてあった通り、どうやら僕は、この塾で、一週間前にセンター試験の模擬試験を受けていたようだった。当然、今の僕には、受けた記憶が直前ではなくなっているし、模試一つ一つの手応えや成績なんて綺麗さっぱり忘れているが、そこは適当に返事をしておく。
 ジャスミンティーをコンビニの袋から出して、それを一口飲んでから、弁当が傾かないように、真ん中の椅子に置く。今日はその模試の返却のあと、覚えていたいつものパターンに沿えば、正答率が低かった問題の解説をして、それから問題集に載っている似たような問題をするのだろう。問題冊子と解き直し用のノート、シンプルな緑色の下敷きに、黒い横長のペンケースを机の上に出す。同じような準備を、僕が来たときには既に済ませていた蓮は、紙製の筒に入った薄塩味のポテトチップスをさくさくと食べていた。また朝御飯をろくに食べていないのだろう。
「いるか?」
「一枚か二枚ぐらい」
「んな遠慮するなよ。ほらよ」
 ああ、こいつはいつも、何でも希望より少し多めに分けてくれるやつだった。右手に載せられたのは三枚だった。家ではあまりお菓子を食べないので、それを一枚ずつ、ゆっくりと食べていると、三枚目が残り半分というところで、前の扉から眼鏡をかけた先生が入ってきた。僕はそれを一度に口の中に収めた。
「はーい、授業始めるぞー」
 ざわざわしていた空気が、一気に引き締まる。蓮も筒の蓋を閉めて、デニム生地のバッグに押し込んだ。
「では、先週の模試の結果を返却します。まずはいつも通り、成績トップスリーからですね。第一位、葛木蓮」
「ほーい」
 あ、今回は負けてしまったか。いつも塾では、僕とあいつはトップスリーに入るが、どちらが上か、競うのが常だった。さも当然、という風に成績表を受け取って戻る彼に、教室中の羨望の眼差しが向けられる。僕は彼がそういう視線を、複数の人から向けられるのが、どうも気に食わなかった。
「第二位、布田信司(ふだ しんじ)」
「はい」
 まあ、そんなものだろう。講師から受け取った成績表を蓮と見比べてみると、国語と社会科科目の成績で差をつけられたことが分かった。国語はともかく、僕は暗記が多い社会科は少し苦手だった。
 第三位は女子生徒で、それ以下は名前の五十音順に返却された。それから、国語の古文の問題の解説が始まった。


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