27 ご褒美と言う言葉の威力は凄い。
例えば行く先に待ち受けていることが絶対に耐えられないと思っていても。
それを超えれば褒美があると思ったら、それだけで耐えようという思いが生まれる。
まるで、魔法の言葉のようだ。
Side Kaname 俺は馬鹿だけど。
それは基本的に漢字が読めないとか、算数ができないとかそういう意味の馬鹿だと思う。
だから例えば言葉の意味とか、その言葉の裏にある真意とか。回りくどく言っているけど伝えたいこととか。そういうのを理解することに関してはそこまで馬鹿じゃないと思う。
言葉の中に意味の分からない単語とか入ってたり、あまりに解釈の難しいことを言われたりしたらそれはそれで話が別だけど。
もしもUSBをなくしても、どこにも行かない?
その質問をした時に、今まで分からなかったことをいっぺんに理解してしまった。
キスがすごく癖になっている理由も。
誰かに調教されていると分かった時に苛々した理由も。
頭を撫でられて変な感じがした理由も。
抱きしめられると安心する理由も。
手錠に何の楽しみも感じなくなった理由も。
今度こそ何もかも、分かってしまった。
本当に最悪だと思った。
分からなければ、分からないふりをしていれば、それでよかった。
そうすれば今までと同じだった。
例え二度目に新しい約束を交わしていても、まだ引き返せた。
今までと同じように、約束だけの関係でいられたんだ。
引き返そうと思った。
自分の発言をなかったことにして、そうして今まで通りでいようと。
今まで通り、約束だけの関係に。
だけど大晟は…そうはさせてくれなかった。
そうしようとする俺の思いなんてまるでどうでもいように。
俺は…馬鹿だけど。
言葉の裏にある意味とか、伝えたいこととか、そういうことは理解できる。
でも、あんまり解釈の難しいことを言われたらできないかもしれない。
「責任取れよ。どこにも行かないどころじゃ済まさねぇからな、覚悟しとけ」
俺がその言葉から理解できたことはたった一つだけ。
そしてそれを理解して分かってしまったことも、たった一つだけ。
俺がUSBをなくしても、大晟はどこにも行かない。
俺はそれが、どうしようもなく嬉しい。
もう引き返せない。
それは分かっているけど、分かってしまったけど。
もう二度と、あんな思いをしたくない。
だから俺は、前に進むこともできない。
**
甘ったるい味が口の中に広がる。
かれこれ何度目かになる味を味わいながら、息を吐くと白い煙が上った。
まるで労働の時みたいに繰り返す単純作業。違うのは、労働の場合常にやめたくて仕方がないけど、これはやり始めると止まらなくなることだ。
「吸いすぎだ」
「あっ、…た、大晟っ」
煙を吐いたら、今度は煙を吸うために煙草を口に運ぶ。そんな風にやめられなくなっていた単純作業を、唐突に強制停止させられてしまった。
見上げた先に、今の今まで俺の思考を悩ませていた張本人がいて思わず言葉が混乱する。
「何だよ」
「な…ん、でもない」
スムーズに言葉が出て来ない。明らかにおかしい態度の大晟は顔を顰めたが、それでもそれ以上突っ込んではこなかった。
ただその代わりに今一度「吸いすぎだ」とだけ言い放った。
「そんなに吸ってねぇだろ」
わざわざ二度も言わなくても、この前みたいに煙で周りが見えなくなってるわけでもない。
灰皿にだって、そんなに吸殻が……あれ。
「3箱も吸っといて何がそんなにだ」
「さん…!?…ほ…本当だ……」
足元に空の箱が3つ転がっていた。
最初に手にしていた箱に10本以上入っていたことは覚えている。机の上にある4箱目の中に残っていたのは4本だった。つまり、確実に3箱以上は吸っている。
これだけ吸っていたら、この間の時よりも煙が凄いはずなのに…そう思って辺りを見回したら、この間の時は閉まっていた部屋の入り口が開いていた。だから煙が充満しなかったのだ。
「もっと早く言えよ」
「前にも言っただろうが。時と場合くらい弁える」
そう言えば言っていた。
俺の何が分かるのか聞いたら、分からないから弁えてるだって言ってた。
俺の何も分からないという大晟には、何がどう見えているのだろう。
「一体どういう風に見えてんの?」
「は?」
俺から煙草を奪った大晟は、既にベッドの上に戻っていて小説を開いていた。
もうすっかり大晟の定位置だ。
「今の俺が、どういう風に見えてんの?」
ベッドの上に移動して、今度は俺が大晟の小説を奪う。
文句を言われると思ったが、大晟は溜息を吐いただけだった。
「言ってもいいけど、怒って盛るなよ」
怒って盛るって、どうなのそれ。
一瞬意味不明だと思ったが、よくよく考えると確かにそうだ。
怒ったか機嫌を損ねた時には大体その場で襲うか、後で覚えとけよってなって結局襲う。どうしてそうなるのかは、そうすれば大晟が黙るしかないから―――黙ってねーじゃん。
その場で襲う時には後からぶつぶつ文句言うし、後で覚えとけよって時はその場で平気で文句を言う。
そう考えると盛るだけ無駄なような気がする。いやでも、それとは別に24時間年中無休の性欲があるっていうのもあるから、結果的に怒っていようがいまいが多分盛ってるんだけど。
とはいえ、それも今日は違う。
「今日はどうせハードだから、怒っても後回しだな」
「後にも回すな」
「いいから、どういう風に見えてんの?」
ちなみに、後に回すなっていうのは流石に約束できない。
一体どれほど怒らせる気なのか知らないけど。
多分、何を言われても怒る気にはならないと思う。
「その紫の眼が淀んでる」
大晟はそう言って、俺の眼に手を伸ばした。指が目じりに触れて、そのまま輪郭を撫でる。
くすぐったい。
くすぐったくて…、温かい。
「いつもの紫は、あまり感情を写さない。まぁ最近は目なんて見なくても感情駄々流しだけど」
「駄々流しって……」
別に感情を隠してるわけじゃないけど。
駄々流しっていう言い方はどうなんだろう。なんか嫌だ。
「その淀んだ紫は、感情を写してる」
「どんな…?」
「あの頃の俺と同じだ」
俺は大晟が“あの頃”という時期の詳しい話は聞かなかった。
だからそれがスペードのAに関係している時期だということしか知らない。
それが、思い出すだけで壊れてしまいそうになるくらい辛い日々だったことは分かる。
大晟はその頃の自分と、俺が同じだと言いたいのだろうか。
「恐怖と絶望」
恐怖と、絶望。
大晟の言葉を頭で繰り返す。
「恐怖と、絶望……」
今度は口に出して、もう一度繰り返した。
怖いのは、望んでもいない苦しみと痛みを与えられること。
絶望しているのは、それが終わることのないものだから。
「当たってる」
俺はいつでも、検体に行くのが怖くて怖くて仕方がない。
この日が来るたびに感じる恐怖が、終わることがないということに絶望している。
「俺はお前が何を怖れて、何に絶望しているのか分からない。仮に知ったとしても俺にはどうにもできない。だから弁えてんだよ」
大晟はそう言って、俺の頬を撫でた。
やっぱりくすぐったかったけど、すごく安心した。
この間のグレートの後も、そうだった。
俺は欲しているんだ。この、安心する温かさを。
「……どうにかできることがあったら、してくれんの?」
問うと、大晟は少しだけ驚いたような表情を浮かべた。
「できることが…あるのか?」
それは俺の問いに対してイエスではなかった。でも、ノーでもなかった。
また少しだけ、安心した。
「検体は…いつもすごく、痛くて…、苦しい。だから…行くのが怖い。ハードの時は…終わってからも苦しいから…もっと怖い」
ナチュラルの時はそれで終わる。ハードとグレートの時は数日間それが続く。
ただどちらにしても。
その時の痛みや苦しみがなくなったからといって、それを忘れられるわけじゃない。
俺はいつも、忘れられない痛みと苦しみを考えないようにしている。
考えれば考えるほど怖くなって、行きたくなくなる。
でも、いくら俺が怖がっても、その痛みと苦しみを回避することはできない。
俺は少しでも恐怖を和らげたくて、考えたくなくて、煙草を吸って気を紛らわせている。
「でも…この前のグレートの時は…大晟のおかげで、すぐ…、苦しくなくなったから。だから、もしまた、俺が戻ってきたとき…この前みたいにしてくれるなら…」
「少しは怖くなくなる?」
「…うん」
痛いのも苦しいのも変わりないし、それが終わるわけじゃない。
でも、少なくとも。
この暖かさはそれを和らげてくれる。俺を安心させてくれる。
もしも、あの痛みと苦しみの先にそれがあるのならば。
「要」
大晟は俺の名前を呼んで、それから俺の腕を引き寄せた。
素直に腕の中に収まると、頬だけじゃなくて全部が温かかった。
「待ってる」
それが今日の夜中のことか、それともこれからずっと先のことか。
大晟はどこにも行かないって言った。
だったら、ずっとそうであると思ってもいいのだろうか。
そうであってほしい。
そんな風に、期待してしまう自分がいる。
俺はもう自分の気持ちも、それが引き返せないことも分かってる。
それでも俺は、前に進めないのだろうか。
何もかも分かってしまった中で、それだけが分からなくなってしまった。
**
この間のグレートで流石に懲りたから、今日は10分以上も前に到着した。いつもギリギリで既に部屋が解放された後だから誰かと顔を合わせることなんて滅多になかったけど、早くくると検体室の前には既に数人の検体者が集まっていた。
みんな意欲的で何よりだな。
「あれ、要?」
意欲的な検体馬鹿たちから視線を逸らして振り向くと、意欲的じゃない検体マイスターがいた。
俺が今日検体だってことは知ってたはずなのに、どうして不思議そうに首を傾げているのだろうか。
「ゆりちゃんも今日だったんだ」
「ああ。んなことより、お前がこんなに早く来てるなんてどうしたんだ?一瞬見間違いかと思った」
ああ、それで不思議そうな顔してたのか。
「俺いい子だから」
「本当のいい子は、2回連続でグレートぶち込まれるようなことしねーの」
「人のこと馬鹿にしてっけど、ゆりちゃんはちゃんといい子してんのかよ?」
風の噂で、この間なぜかうちの棟で看守に喧嘩売ったって聞いたけど。
「俺とお前とじゃ検体のレベルが違うんだぞ」
「いい子してなきゃ身がもたない?」
「そういうこと。いい子してるおかげで本日も見事にマスターゲットだぜ」
「…は?」
ちょっと待て。
誇らしげに何言ってんのこの人。
「今日で連続4回目だから、あと3回で新記録だな」
「よ…!?」
敢えて繰り返そう、まじで何言ってんのこの人。
4回連続マスター?あと3回で新記録!?
ということは、過去に6回も連続でマスター受けたことがあるっていうのか。
冗談だろ。
これじゃあ検体マイスターっていうより、検体マニアじゃねーか。
「俺ってば政府の実験に貢献しまくってる超いい子」
いや馬鹿だろ。俺より馬鹿だろ。何やってんの。
その観点でいい子が決まるなら、俺だって中々いい子だっつの。
「よく笑ってられるな」
連続でマスターなんて体にかかる負担だってその分増すから、回を重ねるごとに辛くなるはずなのに。
何でこんなに、まるでゲームしてるみたいに気楽でいられるんだろう。
「お前みたいに見るにも堪えないくらい後遺症があるなら話はべつだけど、それもないし。少なくとも6回連続時点では」
確かに俺みたいに後に引きずるかどうかは大きいことかもしれないけど。
ていうか、今から正にそうなる予定の相手を目の前に、見るに堪えないとか言うのやめてくんねーかな。
「でも、少なくても前よりも痛くて苦しい」
「まぁそうだけど。お前と違って、俺には頑張ればご褒美が付いてくるからな」
「ご褒美…?」
首を傾げると、ゆりちゃんはニヤリと笑った。
「検体の後に純に甘えると大抵のことは聞いてくれる。それが重いやつだと尚のことな」
だから4連続マスターなんてなんてことない、とゆりちゃんは言った。
終わった後にご褒美があるから、検体の前でも笑っていられる。重ければ重いほどご褒美も大きいから、連続マスターだってなんてことはない。
「ご褒美……」
俺には今までずっと、ご褒美なんてものはなかった。重ければ重いほど苦しいだけで、終わった後もご褒美どころか後遺症しか待っていない。だから俺はいつも検体が嫌で、来るのもギリギリだった。
そんな俺が初めて10分以上早く来たのは、遅れてグレートにされたんじゃ溜まったもんじゃないからだと思っていたけど。どうやら早く来た理由はそうじゃなかったらしい。
「違わない」
「は?」
「俺にもある」
ご褒美、言い響きだ。
「お前…」
ゆりちゃんが驚いた顔して何かを言おうとした瞬間に扉が開いた。
いつもは足を踏み入れるのに躊躇するその先に、今日はすんなりと入ることが出来た。
ご褒美はある。
でも、もしもちょうだいって言ったら、他にも何かくれるかな。
ご褒美(もしももらえたら、前に進めるだろうか)
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